「読む会」だより4月用

「読む会」だより(19年4月用) 文責IZ

(3月の報告)
3月の「読む会」では、(2月の報告)でチューターが「抽象的なものがなにか具体的なものから独立して具体的なものと並んで存在したり、あるいはなにか具体的なものを生みだしていくかのようなヘーゲル的な神秘化に迷い込むことにもなります」と触れた部分について、「“ヘーゲル的な神秘化”というのがどんなものなのか例を挙げてほしい」という質問が出されました。『聖家族』や『経哲草稿』などでマルクスはあれこれ触れているが、今は挙げられないということで、宿題にしてもらいました。(なお、むしろ指摘された部分より、その前の文章が長すぎて、意味がとりにくかっただろうと、チューターは反省しています。機会があれば直します。)
少し調べようとしたところ、単なるヘーゲル「哲学」の批判ではなくて、具体的な存在をもっている「政治」や「国家」をどう理解するかをめぐって、マルクスの考え方を理解するのにうってつけな所があったので、かなり長くなりますが、ここで引用しておきます。また、あまり「方法論」に立ち入りすぎるのは良くないと考えていますが、いわゆる哲学用語についての簡明な説明がありましたので、この機会にあわせて紹介しておきます。
難解なヘーゲルの文章に付き合うのは苦手という方が多いと思いますが、少しだけお付き合い下さい。

紹介するのは初期の著作の一つ『ヘーゲル国法論批判』からの引用ですが、その前に「ルーゲ宛の手紙(1843年)」で、マルクスがこのヘーゲル批判をする意図が書かれており、とても重要だと思いますので、まずそれを紹介しておきます。ここでマルクス自身が述べている通り、政治の分析のために、つまり社会改革のために、哲学=認識論を役立てること、これがマルクスのマルクスたるゆえんとチューターは考えています。

・「フォイエルバッハは余りにも自然にかかわりすぎ、そして余りにも政治にかかわらなさすぎます。……しかし政治と結ぶこと、ただこれのみが今日の哲学をして真理たらしめる唯一の同盟なのです。」(国民文庫、『ヘーゲル法哲学批判序論』への「あとがき」からの重引)

・「第262節。『現実的理念、精神──このものはそれの概念の二つの理念的な圏、すなわち家族と市民社会に己れ自身を割って、己れ自身を有限な在り方にするのであるが、これは精神がこれらの両圏の理念性から出て対自的<※1>に無限な、現実的精神であらんがためである──それは、そのため、これらの圏にこのそれの有限的現実性の材料、すなわち衆人としての諸個人を割り当て、しかもこの割り当ては個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによって媒介されて現われるように行われる。』

この<ヘーゲルの難解な>文章をなんでもない言い方に直せば、こうなる。
国家が家族および市民社会と媒介されるされ方は「境遇とか個人的自由とか職分の自身での選択とか」である。したがって国家理性は国家材料の家族および市民社会への割り振りとは何のかかわりもない。国家はある無意識な、かつ自由勝手な仕方で、それらから出てくる。家族と市民社会は暗い、生の下地として現われ、ここから国家の火が点(とも)り出る。国家材料という場合には、国家の取り扱う仕事、つまり家族と市民社会が──これらが国家の部分をなし、国家としての国家にかかわりをもつかぎり──理解されているのである。
この展開は二重の点で目に立つ。
1、家族と市民社会は国家の概念圏、それも国家の有限性の圏、国家の有限性と解される。国家とは、それ自身をこれらの圏に割るもの、これらの圏を前提するものであって、しかも国家がそうするのは、「それら両圏の理念性から出て対自的に無限な、現実的精神であらんがため」である。「それは己れを割るのであるが、これは……がためである。」それは「そのため、これらの圏にそれの現実性の材料を割り当て、しかもこの割り当ては……に媒介されて現われるように行われる。」言うところの「現実的理念」(無限な、現実的な精神としての精神)なるものは、あたかもある特定の原理にしたがい、そして特定の意図のために行動しでもするかのように描かれる。それはそれ自身を有限な諸圏に割り、それがそうするのは、「自身のうちへ戻ってくるためであり、対自的であらんがためであり」、しかもそれがそうするのは、それこそがまさに現実的な在り方にほかならぬからである。

