会報(たより)

読む会だより

「読む会だより」9月用

「読む会」だより(18年9月用) 文責IZ

(前回の報告と補足)
ここしばらく豪雨災害とその後の異常な暑さで「読む会」もなかなか進みませんでした。チューターの理解不足もあって価格の理解をめぐって立往生の状態ですが、今回で一応の解決をつけて、とりあえず前に進みたいと思います。
19日に行われた8月の「読む会」では、前回の関連で出された労働力の価値の問題をめぐって、「価値だの使用価値だの交換価値だの価格だの、あれこれあって混乱してしまう」という意見も出されました。価格の理解は思うほどには簡単ではないということだと思います。

前回、資料に挙げた久留間は、別の本(『マルクス経済学レキシコン』)のなかで、「14、商品の価値は、価格としての定在においてはじめて、実現されなければならないものとして現れる」という項目を立てて、3つの例文を引いています。とりわけ一番目に引用してあるマルクスの『経済学批判要綱』の部分は、価格の理解にとって重要と思われますので、長いものですが紹介しておきます。(<>内、@後の改行、●はレポータのもの)

・「商品は交換価値として規定されているものである。交換価値としては、商品は、一定の割合で(それに含まれている労働時間に応じて)他のすべての価値(商品)にたいする等価物である。しかし商品は、直接的にはそれのこうした規定性とは一致していない。交換価値としては、商品は、それの自然的定在における自分自身とは異なっている。商品をそうした交換価値として措定する<取り出す>ためには、ある媒介が必要である。だからこそ、交換価値は貨幣のかたちで、なにか別のものとして商品に対立するのである。@
貨幣として措定された商品が、はじめて、純粋な交換価値としての商品である。言い換えれば、純粋な交換価値としての商品は貨幣である。●しかし同時に、いまでは貨幣は、商品の外部に、またそれとならんで存在している。つまり商品の交換価値は、すべての商品の交換価値は、商品から独立した、ある特有の材料のかたちで・ある独自な商品のかたちで・自立化した存在を獲得したのである。……@
貨幣で表現された、すなわち貨幣に等置された交換価値は、価格である。貨幣が諸交換価値に対立する自立的なものとして措定されたのちに、今度は諸交換価値が、主体としてのそれら<諸交換価値=諸商品>に対立している貨幣、という規定性で措定されるのである。…
貨幣という規定性で措定されている交換価値が価格である。価格では交換価値は一定分量の貨幣として表現されている。価格では貨幣は、第一に、すべての交換価値の統一性として現れ、第二に、それらのそれぞれが特定の数だけ含んでいる単位として現れる。その結果、貨幣との比較によってそれらの量的規定性、それら相互の量的比率が表現されているのである。つまりここでは貨幣は、諸交換価値の尺度として措定されており、<商品の>諸価格は貨幣で計られた諸交換価値として措定されている。貨幣が価格の尺度であり、したがって交換価値が貨幣で互いに比較されるということは、おのずから明らかとなる規定である。@
しかしここでの展開のためにそれよりも重要なことは、価格では交換価値が<実在物である>貨幣と比較されるのだ、ということである。●貨幣が、商品から自立した分離された交換価値として措定されたのちに、こんどは個々の商品が、特殊的な交換価値が、貨幣にふたたび等置される。すなわち一定分量の貨幣に等置され、貨幣として表現され、貨幣に翻訳されるのである。@
諸商品は、<その価格において>貨幣に等置されていることによって、概念から見れば交換価値としてすでにそうであったように、ふたたび相互に関連させられており、その結果それらは、一定の比率で合致しあい比較しあうのである。特殊的な交換価値である商品は、自立化された交換価値である貨幣という規定性のもとに、表現され、包摂され、措定される。このことがどのようにして行われるか(すなわち、量的に規定されている交換価値と一定量の貨幣とのあいだの量的関係がどのようにして見いだされるか)は、上述のとおりである。@
しかし、●貨幣が商品の外部に自立的な存在をもつことによって、商品の価格は、貨幣にたいする諸交換価値ないし諸商品の外的な連関として現れる。●商品がそれの社会的実体から見れば交換価値であったのとは異なり、商品は価格ではない。この規定性は商品と直接に合致するものではなくて、それと<自立化された交換価値である>貨幣との比較によって媒介されているのである。@
●商品は交換価値であるが、それは一つの価格をもつのである。@
前者<交換価値>は商品との直接的統一のなかにあったのであり、商品の直接的規定性であった。●この規定性と商品とが、同じく直接に、分裂し、その結果一方には商品が、他方には(貨幣のかたちで)それの交換価値がある、というようになった。@
だが、●いまや商品は価格において、一方では自分の外部にあるものとしての貨幣に連関し、第二に、観念的にはそれ自身が貨幣として措定されている、というのは、貨幣は商品とは別の実在性をもっているからである。価格は商品の<社会的な>一属性であり、この規定においては、商品は貨幣として表象されるのである。それはもはや、商品の直接的な規定性ではなくて、それの反省された規定性である。●現実の貨幣とならんで、いまや商品は、観念的に措定された貨幣として存在しているのである。」

