「読む会」だより3月用

「読む会」だより(19年3月用) 文責IZ

(前回の報告)
2月の「読む会」では、「抽象的労働」について、これまでのまとめになるような二つの質問が出されました。
ひとつは、労働のもつ(無差別な)抽象的人間労働としての側面が、資本主義社会において発見され認識されるようになったということであったが、資本主義社会以前の労働においても抽象的人間労働としての側面はあったということかという質問でした。
チューターは、およそ次のように答えました。第2節で「すべての労働は、……同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する」と言われているように、資本主義社会以前においても、すべての労働(具体的有用労働)が抽象的人間労働としての側面・属性をもつ──すなわちどれをとっても“人間の”労働であり、その一部分である──と言えます。しかしここで問題になるのは、発展した商品生産と社会的な分業をもつ資本主義社会においては、この無差別な人間労働としての側面こそが、商品の価値として、支出された労働が社会的労働と認められるための条件になるというところに歴史的な特徴があるということです。
以前の社会、たとえば封建制では、そうではありません。農民による年間に何日かの領主の土地での耕作とか年貢米の生産のための労働といった、種々の使用価値を生み出す具体的な有用労働の特定の姿そのものが社会的労働であるための(言いかえればそこでの社会関係の)条件でした。資本主義社会でも、直接的生産者である労働者が、その支配者である資本家を養うためにも労働を行なわねばならないという点では同じことです。しかしながらここでの社会的な労働は、単に支配者を養うためばかりではなく労働者自らが生活していくためにも、諸個人が行う具体的有用労働の姿ではあり得ず、商品の価値を生みだす無差別な人間労働でなければなりません。
というのは、社会の富が「巨大な商品の塊」(『資本論』の冒頭)として存在する社会においては、諸個人の労働は労働そのものとしてではなくて、商品に対象化された労働としてのみ他の労働と関係しうるのですし、種々別々な商品に対象化された労働が社会的な労働として相互に関係するためには、異種の商品を生み出す具体的有用労働としてではなく、他の商品に支出された労働と共通な、無差別な人間労働としてだけ、したがってまた量的にだけ異なるものとして相互に関係できるからです。商品の価値の実体である抽象的人間労働は、直接に感覚的な存在をもたないとはいえ、商品を生産するために支出された労働時間(社会的に必要な)として現実的なものであり、商品はこのことを共通な価格をもつことで表現しているのです。
マルクスは、別記の※参考(初版より)にあるように、「“社会的であること”の標準は、それぞれの生産様式に特有な諸関係の性質から借りられるべき」だと語って、ある労働が社会的なものであるための条件は、それぞれの社会に独自な歴史的なものだと語っています。
資本主義社会においては、抽象的人間労働であるということが社会的労働であるための条件ですが、抽象的労働であるということ(すべての具体的労働がそういう側面をもつということ)と、一定の社会においてどのような労働が人々を結びつける社会的労働であるのかということとは区別して考えるべきと考えられます。

また、「法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関連は不可解になるのである。」という意味がまだ分かりにくい、という意見が出されました。
前回この文章のすぐ前の部分を引用し忘れていましたので合わせて引用しておくと次のようです。
・「価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。@
たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。@
この取り違えは不可避である。というのは、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無差別な人間労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が別種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてのみのことだからである。
この転倒によっては、ただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。(以下に上記の文が続く)」(初版、国民文庫、P142)

