「読む会」だより5月用

「読む会」だより(18年5月用) 文責IZ

(4月の報告)
4月の「読む会」は15日に行われました。(前回の報告)の部分では、最後の方で紹介した第1節での「実際に交換価値<等価物……レポータ>の働きをするためには、商品はその自然の姿を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。たとえ商品にとってこの化体が、……もっとつらいことであろうとも」(全集版、P136)のなかにある、「もっとつらい」とはどういうことか、という質問が出されました。
チューターは、引用が長くなるので、その前の……部分を省略してしまったので、分かりづらくなって、申し訳ない。そこには「ヘーゲルの『概念』にとっての必然から自由への移行や、ザリガニにとっての殻破りや、教父ヒエロニムスにとっての原罪の脱却よりも、」とある。要するに、商品にとって、価格というそれがもっているただ想像されただけの金(あるいはすでに関連付けられている金)から、現実の金へと転化(すなわち“化体”ないし“脱却”)することは、たんにヘーゲルが自分の頭のなかで行なう必然から自由への概念の“離脱”とか、自然の成長過程として行われるザリガニの旧来の殻から新しい殻への“化体”などよりも、もっとつらいことだろう。というのは、もしもその商品の生産のために費やされた労働が、他人によって社会的に必要な労働と認められなければ、それは“価値”として認められないのであり、したがってその価格を実現して現実の金に“脱却”できない(あるいはできたとしても量的に異なっている)という、自分自身ではどうすることもできない社会的な事情を抱えているのだから、というような意味だろう。それを彼特有の皮肉をもって言っている。と答えて、了承されました。

そこの記述でチューターが強調していることは、価格もまた、価値の表現としては客観的な内容をもっており、恣意的なものではないということでした。また価格が“観念的なもの”であるということは、商品の価格が商品生産者の意識や想像のなかにあるという意味ではまったくないということです。それは商品世界の中で、すでに、すべての商品が貨幣・金によってその価値を相対的に表現し、“一定量の金が”その商品と交換可能であるという姿で──すなわち価格という姿で──自らの価値(社会的必要労働量)を共通に表示するという関係をもっている、あるいはそうしたものとしてすでに社会的に関連付けられているという意味において、“観念的なもの”だということでした。
価格はたしかに“物”である「商品」がもつものであって、人間がつまり商品生産(所持)者やその意識がもつものではありません。しかし価格は、商品自体がもっている物質的な性質とは無関係であって、この意味でも商品の価格は“物質的なもの”ではありません。価格は“物”(商品)がもつものとして現われているとはいえ、価値の表現方式なのであり、諸個人の労働の社会的な同質性を(“物質的に”ではなくて)“観念的に”表示しているのです。
商品は、その価格が実現されると「ただ想像されただけの金から現実の金に転化」されますが、それは抽象的に“観念的なもの”が“現実的なもの”に移行するというようなヘーゲル的な意味ではまったくありません。それは、第2節の冒頭の商品の形態転換のところ(たより17年9月用など)で述べられてきたように、価値としての、つまり無差別な社会的な労働の対象化としての商品の「形態」の転換、すなわちその生産されたままの特殊な使用価値をもった姿から、貨幣という共通な人間労働が対象化された姿に転換されたうえで、別の特殊な使用価値をもつ商品に置き換わることで商品としてのまた価値としての姿を失なうという、商品生産のもとで社会的な素材転換が行われるための方式なのです。商品は、使用価値であると同時に価値でもあるという矛盾を、価値の形態としての貨幣を生みだし、それへの形態転換を媒介することによって、解決していくのです。そしてだからこそ、商品は生まれた時からその使用価値としての姿のほかに、価値として貨幣(価値の形態)との転換の必要を、価格という姿でもつのです。
(ただし、たとえば1本のボールペン=100円という価格においては、左辺の商品が右辺の一定量の金と任意に交換可能だということを表示しているのではなくて、右辺の一定量の金のほうが、左辺の任意の商品と交換可能であるという姿で、他の商品と共通にその価値を表現しているということに注意が必要です。)

(説明)の部分では、「貨幣の魔術」、つまり金はその金という物体、その自然属性によって他の商品と任意に交換可能のように見えるが、しかしそれは金が貨幣として社会的に認められた結果であり、すべての商品が共通の金でその価値を表現したからこそである、ということは
分かった。しかし、貨幣による商品流通の媒介はいわば当たり前のことで、「“いっそう発展した”貨幣の魔術」というようには言えないのではないか、という質問が出されました。
チューターは、マルクス自身は「b 貨幣の流通」のなかで“いっそう発展した”貨幣の魔術というようなことは言っておらず、いわばチューターの独断でこう書いた。時間も迫っているので次回のたよりで補足させてほしい、ということになり、ここで補足しておきます。

