会報(たより)

読む会だより

「読む会だより」2月用

「読む会」だより(19年2月用) 文責IZ

(前回の報告)
1月の「読む会」では引き続き「抽象的労働」についていくつかの質問や意見が出ました。
はじめに、「たより1月用」で紹介した1章4節の引用のうち「謎のような性格」とは何を指しているのかという質問が出ました。
チューターは、これははじめの方にある「商品の神秘的な性格」と言われていることと同じで、引用した部分のすぐ前の4節の冒頭にある『一つの感覚的であると同時に超感覚的であるもの』という意味だろうと述べました。
重要な点ですのでもう少し詳しく引用しておきますと、以下のようです。
・「商品が使用価値であるかぎりでは、その諸属性によって人間の諸欲望を満足させるものだという観点から見ても、あるいはまた人間労働の生産物としてはじめてこれらの属性を得るものだという観点から見ても、商品には少しも神秘的なところはない。人間が自分の活動によって自然素材の形態を人間にとって有用な仕方で変化させるということは、わかりきったことである。例えば材木で机をつくれば、材木の形は変えられる。それにもかかわらず、机はやはり材木であり、ありふれた感覚的なものである。@
ところが、机が商品として現れるやいなや、それは『一つの感覚的であると同時に超感覚的であるもの』になってしまうのである。机は、自分の足で床の上に立っているだけではなく、他のすべての商品にたいして頭で立っており、そしてその木頭からは、机が自分かってに踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げるのである。」(全集版、P96)
商品の使用価値(たとえば平面の台とそれを支える脚からなる机が、物を置いたり書き物をするのに便利だというような、その有用な物としての性質)は、ひとつの自然属性として感覚的に明らかです。しかしその価値のほうは、その生産のために支出された労働の、人間労働としての同質な性格に基づいた、社会的必要労働量としての労働の大きさの表現です。だから、こちらの方は机自身の自然属性として感覚的に把握できるようなものではなくてひとつの社会属性なのですし、それが価格として貨幣を媒介にして相対的に表現される場合においても、それは机自身の自然属性とは無関係な、机のみならず他のあらゆる商品がもつ社会的属性として商品世界との関係においてその大きさが表現されるものです。
商品としての机が「他のすべての商品にたいして頭で立っている」というのは、このような意味だと思われます。
ところが、一商品が貨幣として認められるようになると、貨幣(金)は「価値を表現する」諸関係から自立して、それ自身が価値という独立した“社会的な”自然属性をもった“物”として現れてきます。なぜならすべての商品が、その価値を物としての貨幣(金)と比較してその大きさを表現するのですから、価値とは何かを把握することができなければ、貨幣(金)そのものが価値であるように見えるほかないのです。

抽象的労働については、「抽象的と言われるが、すべてのものは具体的なものではないのか」という質問が出ました。
この間何回か、チューターは『資本論』初版の付録のⅠ(3)「β 等価形態の第二の特性 具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる」にある言葉を引用して抽象的ということの意味について説明してきたので、まずそこの部分を引用しておきます。
・「もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関連は不可解になるのである。」(初版、国民文庫版、P143)
ローマ法でもドイツ法でも、法というかぎりでは人間の規範を規制するといった一般的な内容をもっていることでしょう。個々には具体的な違いはあるとしても、そうした同一な一般的な内容を持つものを、私たちは頭のなかで抽象してたとえば法という形で固定するのだと思います。これは法といった社会的なものに限らず、自然物の分類等でもそうするのだと思います。
問題は、確かにそうした抽象は人間の頭のなかで行われるのですが、しかしながら人間が抽象を行なうことができるのは、客観的な外的世界のなかにそうした抽象を可能とさせる同一性と区別が、つまり関連性や法則性が存在するからに他ならないということだと思います。「抽象的なもの」は“物質”として存在するというわけではなくて、“物”に限らず種々の具体的な事柄のなかに、その共通な属性として存在するのではないでしょうか。
マルクスはこの初版の引用のすぐ前の部分で、価値表現以外の場合には、抽象的一般的なものは具体的なものの属性として認められるとして、こう語っています。
・「価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。@
たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。@
この取り違えは不可避である。というのは、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無差別な人間労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が別種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてのみのことだからである。」(同、P142)

関連して、『資本論』の時代から労働内容は変化しており、今後AIなどが発展すると、いわゆる工場労働といったものはなくなると思われる。そんななかで抽象的人間労働というのが存在しうるのか、という疑問も出されました。
確かにいわゆる生産的労働の比重は下がっています。しかし社会生活を支える根底が生産的労働であること、そして生産的労働においては、各種の具体的労働は、社会的労働の一部分として抽象的労働としての側面を同時にもつことに変わりはない、とチューターは考えます。

