「読む会だより」4月用

「読む会」だより(18年4月用) 文責IZ

(3月の報告)
3月の「読む会」は18日に行われました。(前回の報告)の部分では、まず「W─G─Wの説明はそれなりに分かったが、美術品や工芸品など希少性のあるものはどうなのか」という質問が出ました。チューターは、以前にも触れたが、労働を投入しても生産物の数量が増えないようなものに関しては、需要や競争によって“価格”が決まるというようなことはずっと後のほうで問題にされることになる。しかし、基本的に問題になるのは普通の商品であり、いわゆる生活必需品という範囲でここでは考えていただきたい、と述べました。
また関連して、「仮想通貨や金融商品で巨利を得たというようなことが言われているが、こうした場合のGはWとW’との転換を媒介するといったことではないのではないか」という質問も出されました。チューターは、そうした場合のGは貨幣というよりむしろ商品や資本として取り扱われているだろうし、普通の商品ではないそうした金融商品では正常ではないことが当たり前のように起こってくるということはある。そしてそれらのことの、なにがどう正常でないのかを知るためにも、まずもって商品流通の基本的な姿を理解することが必要だろう。価値増殖については、次の第4章の資本のところ、つまりG─G’のところで基本的な観点やメカニズムが与えられます、と述べました。
また、「価値を実現するということは、商品が貨幣に置き換わった後に別の商品に置き換わることによって、消費の過程に入るということか」という質問が出されました。チューターは、一商品をとってみれば、そういう理解で間違っているということではないだろうが、価値の問題というのは、基本的に社会的な生産と消費の問題だということを押さえておかないとまずいのではないか、と述べました。というのも価値は、労働が社会的に管理されるのではなくて、私的な労働の生産物を商品として交換し、社会的労働が“物”の姿で現れる場合の、労働の特殊な性格であり社会的な生産のメカニズムだからです。

(説明)のところでは、最後のところで「それ(価値の価格としての表現)は、生産物をたんなる使用価値としてではなくて、同時に無差別な人間労働の対象化として相互に関係させることで社会の物質代謝をしなければならない社会において、私的な生産物がもたねばならない必然的な方式なのです。」と触れた点について、「“必然的な方式”とか言われると、分かってきたつもりであったものが、かえって分からなくなってしまう」という意見が出されました。
チューターとしては、必然性というようなたんなる言葉で説明したつもりになるのではなくて、できるだけその内容を伝えるように努力しているつもりです。ここで「必然的な方式」と使っているのは、価格表現(共通な金による諸商品の価値表現)というのは商品交換を通じて行われる社会的な生産にとって、不可欠で不可避な“仕組み(方法)”だ、という意味です。

なおその前の部分で触れたように、価格は、価値と同じく、商品自身がもっているものであって、生産者つまり諸個人がその頭のなかに意識としてもっているものではないことが、重要に思われます。その生産のために支出された社会的な労働量として、商品の価値は現実的なものですが、それと同様に、商品の価格も貨幣・金の量という物的な姿で表現されていても、価値の表現としては客観的な内容を持つものであって、生産者が恣意的に決め得るようなものではないのです。
誤解されてはならないのは、価格が“観念的なもの”であるのは、それを人間が決め得るからなのではなくて、すべての商品が貨幣・金でその価値(支出労働量)を表現するという関係を“すでに”もっており、そこでは一定量の金がその商品と交換可能だという交換可能性(等価性)で商品がその価値を表現しているからにすぎません。
第1節「価値の尺度」の最後のほうでマルクスは次のように述べています。
・「相対的価値形態一般がそうであるように、価格は、ある商品例えば1トンの鉄の価値を、一定量の等価物例えば1オンスの金が鉄と直接に交換されうるということによって表現するのであるが、けっして、逆に鉄のほうが金と直接に交換されうるということによって表現するのではない。だから、実際に交換価値<等価物……レポータ>の働きをするためには、商品はその自然の姿を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。たとえ商品にとってこの化体が……もっとつらいことであろうとも。商品は、その実在の姿、たとえば、鉄という姿のほかに、価格において観念的な価値姿態または想像された金姿態をもつことはできるが、しかし、現実に鉄であると同時に現実に金であることはできない。商品に価格を与えるためには、想像された金を商品に等置すればよい。商品がその所持者のために一般的等価物の役を果たそうとするならば、それは金と取り替えられなければならない。」(全集版、P136)

(説明)第2節 流通手段 b 貨幣の流通 の1回目

(1)流通のなかで“貨幣の魔術”はいっそう発展する、すなわち「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる。」