ここで言われていることは、第一に、使用価値(具体的有用労働の対象化)であると同時に価値(一般的抽象的労働量=社会的必要労働量の対象化)でもある商品は、その価値を表現するために同じ商品世界の内部で二極化(商品一般と貨幣商品とへの分極化)を行なうということ。第二にその結果、そこでは純粋な価値として貨幣商品が措定されると同時に、今度は諸商品がその貨幣と関連することで自らを価格をもつものとして、つまり観念的な貨幣として措定されるということ。つまり商品は、自らが一般的抽象的労働の対象化でもあるということを直接その自然の姿で表現する代わりに、一般的等価物である貨幣(金)を価値そのものと見なし、一定量の貨幣(金)がその商品と等価であり交換可能だということ、つまり「価格をもつ」ということによって表現するということ。しかし第三に、商品が価値として機能するためには、だから実際に貨幣という別の実在物に転換されねばならないこと、と思われます。

ここで重要な事柄は、商品の分裂の結果、純粋な価値と見なされる貨幣が、商品の「外部に」、商品と「ならんで」、自立的な存在をもつことになるということでしょう。
マルクスは『資本論 初版』の「付録」の「β 等価形態の第二の特性。具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる」のなかで、「価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。……この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とはともに法である、というならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関連は不可解になるのである。」(国民文庫版、P142)と語っています。
ここでは純粋な価値と見なされる貨幣が、商品の外部に商品と並んで自立的に存在をもつが故に、商品の価値は価格として、すなわち商品に内在するものとしてではなくて、商品の外部にある貨幣にたいする関係として表現され現れます。商品が価格をもつということは、商品がその自然形態とは別に、現実の貨幣とならんで、観念的に措定された貨幣として二重に存在するということでもあります。
この商品内部での商品と貨幣との分裂、あるいは商品の価値の価格としての表現のなかでは、商品がすでにその生産のために支出された労働量として価値をもっているということが、商品の価格が「実現され」て貨幣に置き換わることとして現われます。したがって価値をもっていることがなにか商品にとって“物”としての性格であり、また貨幣との置き換えによって“事後的”に証明されるものであるかに現れるのです。しかしながら、商品がその使用価値としての姿のほかに、価格という観念的に措定された貨幣の姿をもつということは、商品が“もともと”価値であるということを、商品相互による対立的な関係で表示する方法でしかないのです。
商品の「価格が実現」され、貨幣に置き換われば、商品はその「価値を実現」し、他の商品と置き換わることが可能な形態を持ちます。しかしそれは商品がその貨幣との形態転換運動(W─G─W)を通じて、それに内在する使用価値と価値との矛盾を解決し展開するためのひとつの準備段階なのです。
以前、第3章1節で問題になった、末尾にある「それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている」というマルクスの言葉も、こうした観点から読まれるべきと思われます。