前回も触れましたように、通常ならば、抽象的一般的なものは、具体的なもの、感覚的現実的なものの一般的な共通な属性として認められます。たとえば上着に含まれている裁縫労働には、それがあれやこれやの人間の労働のなかの一つであるという他の労働と共通な一般的な属性がありますが、このことには特段の不可思議さは見当たらないでしょう。このことをマルクスは「もし私が、ローマ法とドイツ法は両方とも法である<法という一般的属性をもつ>、と言うならば、それは自明なことである。」とその個所で語っています。
しかしながら、商品の価値関係およびそこでの価値表現においては、たとえば20エレのリンネル=1着の上着をとりあげてみると、二つの商品リンネルと上着は、同じ価値でありながらも、一方のリンネルはその価値を表現するものであり、他方の上着は相手のリンネルのために価値表現の材料になるものであるという役割分担のもとで、リンネルの価値が上着で表現されることになります。この場合、後者の上着(つまり他商品リンネル価値表現の材料になる等価形態に置かれる商品)においては、それに含まれる裁縫労働という労働は、裁縫という一つの特殊な具体的労働としてリンネルに含まれる紡績労働に関係するのではなくて、両者に共通な、人間労働の一実現形態としてのみリンネルと関係することになります(そうでなければ両者には共通なものがなく、共通なものがなければ両者は関係しえないのですから)。だから、その価値を表現するリンネルにとっては、リンネルによってその等価物(究極的には貨幣)とされる上着に含まれる裁縫労働は、それが人間労働でもあるという一般的属性をもつ具体的有用労働として認められるのではなくて、「人間労働であるということが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけ」という“転倒した”関係をもつことになります。つまりリンネルは、それと等しいとして対置される上着に含まれる裁縫労働を、自分に含まれる紡績労働と同じ、人間労働の一つの実現形態としてのみ認め、それが対象化された上着(究極的には貨幣)を、裁縫労働という具体的な労働が対象化された特定の使用価値としてではなくて、無差別な人間労働が対象化された塊=価値として取扱うことによって、自分を価値として表現しているのです。
具体的な労働をただ抽象的な人間労働の一実現形態としてのみ認めるというこの事象は、ただ商品相互による価値表現という関係のなかでだけのことですし、具体的な労働とそれがもつ人間労働としての抽象的な属性という両者の対立は、二つの同じものの単なる役割分担によってひき起こされるものです。しかし等価形態がある商品に固定化されるにしたがって、その商品が人間労働の塊=価値として認められることは、なにかその特定の商品がもつ自然属性と関連したもののように見え、したがって商品の価値表現は理解が困難なものになります。また等価物に置かれる商品(究極的には貨幣)にあっては、裁縫労働といった具体的な有用労働が同時に抽象的な人間労働の一部でもあるという一般的な属性をもつということが、裁縫労働は紡績労働にとっては具体的な労働としてではなくて、抽象的な労働の一つの実現形態としてのみ認められるという対立的で転倒した形で現われ、具体的有用労働とその一般的属性としての抽象的人間労働との関連がねじ曲げられるために、両者の関係が不可解なものになり、抽象的なものがなにか具体的なものから独立して具体的なものと並んで存在したり、あるいはなにか具体的なものを生みだしていくかのようなヘーゲル的な神秘化に迷い込むことにもなります。

(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」「a 貨幣蓄蔵」の2回目
2)金属流通の経済における貨幣蓄蔵の機能の一つに、一国に現実に流通する貨幣量をいつでも流通部面での飽和度に適合させるための、貨幣の流出流入の水路になるという機能がある。

貨幣蓄蔵については、現代においては金属貨幣の流通がなくなっているという事情のほかには、さほど難解な部分はないとおもわれますので、いくつかの引用だけで次の「b 支払い手段」に進みたいと思います。

・「使用価値としての商品は、ある特殊な欲望を満足させ、素材的な富の一つの特殊な要素をなしている。ところが、商品の価値は、素材的な富のすべての要素にたいするその商品の引力の程度を表わし、したがってその商品の所有者の社会的な富の大きさを表わしている。@
未開の単純な商品所持者にとっては、また西ヨーロッパの農民にとってさえも、価値は価値形態から不可分なものであり、したがって金銀蓄蔵の増加は価値の増加である。……」
・「金を、貨幣として、したがって貨幣蓄蔵の要素として、固持するためは、流通することを、または購買手段として享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。それだから、貨幣蓄蔵者は黄金呪物のために自分の肉体の欲望を犠牲にするのである。……」
・「蓄蔵貨幣の直接的な形態と並んで、その美的な形態、金銀商品の所有がある。それは、ブルジョア社会の富とともに増大する。……こうして、一方では、金銀の絶えず拡大される市場が、金銀の貨幣機能にはかかわりなく形成され、他方では、貨幣の潜在的な供給源が形成されて、それが、ことに社会的な荒天気には、流出するのである。」
・「貨幣蓄蔵は金属流通の経済ではいろいろな機能を果たす。まず第一の機能は、金銀鋳貨の流通条件から生ずる。すでに見たように、商品流通が規模や価格や速度において絶えず変動するのにつれて、貨幣の流通量も休みなく満ち引きする。だから、貨幣流通量は、収縮し膨張することができなければならない。あるときは貨幣<金銀>が鋳貨として引き寄せられ、あるときは鋳貨が貨幣<金銀>としてはじき出されなければならない。現実に流通する貨幣量がいつでも流通部面の飽和度に適合しているようにするためには、一国にある金銀量は、現に鋳貨機能を果たしている金銀量よりも大きくなければならない。この条件は、貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。蓄蔵貨幣貯水池は流通する貨幣の流入流出の水路として同時に役だつのであり、したがって、流通する貨幣がその流通水路からあふれることはないのである。」