なお、質問のあったスミスの見解の概要については、資本論辞典(青木)のなかのスミスの項での説明をコピーしておきましたので、参考願います。

(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」「a 貨幣蓄蔵」の1回目

1)商品変態の連続的な循環と貨幣の無休の流通が中断されると、貨幣は物質代謝の単なる媒介物から社会的富の獲得という自己目的となり、流通手段としての鋳貨から蓄蔵貨幣へと固化する。それとともに貨幣は商品流通の単なる媒介者から、私的に所有することが可能な“物”がもつ社会的富の力として現われる。

その金(または銀)としての“肉体”をもって社会的富を代表する、「貨幣としての貨幣」の第一の形態として挙げられるのが「a 貨幣蓄蔵」です。その冒頭部分にはこうあります。

・「二つの反対の商品変態<W─GとG─W>の連続的な循環、または売りと買いとの流動的な転換は、貨幣の無休の流通、または流通の永久自動機関としての貨幣の機能に現われる。変態列が中断され、売りが、それに続く買いによって補われなければ、貨幣は不動化され、または、ボアギュベールの言うところでは可動物から不動物に、鋳貨から貨幣に、転化する。
商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物、商品の転化した姿態または商品の金蛹を固持する必要と情熱とが発展する。商品は、商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態と取り替えるために、売られるようになる。この形態変換<W─G>は、物質代謝の単なる媒介から自己目的になる。<別の商品と取り替えられることのない価値肉体としての金(または銀)という>商品の離脱した姿は、商品の絶対的に譲渡可能な姿またはただ瞬間的な貨幣形態として機能することを妨げられる。こうして、貨幣は蓄蔵貨幣に化石化し、商品の売り手は貨幣蓄蔵者になるのである。」(全集版、P170)

そして、「貨幣としての貨幣」である貨幣蓄蔵とともに、貨幣の力が増大してそれは「奴僕から主人になる」(『経済学批判』)ことをマルクスは次のように説明します。

・「商品を交換価値として、または交換価値を商品として固持する可能性とともに、黄金欲が目ざめてくる。商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が増大する。……
貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。……。貨幣では商品のいっさいの質的な相異が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相異を消し去るのである。しかし、貨幣はそれ自身商品であり、だれの私有物にでもなれる外的な物である。こうして、<どのような商品とも一定量において交換可能であるという>社会的な力が個人の個人的な力になるのである。それだからこそ、古代社会は貨幣をその経済的および道徳的秩序の破壊者として非難するのである。……」(同、P172)

2019年2月10日

「読む会」だより1月用

「読む会」だより(19年1月用) 文責IZ

(前回の報告)
12月の「読む会」は16日に開催されました。(なお1月以降しばらくの間、「読む会」は第2日曜日の午後1時半からとさせていただきます。)

ここしばらく問題となっている抽象的人間労働にたいする見田の見解については、商品についてのいわばまとめが述べてある第4節のうち、次の部分をもう一度参照していただければと思います。
・「だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てはこないのである。それはまた価値規定の内容からも出てこない。なぜならば、第一に、いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量についていえば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった。といっても、発展段階の相異によって一様ではないが。最後に、人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになるのである。
それでは、労働生産物が商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生ずるのか? 明らかにこの形態そのものからである。いろいろな人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量という形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働の前述の社会的規定がそのなかで実証されるところの彼らの諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。」(全集版、P96)

無論ここではロビンソンのような孤立した架空の人間ではなくて、発展した分業の中にある現実的な近代的な人間が問題です。そこでは実際に相異なる諸労働の生産物が交換され、一定の比率で価値としては同等なものとされるのですから、それまでに述べられてきたように、価値の内容は労働の具体的有用的形態とは区別される抽象的人間労働としての同等性ということになるほかありません。そして、このことは労働がどれをとっても人間有機体の諸機能であるという「生理学上の真理」からも明らかだろうと、ここではその“根拠が”(“理由”ではなくて)述べられているにすぎないのです。

「読む会」の中でも価値とは何か、抽象的労働とはどのようなものかが分かりにくいという意見が何度も出されています。
商品の価値(交換価値)とその「実体」である抽象的人間労働との区別──つまり現象形態とその本来の内容との違い──を別にすれば、ここで「労働の量は感覚的にも労働の質とは区別されうる」と述べられているところは、商品の価値やその価値実体である抽象的人間労働(価値形成労働とも呼ばれます)の理解に役立つのではないかと思われます。
もちろんある商品の生産のために支出された社会的に必要な労働の大きさは、個人的な労働の場合と違ってその大きさが直接に測られるわけではありません。しかしながらロビンソンの場合と同じように、ある社会的な使用価値の一定量を生みだすためには、社会の総労働のうちからいくらかの大きさの労働が、つまり総支出労働時間のうちから一定の労働時間が支出されるということは明らかです。この場合の商品は、ある有用な物としてではなくて、社会が支出した“労働時間の塊”として評価されているのであり、それが商品の価値なのです。そして重要なことは、こうした“労働時間の塊”としての商品の価値は、架空のものではなくて[、発展した商品生産社会である資本主義社会においては商品のもつ社会的な属性として]実際に存在しているということです。だからこそ商品は千差万別の使用価値をもつにもかかわらず、すべて「価格」をもつことで自らの価値存在を表現しているのですし、すべての商品が社会的労働時間の塊としては、すなわち抽象的な無差別な労働の結晶としては、同質であり量だけ違うのだと語っているのです。(商品の価格は、価値の表現としては、けっして生産者が勝手につけることの出来るようなものではありません。)
言うまでもなく、商品であろうとなんであろうと“物”が、その自然属性が、その生産のために人間が支出した労働時間そのものを表現することなどありえません。しかしながら、商品は一般的等価物を生みだし、この一般的等価物(貨幣)のもつ一般的交換可能性を媒介にして、“物”の姿をもって相対的に支出労働時間を表現する方法を獲得するのです。そしてこの時はじめて商品は使用価値であると同時に交換価値でもあるという二重の姿を実際に獲得するのです。

