12月の「読む会」は16日(日)の予定です

・10月、11月と定例日に開くことができず、申しわけありませんでした。12月は16日(日)午後1時半から開催の予定です。
・遅くなりましたが「たより」11月用をアップしました。前回紹介した、抽象的労働についての見田の見解は正しくないというのが、チューターの考えです。前回よく検討せずに紹介してしまったことを反省しています。

12月の「読む会」は16日(日)の予定です」への1件のフィードバック

  1. チューター様
    貴方の会に期待している者です。
    10月号と11月号を拝見させていただきました。
    貴方は、個々の人が社会的に孤立していて相互に接触していないことを「非社会的」とし、その個々の人が生産物を「交換」することによって接触することを「社会的」としているのでしょう。生産物の交換が始まる時、はじめて非社会的な労働が社会的な労働となる、それで、抽象的労働が価値をいう形として現れる。もしそうから、それは間違いではないと思います。それが「第2章交換過程」の矛盾ですから。
    異なっているとは思いますが、小生は以下のように考えます。
    抽象というのは、個々の対象から、共通の性質(普遍性、一般性といってもよい)を取り出すことで、同時に、異なった性質(特殊性)を捨て去ることと思います。正確には、個々の対象の共通の「客観的」性質を、人間の意識の中に掬いあげたものということになるでしょう。ですから、個々の対象は、特殊性と普遍性を同時に持っており、ただし、共通の性質は、個々の対象の中に、直接見つけることができません。目には見えませんから。
    例えば、みかんとりんごの共通の性質は果物ということで、果物という場合、みかんとりんごの特殊性は捨て去っています。果物というものが、みかんとリンゴ以外にあるわけではありませんが、果物というのは、見えません。
    人間同士の関係を社会性といいますが、個々の人間の共通の性質はなんでしょうか。寅さんではありませんが、人は皆、生まれや育ちは異なっており、姓や名も異なっています。戸籍謄本を取れば、個々の人の生まれや育ちや姓名などの特殊性はわかります。しかし、「生まれ」があり「育ち」があり、「姓名」を持っているという共通性はどうでしょう。「生まれ」や「育ち」があるというのは、ある意味ではホモサピエンスとしての生物学的な共通性でしょうし、「姓名」があるというのは、生物学的ではない「社会性」の共通性ということでしょう。
    労働も同じように考えると、人がこれから働く、働いている、昔働いていたという違い、いろいろな職種、指物労働や建築労働や紡績労働などの違いはあっても、人が働く=労働という共通性があります。それが、抽象的人間労働ということではないですか。わざわざ人間労働といっているのは、他の動物は労働しないと言う意味もあるかと。そういう意味で、抽象的人間労働というのは、ホモサピエンスという生物学的共通性の上にある社会的共通性ではないですか。ただ、個々の労働は直接目に見えても、抽象的人間労働は、目に見えませんが。これは、「ブルジョア社会」でも、同じでしょう。ただ、ブルジョア社会では、分業が発展して細かく細分化されていて非常に多くの特殊な労働があるので、労働という抽象が、民衆の意識に容易に理解されるというだけです。
    抽象的人間労働の対象化が価値の形態を取るのは、私的労働という「社会性」の上で、ですが、抽象的人間労働も価値も、見には見えません。ですから、「価値」を他の使用価値の一定量で表すしか、表しようがないのです。抽象的人間労働が価値になり、価値が貨幣になりますが、貨幣は、価値と違って、人の目に見え手に取って触れることのできる「価値」ですよね。抽象的人間労働が一足飛びに貨幣になるのではありませんが、ある意味では、貨幣は「普遍的労働」が目にみえるようになったものといってもあながち間違いではないのではないでしょうか。貨幣ができた時には、商品は、それ以前に価値と言う性質を表しているのですから。
    確かに、貴方の言うように、商品社会になって初めて、労働が社会的になってくるでしょうが、ただ、そのことと、「人類は最初から集団で暮らしていた」つまり、労働は最初から社会的であった、ということととを混同すると、間違いが起こると思います。人類初期(ある意味では、アジア的・古代的・封建的であっても)の場合、民衆の意識にのぼらなくても、例えば、男女の間の役割分担のように、自然発生的に分業していたでしょう。ただ、それを意識していたかどうかとは別の問題ですが、意識していなくても自然発生的に、ある意味で無意識的な試行錯誤の結果、全体としてある種のバランスに達し、社会全体として生活が成り立っていたとしたら、労働の特殊性と普遍性(ある意味で、労働時間一般で表現される)がバランスを取っていたとみなされるのではありませんか。無論、生産物の「交換」は存在しなかったでしょうが。
    ワーグナーの「理論的」の意味は、フォイエルバッハのテーゼの「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけである」の意味と同じと思います。つまり、単なる「哲学者」(マルクスの皮肉)たちの理論(これもある意味、皮肉)では、世のなかを変える「革命学」ではなく、単に世の中を解釈する「解釈学」になってしまうと言う意味だと思います。
    小生は、見田氏の「資本論の方法」は、彼のレベルの低さを余すところなく示した駄本だと信じていますが、それとは別に、彼を批判するならば、きちんとした、誰もが容易に理解でき納得できるところから説明すべきと思います。
    気になったので、私見を述べさせていただきました。

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