以下の説明部分は「たより7月用」と同じです。
(説明)第3章 第2節 c「鋳貨 価値章標」の1回目

(1)商品の価値としての表示が瞬間的な契機でしかない場合、すなわち金の機能が、商品流通を媒介するための鋳貨または流通手段の機能に解消される場合には、金は無価値な章標によって置き換えられ、紙幣という機能的な存在を受け取ることができる。

c項の冒頭でマルクスはこう語ります。
・「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。」(全集版、P163)
少しとっつきにくい文章でしょうから、『経済学批判』での説明を紹介しておきます。
・「金は、流通手段として機能するさいには、独特な身なりをとり、鋳貨となる。金はその通流を技術上の障碍によってさまたげられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。貨幣の計算名であるポンド、シリング等々で表現された金の重量部分を含んでいることをその刻印と形状で示す金片、これが鋳貨である。」(岩波文庫版、P136)
要するに、鋳貨とは、貨幣が金地金としてではなく、何円、何ドルという貨幣名をもつ金貨として登場することで、価格が一定の呼称で表わされた金の重量で表現されるということです。このこと自体は流通のためのいわば技術上の必要から生まれることであって、理解はそう難しいものではないと思われます(第1節で見たように、貨幣がもつ、価値尺度機能と価格の度量標準という二つの機能を区別できれば、ですが)。
ですから、「地金の状態にある金と、鋳貨としての金とのちがいは、金の鋳貨名と金の重量名との違いにすぎない」(『経済学批判』、同上)のであり、「金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができる」(全集版、P163)のです。

ところで流通過程には、鋳貨をその象徴に転化させるという自然発生的な傾向があるとマルクスは言います。
・「流通しているうちに、金鋳貨は、あるものはより多く、あるものはより少なく磨滅する。金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが、その分離過程を開始する。同名の金鋳貨でも、重量が違うために、価値の違うものになる。流通手段としての金は価格の度量標準としての金から離れ、したがってまた、それによって価格を実現される諸商品の現実の等価物ではなくなる。18世紀までの中世および近代の鋳貨史は、このような混乱の歴史をなしている。鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、金属喪失が一個の金貨を通用不能にし廃貨とするその程度についての最も近代的な法律によっても承認されているところである。」
例えば、かつての1円の鋳貨なら金2分(ふん)=0.75グラムの重量をもたねばならないのに、実際上0.7グラムしかなくなってしまうという事情です。
こうした事情は銀貨や銅貨といった補助鋳貨においては一層顕著ですし、補助通貨自体が
・「貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料からなっている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる」(全集版、P164)のです。

このようにして
・「それら<補助鋳貨……レポータ>の鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。すなわち、およそ価値というものにはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に変わって鋳貨として<すなわち紙幣として……レポータ>機能することができる。」(同、P165)ことになります。
この場合、
・「流通部面が<商品の価格総額を実現するための流通手段=鋳貨として……レポータ>吸収しうる金量は、たしかに、ある平均水準の上下にたえず動揺している。とはいえ、与えられた一国における流通手段の量は、経験的に確認される一定の最低量より下にはけっして下がらない。……それだからこそ、この最小量は紙製の象徴によって置き換えることができるのである。」(同、167)

しかしそれにしても、なぜ金属貨幣流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能なのでしょうか。マルクスは「なぜ金はそれ自身のたんなる無価値な章標によって代理されることができるのか?」と自問し、こう答えています。
・「すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりのことである。……金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通している間だけのことである。……この最小量の金は、<商品価格を実現するために……レポータ>つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。@
だから、その運動は、ただ商品転態W─G─Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのだる。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。@
それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけていく過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の<流通手段としての……レポータ>機能的定在が貨幣の<金という……レポータ>物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。……@
ただこの流通部面のなかで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである。」(同、168)

こうして金属貨幣の流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能になるのですが、価値章標による金属貨幣の代理は、資本主義の現実をいっそう複雑で理解困難なものにしていくことになります。

2018年9月17日

「読む会だより」8月用

「読む会」だより(18年8月用) 文責IZ

(7月の報告)
7月の「読む会」は15日に行われました。
(前回の報告)の部分では、最後から2番目の段落(「価値の形態Gを媒介にした……」)の最後に「商品が運動しているように“現われる”」とあるが、“見える”ということでよいのではないか、とくに違いがあるのか、という質問が出ました。
『資本論』での該当する個所(全集版では、P151~152)の最後が「それゆえ、……逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ“現われる”のである」となっていることもあってそう書いています。単なる外観ではなくて現実的な内容を伴う場合に、“見える”と区別して“現われる”と述べられるようだが、ここでは特に区別しなくてもよいのではないかとチューターは答えました。