前回引用したなかでも、次の部分をもう一度読んでいただきたいと思います。
・「それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態転換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介される“ように見え”@
この貨幣がそれ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移していく“ように見える”のである。……貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。」(全集版、P152)
ここで述べられていますのは、①別の商品による商品の取り替え(つまり商品流通あるいは社会的素材転換)は、流通手段としての貨幣の機能の“ように見える”が、実際には諸商品の形態転換のからみ合いによって媒介されている。②貨幣が運動することで商品を流通させる“ように見える”が、実際に運動するのは商品であり、貨幣流通は商品流通の結果でありその表現でしかない。という二つのことです。
①についてはマルクス自身がa項の終わりで「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつ」(同、P151)と述べたのではないか、という疑問が上がると思います。商品の形態転換、W─G─Wをもっとも抽象的に語れば、貨幣Gは商品Wの流通の媒介者であることに間違いはありません。しかし、前回、前々回と久留間の図を参考にして触れてきましたように、それは直接的生産物交換W(リンネル)─W’(聖書)とはまったく違った、複雑な姿をもっているのです。
たとえばW2(リンネル)のW3(聖書)への素材転換、すなわちW2(リンネル)─G─W3(聖書)をもう少し詳しく見てゆけば、それはリンネル所持者にとっては、W2(リンネル)─Gすなわち「リンネルの売り」という前半の過程と、G─W3(聖書)つまり「聖書の買い」という後半の過程が結びついたものであり、より詳しく書けば、W2(リンネル)─G…G─W3(聖書)です。しかし、このリンネルの形態転換の過程の前半部分であるW2─Gつまりリンネル所持者にとっての「リンネルの売り」は、別の商品W1(小麦)の形態転換であるW1(小麦)─G─W2(リンネル)の後半の過程、つまり小麦所持者の「リンネルの買い」と結びついてはじめて成立します。さらに、リンネルの形態転換の後半部分であるG─W3(聖書)は、また別の商品W3(聖書)の形態転換であるW3─G─W4の前半の過程、つまり「聖書の売り」であるW2(リンネル)─Gと結びついてはじめて成立するのです。
そしてこうした過程の全体である商品流通のいわば“主役”は商品Wであって貨幣Gではなく、貨幣Gはすべての商品の価値の形態として、それらの商品の素材転換を“媒介”する役割を果たしているだけなのです。商品の貨幣への転換、そしてまた貨幣の商品への転換は、商品自体の形態の転換なのであって(すなわち使用価値の形態から価値の形態へ、また逆に価値の形態から使用価値の形態への)、商品と別の商品である貨幣との素材交換、物々交換ではない、ということが重要です。
こうしたことを見ていくと、②のように「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる」と述べられていることを、“いっそう発展した”「貨幣の魔術」と語ってもあながち間違いではないとチューターは思うのですが、いかがでしょうか。

なお、前回の引用では省略しましたが、そのすぐ後で、貨幣の流通手段の機能についてマルクスはこう指摘しています。
・「他方、貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。」(同、P153)

(説明)第2節 流通手段 b 貨幣の流通 の2回目

(2)流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、商品の価格総額と貨幣の流通速度によって決まるのであって、貨幣量によって価格やその総額が決まるのではない──いわゆる貨幣数量説の誤りについて

マルクスはb項「貨幣の流通」のなかで次のように問題を提起します。
・「どの商品も、流通への第一歩で、その第一の形態変換で<すなわちその所持者にとっては非使用価値である或る商品の売りW─Gは、同時にすでに別の商品を売って得たGの所持者の使用価値としての買いであるのだから(久留間の図で言えば左下から右上に上がって脱落するWの流れのように)……レポータ>、流通から脱落し、そこには絶えず新たな商品がはいってくる。これに反して、貨幣は流通手段としてはいつでも流通部面に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。そこで、この部面はつねにどれだけの貨幣を吸収するか、という問題が生ずる。」(同、P153)

そしてこう答えています。
・「商品は、その価格において、すでに決定された想像された貨幣量に等置されている。ところで、ここで考察されている直接的流通形態<信用などを考慮外に置いた、商品と商品との直接の……レポータ>は、商品と貨幣とをつねに肉体的に向いあわせ、一方を売りの極に、他方を買いの反対極におくのだから、商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表わされている金総額を実在的に表わすだけである。したがって、これら二つの総額が等しいということは自明である。とはいえ、われわれが知っているように、商品の価値が変わらない場合には、商品の価格は金(貨幣材料)そのものの価値といっしょに変動し、金の価値が下がればそれに比例して上がり、金の価値が上がればそれに比例して下がる。こうして諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。」(同、P154)
・「流通過程の或る与えられた期間については、(商品の価格総額)/(同名の貨幣片の流通回数)=流通手段として機能する貨幣の量 となる」(同、P157)

そしてさらにこう触れていわゆる貨幣数量説を批判しています。
・「流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則は、次のようにも表現することができる。すなわち、諸商品の価値総額とその変態の平均速度が与えられていれば、流通する貨幣または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって定まる、と。これとは逆に商品価格は流通手段の量によって規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定される、という幻想は、その最初の代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通過程にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて、そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ、というばかげた仮説に根差しているのである。」(同、P160)

商品の流通があるかぎり、つまり商品の素材転換が滞りなく行われるためには、一定量の流通手段の量が客観的に必要であることは、価格が商品の価値の表現として決してたんなる主観的なものではないということが理解できれば、きわめて当然のことのように思われます。
価格とは、支出された社会的必要労働量として客観的に存在する商品の価値を、貨幣で相対的にあるいは観念的に表現したものでした。だから社会的に必要な流通手段の量は、貨幣として実現されるべき商品の価格総額によって決まることは至極当然なのです。
これにたいしていわゆる近代経済学の人たちは、価値の概念をもつことができず、貨幣が商品の価値の形態であることを理解しません。そのために、商品と貨幣との転換を、商品自体の形態転換と見ることができず、たんなる商品と別の商品との交換、物々交換と同一視します。彼らは「商品は価格をもたずに、また貨幣は価値をもたずに流通にはいる」と勝手に思い込みます。だから流通のなかでも、貨幣量が2倍になれば商品価格も2倍に騰貴し、反対に貨幣量が半分になれば価格も半分になるといった非現実的な幻想にふけることができるのです。

2018年5月20日