前回、久留間氏の流通の概念図を説明した折にも触れましたが、商品Wは、諸商品と価値で結ばれている流通界から、人間の欲望と使用価値で結ばれる消費界へと最終的には脱落していきます。他方、貨幣Gのほうは、商品Wの価値の形態として商品が消費界へと脱落するのを手助けしながら、商品の購入者(買い手)の手からその生産者(売り手)の手へと次々に移動することで、流通界のなかに留まり続けます。
「a 商品の変態」の項で見てきたように、貨幣Gの流通運動は、商品自身の形態転換の結果であり、貨幣Gへの形態転換を通じた商品流通(社会的物質代謝)の表現でしかありません。しかしそこでは逆に、貨幣こそが動かぬ商品を運動させる力(いわゆる“購買力”)をもつように見えるのであり、“貨幣の魔術”はいっそう発展した姿をもちます。
しかし、ある人が貨幣を手にすることができるのは、ただその人が商品を販売した結果にほかならないということだけから言っても、貨幣自身に購買力があるなどという理論は眉つばものです。商品交換W─W’はその全面的な発展の必要性から、WとGとに商品は二重化し、商品交換は直接的にではなくてW─GとG─W’との二つの過程に分裂して行われることになります。だからもしW’を買う“購買力”といったものがあるとするならば、それは商品に共通な価値の形態としてのGがもつものではなくて、当初のWこそが価値として、社会的労働の支出として持つと言わなければなりません。

さて以前、第2章「交換過程」の末尾で、マルクスは“貨幣の魔術”についてこう述べていました。
・「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動<諸商品の価値表現の関係……レポータ>は、運動そのものの結果<価値形態としての貨幣……レポータ>では消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない。諸商品は、なにもすることなしに、自分自身の完成した価値姿態を、自分のそとに自分と並んで存在する一つの商品体として、眼前に見いだすのである。これらの物、金銀は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間労働の直接的化身である。ここに貨幣の魔術がある。」(全集版、P124)
商品世界の価値形態として、あるいは一般的等価物として、一商品・金が貨幣であると認められるという社会的な過程は、金の自然属性とは無縁です。だから商品がその価値を共通に一商品・金で表現する結果として、金が価値形態として、貨幣として認められるという過程は、金が貨幣として認められた後になっても金物体に痕跡が残るわけではありません。だから、金が貨幣として認められたならば、金という物体、金という使用価値は、その自然形態(特殊な使用価値の姿)のままで同時に他のどんな商品とも交換可能な、あらゆる人間労働の直接的化身すなわち価値そのものとして通用します。ある商品が貨幣として認められるという自然属性とは無縁な規定が、逆にあたかも金の自然属性から生まれるかのように見えるこのようなメカニズムを、マルクスは“貨幣の魔術”と呼んだのでした。

さて、「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつ」(全集版、P151)と述べてa項を終えたのち、マルクスは「b 貨幣の流通」のなかで、いっそう発展した“貨幣の魔術”とそのメカニズムについて述べています。(久留間氏の概念図を参考にすると分かりやすいと思います。)
・「……それゆえ、商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣がある商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んで行くこと、または貨幣の流通である。」(全集版、P151)

・「貨幣の流通は、<G⇔Wの場所転換という……レポータ>同じ過程の不断の単調な繰り返しを示している。商品はいつでも売手の側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。」(全集版、P151)
ここで注意願いたいのは、「貨幣は商品の価格を実現することによって」、「購買手段として機能する」と言われていることです。商品流通がW─GとG─Wという二つの過程に分離しているということはすでに前提されています。そのうえで、前半のW─Gの過程で「貨幣は商品の価格を実現」することによって、すなわち前半部分で貨幣の姿に形態転換しているからこそ、今度は後半の過程で「購買手段として機能する」としか言われていないということです。ここでは、商品流通W─G─Wの後半部分だけを全体から切り離して、商品を売ることなしにすでに貨幣をもっているとか、あるいはその貨幣は購買手段なのだから購買力をもっているとか、そうしたことはいっさい言われていないということです。

・「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程をくりかえす。@
このような<購買手段として買い手から売り手へと移動するという>貨幣運動の一面的な形態が<W─GとG─Wという相対立する二つの過程を含む>商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。<W─GとG─Wという二つの過程に分裂した過程を、商品の価値形態としてのGが媒介するという>商品流通そのものの性質が<あたかもGが商品の交換を生みだすかのような>反対の外観を生みだすのである。@
商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる。その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める。流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける。それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。@
それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移していくように見えるのである。@
貨幣は、たえず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品をたえず<消費部面へと……レポータ>流通部面から遠ざけていく。それゆえ、<別の商品との場所転換という……レポータ>貨幣運動はただ<商品の形態転換を通じた……レポータ>商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。」(全集版、P152)

まことこうした目に映ったままの“貨幣の魔術”に目を奪われているのが、現代の経済学者たちではないのでしょうか。

2018年4月16日