関連してチューターは、この段落では、貨幣が商品の価格を次々と実現することで、その持ち手を変えながら通流するから、商品の形態転換が貨幣によって行われているように見えると説明しているが、説明が“方向違い”かもしれないので次回考えて来たいと述べました。
チューターはそこで、なにか商品の価格を実現する運動の“結果”が貨幣の運動であるかに書いていますが、そうではなくて、それもまた一つの外観にすぎないということだと思います。商品の観念的な価値(価格)の実現が、他方での貨幣の観念的な使用価値の実現と結びついていること、あるいは商品の形態運動(転換)ということについての、チューターの一面的な理解があったように思います。
詳しくは別記の参考資料(久留間鮫造、『貨幣論』後篇、「マルクスの価値尺度論」)を参考にして頂きたいのですが、久留間は宇野弘蔵の「商品は自ら運動しうるわけではない」という主張を批判して、「商品が、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を展開すべきものとして措定されているのだ、ということの認識が肝要だ」という見出しをつけています。チューターが説明するには荷が重いのですが、要約すると次のようなことだと思います。
商品に内在している使用価値と価値との対立──すなわち私的で特殊な労働が、社会的効力をもつためには、その直接の対立物である抽象的一般的労働として表わされなければならないという矛盾──は、商品自身が商品と貨幣とに二重化することによって、商品と貨幣との外的対立として表示されることになる。それは言いかえれば、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を、商品自身が展開するような存在を与えられる(措定される)ということである。
なぜなら商品が商品と貨幣とに二重化されると、それぞれが商品としては共に使用価値であるとともに価値であるにもかかわらず、その役割が両極化される。つまり商品は実在的には使用価値であり、その価値存在はただ観念的に価格において現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在的な価値姿態としてそれに対立する金に、関係させる。つまり、使用価値と価値との矛盾が内包されたままでは商品は相互に関連することはできないが、商品が二重化され、商品と貨幣との両極として区別され対立するものとして生みだされることになると、商品は相互に共通な価格をもつものとして関連し運動しうるものになる。逆に、金という素材は、ただ価値の物質化として、貨幣として意味を持つだけである。それゆえに貨幣は実在的には価値である。その使用価値は、もはや、ただ観念的に相対的価値諸表現の列のなかに現われるにすぎなくなる。
このように商品の二重化によって、実在的には使用価値でありながらも観念的には価値として貨幣に関連するものとされる商品極にあっては、それはその価格を実現することによって貨幣に転換されるべきもの(W─Gの運動をするもの)としてのポテンシャルをもつ。他方で実在的には価値でありながらも観念的に諸商品と関連するものとされる貨幣極にあっては、それはその観念的な使用価値を実現して諸商品に転換されるべきもの(G─Wの運動をするもの)としてのポテンシャルをもつ。そして両極がこのような反対のポテンシャルをもつからこそ、両極化された使用価値と価値との矛盾は、W─G─Wという形態運動(転換)を展開することになる。
おおよそこのようなことだと思います。チューターは、商品の側の観念的な価格の実現という面だけを見て、それが貨幣の側の観念的な使用価値の実現と対をなしているという面を見落としている点で、前回の説明は一面的だったと思います。「商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる」(P152)のは、商品が「その流通の前半で貨幣と場所を取り替え」、「それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる」ことで流通の場からは目に見えなくなるからであり、また商品に代わって「その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占め」、「流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける」からであり、「それとともに、<流通における>運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる」からにほかなりません。
貨幣は購買手段として「商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと」移るという同じ運動をくりかえします。しかしこのような貨幣の“購買手段”としての機能は、W─G─W’という商品の形態転換の運動が、前半のW─Gにおいても後半のG─Wにおいても「貨幣とそのつど別な商品との場所変換を含んでいる」からであって、貨幣の購買機能が商品の形態転換をひき起こすというわけではないのです。

前回の(説明)の部分では、柄谷氏のコラムについての評価について再度いろいろと意見が出されました。「交換を強いるのは物神の力」という氏の主張に反論した林氏の文章をコピーで出しておきます。
もう一つ議論となった、氏の労働者商品の評価については、同じく林氏による反論を『商品の意味するもの』の中から2か所あげておきます。