★この個所で論理的汎神論的神秘主義が非常に歴然と現われる。
現実的な関係は、「国家材料の割り当ては個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによって媒介されている」ということである。この現実的関係が思弁によって現われとか現象とかいう言葉で言い表わされる。★ある特定の境遇、ある特定の個人的自由、ある特定の職分の選択、こういった特定の現実的媒介は、現実的理念がそれ自身を相手に行なうような媒介、しかも舞台裏でおこなわれるような媒介、の現われであるにすぎない。★現実はそのもの自体としてではなく、なにか別の現実として言い表わされる。通常の経験はそれ固有の精神をではなくて、なにかそれとは無縁の精神を掟にもち、これに対して現実的理念はそれ自身から展開された現実をではなくて、通常の経験を定在<※2>にもつ。
理念は主体化され、そして家族と市民社会との国家にたいする現実的な関係は理念の内的な、想像上のはたらきと解される。★家族と市民社会は国家の前提であり、それらはもともとアクティブなものなのであるが、思弁の中であべこべにされる。ところで理念が主体化されると、その場合には、現実的な諸主体であるところの市民社会、家族、「境遇とか個人的自由とか等々」は理念の、非現実的な、他のものを意味する、客体的な諸契機となる。
「個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによる」国家材料の割り当ては真実のこと、必然なこと、本来それはそれとして理由のあることとして端的に述べられるということはない。境遇や個人的自由がそのようなものとして理性的なもの<必然的なもの>と称されるということはない。が、それにしてもやはり別の面でそれらは理性的なものとなる。ただしこの場合、それらは見かけ上の媒介と称されるというだけである。つまりそれらは現にあるがままのあり方に放置されながらも、同時に理念の一つの規定、理念の一つの成果、一つの産物という意義を受け取るという形でそうなるにすぎない。この区別は内容のうちに存するのではなくて、見方のうちに、あるいは言い表わし方のうちにある。二重の歴史、すなわち秘儀的なそれと公開的なそれとがある。内容は公開的な部分のうちにある。秘儀的な部分の関心はいつでも、論理的概念の歴史を国家のうちに認めるという関心である。しかしながら本来の展開が行われるのは、公開的な面においてなのである。

★合理的にはヘーゲルの文章は次のことを言っているにすぎないであろう。すなわち、
家族と市民社会は国家の諸部分である。国家材料は「境遇とか個人的自由とか職分の自身での選択とかによって」これらの部分に配分されている。公民は家族成員と市民社会の成員である。
「現実的理念、精神──このものは、それの概念の二つの理念的な圏、すなわち家族と市民社会に己れ自身を割って、己れ自身を有限的な在り方にする──」──このように、国家の家族と市民社会への分割は理念的、すなわち必然的であり、国家の本質に属する。★家族と市民社会は国家の現実的な部分、意思の現実的、精神的現存態であり、両者は国家の定在様式である。家族と市民社会はそれ自身を国家となす。それらは原動力となって他を推し動かすものである。@
これに反してヘーゲルによれば、家族と市民社会は現実的理念によって働きを受けている。それらを国家に統合するのは、それら自身の生<なま>の成り行きなのではなくて、理念の生の成り行きがそれらを己れからふるい分けたのであり、しかもそれらはこの理念の有限性なのである。それらはそれらの定在を、それら自身の精神とは別な一つの精神に負っており、ある第三者によって定立された規定なのであり、いかなる自己規定であるのでもない。事実またそれらが「有限性」として、規定されるのもこの故である。それらの定在の目的はこの定在そのものにあるのではなくて、理念がこれらの前提を自身から切り離すのは、「それらの理念性から出て対自的に無限な、現実的精神であらんがため」である。ということは、★政治的国家は家族という自然的土台と市民社会という人工的土台なしにはあり得ないということであり、それらは国家にとって一つの欠くべからざる条件なのであるが、しかし<ヘーゲルにあっては>条件が条件づけられたものとして、規定するものが規定されたものとして、産出するものがそれの産物の産物として定立される。@
現実的理念がその身を貶めて家族および市民社会の「有限性」へ入りこむのは、ただこの有限性の揚棄を通じて国家の無限性を享受し産出せんがためにほかならぬ。現実的理念は「そのため」(国家の目的を成就するために)「これらの圏に、このそれの有限的現実性」(この? どんな? これらの圏は何と言ってもそれの「有限的現実性」、それの「材料」にほかならないのである)「の材料、すなわち衆人としての諸個人を割り当て」(国家の材料はここでは「諸個人、衆人」であり、「彼らから国家は成立している」のであるが、この国家の成立はここでは理念の業<わざ>と称され、理念がそれ自身の材料でもって行うところの「配分」であると言われる。★事実においては、国家は家族成員として、また市民社会の成員として現存しているような衆人から出てくる。思弁はこの事実を理念の業と称し、大衆の理念とは言わずに、かえってある主体的な、事実そのものとは別な理念の業と称する)「しかもこの割り当ては」(さきにはただ家族と市民社会の両圏への諸個人の割り当てのことが云々されているだけである)「個人にあっては境遇とか個人的自由とか等々によって媒介されて現われるように行われる。」@
★ご覧のとおり経験的現実があるがままに受け入れられ、この現実がまた理性的だとも称されるのであるが、しかしそれはそれ固有の理性のおかげで理性的であるのではなくて、それが理性的なのは、経験的事実はその経験的な現存においてはそれ自身とは何か別な意義を有するからである。出発点となる事実はかかる事実そのものとは解されず、かえって神秘的な成果と解される。現実的なものは現象となるが、しかし理念はこの現象以外のどんな内容をも持ちはしない。のみならずまた理念は、「対自的に無限な、現実的精神であらん」とする論理的目的以外のいかなる目的をも持ちはしない。★この節のうちに法哲学、またヘーゲル哲学一般の全秘密が蔵されている。」(国民文庫版、「ヘーゲル法哲学批判序説」に所収、P6~)