またチューターが、抽象的人間労働の側面は、将来、生産物=商品の“価値”という形をとることなく、社会的労働の眼にみえる内容として発展するのではないかと述べた点にかんしては、むしろ“価値”ではなくて「分配」の問題ではないか(労働分配率が低すぎる)という意見が出されました。

(説明)の部分では、引用した『経済学批判要綱』の終わりにある「交換価値と交換価値に対応する社会の生産様式とに含まれている基本的矛盾」とは何か、という質問が出ましたが時間切れとなり、次回の宿題ということになりました。
生産物の使用価値ではなくて交換価値が問題となるためには、まず私的な生産と発展した分業社会が前提されているということが重要です。そこでは自分のための消費が問題となるのではなくて他人のための使用価値が、したがって交換価値が問題になります。この場合の交換価値は、今回も触れたように、商品のもつ使用価値=投下された個々の労働の「質」ではなくて、分業のもとで投下された人間労働一般の支出として同等な労働の「量」であり、“労働時間の塊”として見られた商品なのです。商品社会の富は、素材そのものがもつ使用価値ではなくて、その交換価値すなわちその生産に支出された労働量と同等なものとして存在するあらゆる商品であり、商品一般だという理解が重要に思われます。だからこそ、商品一般を代表するものとしての貨幣が、貨幣商品が生まれることになるのです。
分業に基づく社会では、私的に生産された生産物に含まれる相異なる有用的な労働が、同時にそれとはまったく矛盾する社会的に同等な抽象的な労働でもなければなりません、これが基本的な矛盾です。それは、商品が自らを使用価値であるとともに価値でもあるものとして表現するために、自らを商品と貨幣商品とに分裂させるということでもあります。

また、その前に「たより」の(説明)の部分の最後は飛躍しているのではないかという意見が出され、チューターもよくなかったと反省して、元の文章を以下のように訂正することになりました。
「抽象的人間労働としての諸労働の同等性が、商品生産の基礎のもとでは、対象化された商品の価値として、さらには金銀という物として現われます。その結果は、[人間の外部に存在する自立的な“物”としての金銀が、人間の社会的な労働を支配するということでしょう。]」
☆訂正前の原文は、[社会的労働が人間によって制御されるのではなくて、逆に人間の外部に存在する物が、貨幣としての金銀が、自立的な運動を開始する(資本の形成に向けて)ということでしょう。]でした。

今回の(説明)は、前回の3節の冒頭部分が『経済学批判』ではどのように述べられているかの紹介だけになります。申しわけありません。

(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」の1回目 のつづき

1)「貨幣としての貨幣」を理解することの困難について のつづき

第3節の冒頭部分は、『経済学批判』では次のようになっています。
・「……こうして、商品が、その価格でもって、一般的等価物ないし抽象的富である金を代表しているとすれば、金は、その使用価値でもって、あらゆる商品の使用価値を代表しているのである。したがって金は、素材的な富の物質的代表物なのである。それは《すべてのものの要約》(ボアギュベール)であり、社会的富の総括である。同時にまたそれは、形態からいえば一般的労働の直接の化身であり、内容からいえばすべての現実的労働の精髄である。それは個体としての一般的富である。流通の媒介者としての姿では、金は、ありとあらゆる侮辱をこうむり、けずりとられ、そしてただの象徴的な紙きれになるまでうすくされさえした。だが貨幣としては、これにその金色(こんじき)の栄光がかえしあたえられる。それは奴僕から主人になる。それはただの下働きから諸商品の神となるのである。」(全集版、P169)

要するに、貨幣の第一の機能である価値尺度の機能においては、貨幣は観念として計算貨幣として存在すればいい。また第二の機能である流通手段の機能においては代理によてその機能を果たすことができる。しかし続いて述べられるような蓄蔵貨幣、支払い手段、世界貨幣といった機能においてはそうはいかず、現実的な「肉体をもった」金(上記の言葉では「個体としての一般的富」)としての貨幣でなくては果たせないものである。それが貨幣の第三の機能である「貨幣としての貨幣」なのだと、第3節の冒頭部分では言われているのです。

2019年1月13日