「労働力も商品である以上、その価値規定は一般の商品と同じである──つまり、その再生産に必要な社会的労働こそが、労働力商品の価値となる。
しかし労働力の“再生産”に必要なものは、直接には社会的労働ではなくて、労働者が消費する生活資料にほかならない。資本主義社会ではこれらの消費手段は商品である。従って、労働力の価値は、一定額の生活手段の価値に還元され、かくして(こうしていわば回り道をして)労働力の価値規定もなされるのである。
見られるように、労働力の価値規定は、一般商品の価値規定──価値法則、と呼んでもいい──を前提にし、それを“媒介”にして間接的になされるのであって、一般商品のように“直接に”なされるのではない。これは、労働力が人間の生産的活動の諸結果なのではなく、むしろ反対にその“主体”、前提なのだから、当然といえば当然である。(もちろんある意味では、労働力も人間の生産的活動の結果、その成果ともいえるのだが)。
周知のように、宇野学派は労働力商品のこの特殊性を理解していない。むしろ彼らはあべこべに、労働力商品の価値規定が一般商品の価値規定の前提であるかの愚論──まず労働力商品の価値規定がなされ、それが一般商品の価値規定として“波及”していく等々──を“真正科学”の名で語っている。詳しくは展開できないが、ここでは、こうした見解がスミス的な、マルサス的たわごとである、とだけ言っておく(宇野はこの点では、自分の見解はスミスと同じだと公言してはばからない)。
労働力商品の価値規定が、労働者の消費する生活手段の価値規定として媒介的であるということは、当然、この価値規定に、一つの量的な特殊性を──質的な特殊性のほかに──つけ加える。……」(著作集1、P125)

「宇野派は労働力商品についてもおしゃべりをくりかえし、「本来商品でない労働力までもが商品化するのが資本主義の根本矛盾だと言ってきた。
労働力商品が「本来商品ではない」というなら、宇野派は事実上、「本来の商品」を、つまり“労働価値説”によって本質的に規定される一般商品を前提しているわけだ。彼らは、一般商品と労働力商品とを区別した──これは大変にすばらしいことである。
しかし他方、宇野派はずっと、一定の価格をもつものが即商品である、と言ってきた。彼らは、ヴェーム・バヴェルクらとともにマルクスの労働価値説を攻撃して、商品の価値規定を「最初から」やるから、他の商品の規定ができなくなる。単に価格(すべての商品に共通なある量!)を持つものを商品として、つまり「流通形態」として規定しておけば、マルクスもバヴェルクらに批判されないですんだろうに、とおっしゃっている。
もし一般商品と労働力商品(さらには土地などの“商品”)を区別しようとするなら、労働価値説に立脚する以外ないことは明らかである。
宇野派は、一方で、価格をもつものはすべて商品だ、とおっしゃる。他方では、一般商品と労働力商品を区別せよとおっしゃる。これは偉大なる矛盾ではないでしょうか!
……宇野にとってこの言い方がペテンであり自己矛盾そのものであるのは今見たとおりだが、そのことはさておくにしても、ヨリ本質的に反省してみれば、一般商品もまた「本来商品ではない」のだ(それとも宇野学派は、生産物は「本来商品だ」とでも妄想しているのか?)
人間の労働生産物は私的所有と分業の社会では“商品”となり、“商品”としてあらわれる。この社会では人々は直接に社会的存在でなく私的生産者であり、孤立した存在である。こうした人々の社会的な結びつきは、ただ自らの私的な生産物を“商品”として交換することによってのみ可能となる。人々は直接に社会的労働を“交換”しえないので、生産物を交換することで、媒介的にそれをなす。これがかの有名な“交換価値”(市場経済!)であり、その秘密なのだ。
資本主義が克服されれば、労働生産物が「本来商品でない」ことは白日の下にさらけ出されるだろう。……」(同、P126)

今回は、いくつか資料もあり、夏バテということで(説明)の部分にははいりません。了承願います。
(資料を別添します)

資料2 久留間鮫造『貨幣論』(大月)、後篇「マルクスの価値尺度論」より

13){〈商品は自ら運動しうるわけではない〉という点からするマルクス批判について}

{宇野氏は、商品は自ら運動しうるわけではない、貨幣によって運動させられるのだ、と言う}
B それでは次の問題に移ります。宇野教授は、58頁でこう言っています。
〈マルクスは、「交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化を、すなわち諸商品がそれらの内在的な使用価値と価値との対立をそこで表示する外的対立を生ぜしめる」(岩波文庫1、200頁)と言い、「諸商品のかかる対立的な諸【P265】形態は、諸商品の交換過程の現実的運動形態である」(同上)とも言っているが、これはなお商品の側からの規定にすぎない。「諸商品の現実的運動諸形態」といっても、商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである。商品の、商品と貨幣とへの二重化は、商品の側からは観念的なる貨幣形態を与えうるだけであって、この対立もそれだけでは現実的に解決される運動を展開するわけではない。〉
この、「商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである」、という主張についてはどうお考えでしょうか?