※参考(「初版」での、第2版での一般的価値形態に相当する部分よりの引用)
・「1着の上着   =20エレのリンネル
u量のコーヒー =20エレのリンネル
v量の茶    =20エレのリンネル
等々
……
労働の直接的に社会的な物質化としては、リンネル、すなわち一般的な等価物は、直接的に社会的な労働の物質化であるが、他方、自分の価値をリンネルで示している他の諸商品は、直接的には社会的でない諸労働の諸物質化である。
実際にすべての使用価値が商品であるのは、ただ、それらが互いに独立な諸私的労働の諸生産物であるからにほかならない。私的労働、といっても、分業の自然発生的な体制の、独立化されているとはいえ特殊な諸分肢として、素材的には互いに依存しあっている私的労働である。それらの労働がこうして社会的に関係しあっているのは、まさにそれらの相違、それらの特殊な有用性によってのことである。それだからこそ、これらの労働は質的に違った諸使用価値を生産するのである。もしそうでないならば、これらの労働は相互にとっての商品にはならないであろう。他面では、このような違った有用な質だけではまだ諸生産物を諸商品にしはしない。もしある農民家族がそれ自身の消費のために上着とリンネルと小麦とを生産するとすれば、これらの物はその家族にはその家族労働のいろいろに違った生産物として相対してはいるが、しかしそれら自身が互いに諸商品として相対してはいない。もし労働が直接的に社会的な、すなわち共同の、労働であるとすれば、諸生産物は、それらの生産者にとっては共同生産物という直接的に社会的な性格をとるであろうが、しかし相互にとっての商品という性格はとらないであろう。とはいえ、われわれはここではさらに進んで、諸商品に含まれていて互いに独立している諸私的労働の社会的な形態がなににあるのか、ということを探求する必要はない。この形態はすでに商品の分析から明らかになっていた。@
諸私的労働の社会的な形態とは、同じ労働としてのそれらの相互の関係である。つまり、千差万別のいろいろな労働の同等性はただそれらの不等性の捨象においてのみ存在しうるのだから、それらの社会的な形態は、人間労働一般としての、人間労働力の支出としての、それらの相互の関係であって、このような人間労働力の支出は、すべての人間労働が、その内容やその作業様式がどうであろうとも、実際にそういうものなのである。どの社会的な労働形態においても別々な諸個人の労働はやはり人間労働として互いに関係させられているのであるが、ここではこの関係そのものが諸労働の独自に社会的な形態として認められるのである。ところが、これらの私的労働のどれもがその現物形態においては抽象的な人間労働のこの独自に社会的な形態をもってはいないのであって、それは、ちょうど、商品がその現物形態においては単なる労働凝固体という、すなわち価値という、社会的な形態をもってはいないのと同じことである。しかし、ある一つの商品の、ここではリンネルの、現物形態が、すべての他の商品がそれら自身の価値の現象形態としてのリンネルに関係するがゆえに、一般的な等価形態になる、ということによって、リンネル織りもまた抽象的な人間労働の一般的な実現形態に、すなわち直接的に社会的な形態にある労働に、なるのである。@
●「社会的であること」の標準は、それぞれの生産様式に特有な諸関係の性質から借りられるべきであって、それに無縁な諸観念から借りられるべきではないのである。先に明らかにされたように、商品は、生来、一般的な交換可能性の直接的な形態を排除しているのであって、したがってまた一般的な等価形態をただ対立的にのみ発展させることができるのであるが、これと同じことは諸商品のなかに含まれている諸私的労働にも当てはまるのである。これらの私的労働は直接的には社会的ではない労働なのだから、第一に、社会的な形態は、現実の有用な諸労働の諸現物形態とは違った、それらには無縁な、抽象的な形態であり、また第二に、すべての種類の私的労働はその社会的な性格をただ対立的にのみ、すなわち、それらがすべて一つの除外的な種類の私的労働に、ここではリンネル織りに、等置されることによって、得るのである。これによってこの除外的な労働は抽象的な人間労働の直接的で一般的な現象形態となり、したがって直接的に社会的な形態における労働となるのである。したがってまた、その労働は、やはり直接的に、社会的に認められて一般的に交換されうる生産物となって現われもするのである。
あたかも一商品の等価形態が、他の諸商品の諸関係の反射であるのではなくて、その商品自身の物的な性質から生ずるかのような外観は、個別的な等価物の一般的な等価物への発展につれて固まってくる。なぜならば、価値形態の対立的な諸契機は互いに関係する諸商品にとってもはや均等には発展しないからであり、一般的な等価形態にある一つの商品をすべての他の商品からまったく別なものとして区別するからであり、そして最後に、その商品のこのような形態は、実際にはもはや、なんらかの個別的な他の一商品の関係の産物ではないからである。
」(初版、国民文庫版、P73前後)

2019年4月24日