国家は諸個人からなりたっており、この諸個人は家族成員としてまた同時に市民社会の成員として存在している。だから国家を理解するためには、諸個人が市民社会のなかでもつ関係、その媒介のされ方を理解することから始めなければならない、とこうマルクスは語っているようにチューターには思われます。ただ残念ながら「国民国家」の意義等については不勉強で多くは語れません。
下に、いわゆる哲学用語のいくつかの説明を挙げておきます。これまた難解でしょうが。

≪※1 ヘーゲル、「法の哲学」より。なお、即自、対自、即自かつ対自というヘーゲル用語については、広辞苑では以下のように説明されています。「即自、対自、即自かつ対自、はヘーゲル弁証法の根本的概念で、事物の発展段階を示す語。即自はそれ自身の存在に即した未発展の段階、対自は即自の状態から発展し否定契機として自己の対立物が現われる段階、即自かつ対自は、その対立を止揚して統一を回復した一段階高まった状態。この3段階は定立・反定立・総合(正・反・合)に対応する」 なお、下記の日本大百科全書によれば、「『正立<定立>・反立<反定立>・総合』を略して「正・反・合」と呼ぶ。たとえば『存在・無・生成』において、生成は存在(正)と無(反)の対立を克服し、高め、その両契機を保存する。すなわち止揚する「合」の段階である。この概念は本来ヘーゲルのテキストには存在しないもので、フィヒテの概念をヘーゲル哲学の説明に援用したものにすぎない……」。むしろヘーゲル自身は、「止揚 揚棄とも訳される。否定・保存・高揚という三義を含む。ヘーゲルはこの三義を三位一体と見なし、弁証法の根本要素とした」とある。≫

≪※2 日本大百科全書「ヘーゲル哲学の基本概念」によれば、定有、定在、定存在ともに「[規定された存在、質をもつ存在]の意。……ヘーゲルでは[一定の具体的な実在物]のこと……。定有は質を身につけている。すなわち、他の物との差異、性質上の限界、制限を自分の性質として持っている。定有は、限界を身の周辺につけているだけではなくて、限界を自分の核心に体している。しかし限界という規定はその定有の否定である。ゆえに定有とは、自己の否定を自己のなかに含む存在である。また、定有は本性の現われ、示現、権化、托身、受肉である。たとえば<ヘーゲルにおいては>、私の所有物は私の所有権の定有である。国家は自由の定有である。」また、市民社会とは「自由な市場経済活動の営まれる分業化された社会を、家族からも国家からも明確に区別して述語化したのはヘーゲルの歴史的功績である。マルクスの場合には、同じ言葉が[ブルジョア社会]と訳され、歴史の一段階としてとらえられるが、ヘーゲルでは、あらゆる歴史社会の構造として[市民社会]が組み込まれている。……」
また、「契機」についてはこう触れられているので、参考までに紹介しておくと、「多面的な要素から構成される実在の一側面。たとえば「消費」は商品交換の契機である。消費という要素だけでは交換は成り立たないが、消費という契機なしにも交換は成り立たない。もともとは力学の「モーメント」の概念から取られた概念で、たとえば、梃子や竿秤では、重力を支える力の分力が竿の長さで表現される。この時の実在の全体性に対して、契機の一面性・抽象性を『観念性』と呼ぶ。有限なもの、一面的なものの<実在の全体性にたいする>観念性を認識するのが『観念論』の立場である<とヘーゲルは理解する??>」≫

チューターが参院選に立候補するため5、6、7月の「読む会」は休会とさせていただきますので、今回は(説明)部分には入らないことにします。ご了承ください。

2019年4月24日