{「諸商品の対立的な諸形態」についてのマルクスの叙述は「商品の側からの規定にすぎない」のか?}
久留間 その前にまず、「マルクスは……『諸商品のかかる対立的な諸形態は、諸商品の交換過程の現実的運動形態である』とも言っているが、これはなお商品の側からの規定にすぎない」とある、これが問題です。どういうつもりで、それを「商品の側からの規定にすぎない」と言うのか、ぼくにはちょっと分かりかねるのです。マルクスが「諸商品の“かかる”対立的諸形態」と言っているのは、そのすぐ前に彼が述べていることを受けていることは言うまでもない。では、どういうことを彼はそのすぐ前に述べているかというと、こういうことを言っているのです。

{マルクスは明白に「貨幣の側からの規定」をも与えている}
交換過程は貨幣を生み出すことによって、「商品と貨幣とへの商品の二重化」を生ぜしめる。そうすると、商品に内在する使用価値と価値との対立が、商品と貨幣との外的な対立として現れることになる。ところでこの場合、商品および貨幣は、もはや商品でなくなるのではなく、やはり商品であり、使用価値と価値との統一なのだが、この区【P266】別の統一は、商品および貨幣の両極に逆に現われ、それによって同時に、商品と貨幣との相互関係を表わすことになる。大体こういう意味のことを述べた後に、マルクスは、この最後の点<商品と貨幣との相互関係>を具体的に説明して、次のように言っているのです。
〈商品は実在的には使用価値であり、その価値存在はただ観念的に価格において現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在的な価値姿態としての対立する金に関係させる。逆に、金材料は、<それが独自に持つ使用価値としてではなく>ただ価値の物質化として、貨幣として、意味をもつだけである。それゆえ、貨幣は実在的には交換価値である。その<貨幣としての>使用価値は、もはや、ただ観念的に相対的価値諸表現の列のなかに現われるにすぎない。(『資本論』Ⅰ、119頁、「方法Ⅱ」、〔305〕〉
ここでマルクスは、一見明白なように、「商品の側からの規定」だけではなくそれに対応するものとしての貨幣の側からの規定をも与えているのです。「その逆に、金材料は、云々」という後半の叙述がそれです。そしてそれを受けて、「諸商品のかかる対立的な諸形態は、諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、と言っているのです。(……省略……)
ところが宇野君はこれを読んで、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」と言う。一体どういう読み方をするとそういう解釈ができるのか、ぼくにはどうも不思議でたまらないのです。

【P267】{「諸商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」ということの意味}
念のために、もう一度くり返して説明すると、「諸商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、とマルクスが言っているのは、今も言ったように、商品に内在する使用価値と価値との対立が商品と貨幣との対立として外化することになると、商品の方は、実在的には使用価値であって、それの価値は価格の形態で、一定量の金として表示されることになるが、この表示はなお観念的にすぎない。すなわち、商品は価値としては一定量の金であるといっても、商品が本来の使用価値の形態にあるかぎりは、それはまだ現実の金にはなっていない。だから、価格の形態において、商品は、価値として現実に作用するためには、本来の使用価値の形態を譲渡することによって現実の金にならねばならぬものとして──すなわちW─Gの運動を展開すべきものとして──措定されていることになる。@
その反対に金の方は、価値の体化物すなわち貨幣としてのみ意味をもっている。だからそれは、実在的に交換価値、すなわちいかなる他商品とも交換可能なものである<久留間は交換価値についてこう言う>。と同時に、そういうもの<すなわち交換価値ないし貨幣>としての金の使用価値は物価表を逆に読む形──いわゆる「貨幣商品の特殊的相対的価値形態」──で表示されることになる。だがこの表示はなお観念的にすぎない。だからこの形態において、貨幣としての金の使用価値はこれから実現されねばならぬものとして──すなわちG─Wの運動を展開すべきものとして──措定されていることになる。@
このようにして商品は、商品と貨幣とに二重化し、それに内在する使用価値と価値との対立が商品と貨幣との外的対立として表示されるようになると、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を、展開すべきものとして措定されることになり<注意!!>、商品の交換過程は、これらの対立的な形態を通して運動することになる。マルクスが「諸【P268】商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、と言っているのは、このことを言っているのです。

{宇野氏は、商品から独立した貨幣の規定が別にあるとでも考えているのだろうか?}
ところが、宇野君はこれをつかまえて、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」と言うのだが、なぜこれが「商品の側からの規定にすぎない」のか、ぼくにはどうもそのわけが分からない。もちろん、貨幣にしても商品の価値の自立化したものであり、商品の転化した形態にほかならない。だから、今言ったような貨幣の側からの規定にしても、やはり商品の規定にほかならないということ、ひいてはまた、G─Wにしても商品自身の運動──商品の第二の姿態変換──にほかならないということは、確かな事実です。だがもし、だからそれは「なお商品の側からの規定にすぎない」と言うのだとすれば、それはとりもなおさず、上に述べた以外の・もともと商品から独立した・貨幣の規定が別にあるものと考え、それをマルクスは説いていないといって批難していることになる。しかし宇野君にしても、まさかそういう途方もないことを考えているものとは思えない。とすると、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」いう宇野君の批難は、「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」というマルクスの言葉の意味を全然理解していないことから来ているものと考えるほかはないことになる。

{「商品は自ら運動しうるわけではない」というのは無理解の上に安住した放言だ}
なお宇野君は上に続いて、「『諸商品の〔交換過程の〕現実的運動〔諸〕形態』“といっても”、商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである」、とも言っている。そしてこれが、さきほどB君が問【P269】題にしようとした点なのですが、これもまたぼくには、同じ無理解の上に安住した放言としか思えない。

{商品が、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を展開すべきものとして措定されているのだ、ということの理解が肝要だ}
なるほど、貨幣の側からのG─W(購買)なしには商品のW─Gの運動(販売)は行われないということは、確かに事実に相違ないが、しかし同時にまた、商品の側からのW─Gなしには貨幣のG─Wの運動は行なわれえない、ということも事実です。両者は相互に条件づけあう関係にあるので、一方だけが他方の条件をなすわけではないのです。だがいずれにしても、これはもともと、運動が行なわれるためのいわば外的な条件の問題にすぎない。われわれは、運動を問題にする場合、そういう外的条件を問題にする前に、運動そのものがなにによって必然とするかを問題にする必要がある。一般に、あるものが運動するのは、それが矛盾をもっていて、そのままの状態に留まりえないからです。さきにぼくが引用した──宇野君の引用では省略されていてぼくが補足した──個所で、マルクスはまさにこの観点から、商品が商品の形態にあってはW─Gの運動を・反対に貨幣の形態にあってはG─Wの運動を・展開すべきものとして措定されているところの、その形態について述べているのです。そしてそれを受けて、「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」と言っているのです。
なお、念のために注意しておくが、ここ<諸商品のかかる対立的諸形態は……の部分>でマルクスが言っていることは、商品変態論の冒頭で彼が言っていることに対応しているのです。そこで彼はこういうふうに言っている。「すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾し互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を取り除きはしないが、これらの矛盾が運動しうる形態をつくりだす。これは、一般に現実的な矛盾が解決さ【P270】れる方法である」(『資本論』Ⅰ、118頁、「方法Ⅱ」〔305〕)。──「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」と言うとき、マルクスは、この冒頭<第2節第4パラ>にいわゆる「これらの矛盾が運動しうる形態」の実際のあり方について述べているのです。

{究極的には、交換過程論の意義を理解しないことから、見当はずれの批難が生じている}
ぼくは、今日最初に話したさいに、マルクスの商品変態論に対する宇野君の異論は、究極的には、マルクスの交換過程論の意義を理解していないことから来ているということ、そのために、交換過程論につながる商品変態論の重要な意義を理解しえないことになって、検討はずれの批難を加えることになったのだということを述べたのですが、今の、「『諸商品の〔交換過程の〕現実的〔諸〕形態』といっても、商品は自ら運動しうるわけではない」というのも、まさにその一例にほかならないと思うのです。
<以上 『参考資料』の項目に全文を掲載しています>

2018年8月20日