会報(たより)

読む会だより

「読む会」だより4月用

「読む会」だより(19年4月用) 文責IZ

(3月の報告)
3月の「読む会」では、(2月の報告)でチューターが「抽象的なものがなにか具体的なものから独立して具体的なものと並んで存在したり、あるいはなにか具体的なものを生みだしていくかのようなヘーゲル的な神秘化に迷い込むことにもなります」と触れた部分について、「“ヘーゲル的な神秘化”というのがどんなものなのか例を挙げてほしい」という質問が出されました。『聖家族』や『経哲草稿』などでマルクスはあれこれ触れているが、今は挙げられないということで、宿題にしてもらいました。(なお、むしろ指摘された部分より、その前の文章が長すぎて、意味がとりにくかっただろうと、チューターは反省しています。機会があれば直します。)
少し調べようとしたところ、単なるヘーゲル「哲学」の批判ではなくて、具体的な存在をもっている「政治」や「国家」をどう理解するかをめぐって、マルクスの考え方を理解するのにうってつけな所があったので、かなり長くなりますが、ここで引用しておきます。また、あまり「方法論」に立ち入りすぎるのは良くないと考えていますが、いわゆる哲学用語についての簡明な説明がありましたので、この機会にあわせて紹介しておきます。
難解なヘーゲルの文章に付き合うのは苦手という方が多いと思いますが、少しだけお付き合い下さい。

紹介するのは初期の著作の一つ『ヘーゲル国法論批判』からの引用ですが、その前に「ルーゲ宛の手紙(1843年)」で、マルクスがこのヘーゲル批判をする意図が書かれており、とても重要だと思いますので、まずそれを紹介しておきます。ここでマルクス自身が述べている通り、政治の分析のために、つまり社会改革のために、哲学=認識論を役立てること、これがマルクスのマルクスたるゆえんとチューターは考えています。

・「フォイエルバッハは余りにも自然にかかわりすぎ、そして余りにも政治にかかわらなさすぎます。……しかし政治と結ぶこと、ただこれのみが今日の哲学をして真理たらしめる唯一の同盟なのです。」(国民文庫、『ヘーゲル法哲学批判序論』への「あとがき」からの重引)

・「第262節。『現実的理念、精神──このものはそれの概念の二つの理念的な圏、すなわち家族と市民社会に己れ自身を割って、己れ自身を有限な在り方にするのであるが、これは精神がこれらの両圏の理念性から出て対自的<※1>に無限な、現実的精神であらんがためである──それは、そのため、これらの圏にこのそれの有限的現実性の材料、すなわち衆人としての諸個人を割り当て、しかもこの割り当ては個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによって媒介されて現われるように行われる。』

この<ヘーゲルの難解な>文章をなんでもない言い方に直せば、こうなる。
国家が家族および市民社会と媒介されるされ方は「境遇とか個人的自由とか職分の自身での選択とか」である。したがって国家理性は国家材料の家族および市民社会への割り振りとは何のかかわりもない。国家はある無意識な、かつ自由勝手な仕方で、それらから出てくる。家族と市民社会は暗い、生の下地として現われ、ここから国家の火が点(とも)り出る。国家材料という場合には、国家の取り扱う仕事、つまり家族と市民社会が──これらが国家の部分をなし、国家としての国家にかかわりをもつかぎり──理解されているのである。
この展開は二重の点で目に立つ。
1、家族と市民社会は国家の概念圏、それも国家の有限性の圏、国家の有限性と解される。国家とは、それ自身をこれらの圏に割るもの、これらの圏を前提するものであって、しかも国家がそうするのは、「それら両圏の理念性から出て対自的に無限な、現実的精神であらんがため」である。「それは己れを割るのであるが、これは……がためである。」それは「そのため、これらの圏にそれの現実性の材料を割り当て、しかもこの割り当ては……に媒介されて現われるように行われる。」言うところの「現実的理念」(無限な、現実的な精神としての精神)なるものは、あたかもある特定の原理にしたがい、そして特定の意図のために行動しでもするかのように描かれる。それはそれ自身を有限な諸圏に割り、それがそうするのは、「自身のうちへ戻ってくるためであり、対自的であらんがためであり」、しかもそれがそうするのは、それこそがまさに現実的な在り方にほかならぬからである。

★この個所で論理的汎神論的神秘主義が非常に歴然と現われる。
現実的な関係は、「国家材料の割り当ては個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによって媒介されている」ということである。この現実的関係が思弁によって現われとか現象とかいう言葉で言い表わされる。★ある特定の境遇、ある特定の個人的自由、ある特定の職分の選択、こういった特定の現実的媒介は、現実的理念がそれ自身を相手に行なうような媒介、しかも舞台裏でおこなわれるような媒介、の現われであるにすぎない。★現実はそのもの自体としてではなく、なにか別の現実として言い表わされる。通常の経験はそれ固有の精神をではなくて、なにかそれとは無縁の精神を掟にもち、これに対して現実的理念はそれ自身から展開された現実をではなくて、通常の経験を定在<※2>にもつ。
理念は主体化され、そして家族と市民社会との国家にたいする現実的な関係は理念の内的な、想像上のはたらきと解される。★家族と市民社会は国家の前提であり、それらはもともとアクティブなものなのであるが、思弁の中であべこべにされる。ところで理念が主体化されると、その場合には、現実的な諸主体であるところの市民社会、家族、「境遇とか個人的自由とか等々」は理念の、非現実的な、他のものを意味する、客体的な諸契機となる。
「個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによる」国家材料の割り当ては真実のこと、必然なこと、本来それはそれとして理由のあることとして端的に述べられるということはない。境遇や個人的自由がそのようなものとして理性的なもの<必然的なもの>と称されるということはない。が、それにしてもやはり別の面でそれらは理性的なものとなる。ただしこの場合、それらは見かけ上の媒介と称されるというだけである。つまりそれらは現にあるがままのあり方に放置されながらも、同時に理念の一つの規定、理念の一つの成果、一つの産物という意義を受け取るという形でそうなるにすぎない。この区別は内容のうちに存するのではなくて、見方のうちに、あるいは言い表わし方のうちにある。二重の歴史、すなわち秘儀的なそれと公開的なそれとがある。内容は公開的な部分のうちにある。秘儀的な部分の関心はいつでも、論理的概念の歴史を国家のうちに認めるという関心である。しかしながら本来の展開が行われるのは、公開的な面においてなのである。

★合理的にはヘーゲルの文章は次のことを言っているにすぎないであろう。すなわち、
家族と市民社会は国家の諸部分である。国家材料は「境遇とか個人的自由とか職分の自身での選択とかによって」これらの部分に配分されている。公民は家族成員と市民社会の成員である。
「現実的理念、精神──このものは、それの概念の二つの理念的な圏、すなわち家族と市民社会に己れ自身を割って、己れ自身を有限的な在り方にする──」──このように、国家の家族と市民社会への分割は理念的、すなわち必然的であり、国家の本質に属する。★家族と市民社会は国家の現実的な部分、意思の現実的、精神的現存態であり、両者は国家の定在様式である。家族と市民社会はそれ自身を国家となす。それらは原動力となって他を推し動かすものである。@
これに反してヘーゲルによれば、家族と市民社会は現実的理念によって働きを受けている。それらを国家に統合するのは、それら自身の生<なま>の成り行きなのではなくて、理念の生の成り行きがそれらを己れからふるい分けたのであり、しかもそれらはこの理念の有限性なのである。それらはそれらの定在を、それら自身の精神とは別な一つの精神に負っており、ある第三者によって定立された規定なのであり、いかなる自己規定であるのでもない。事実またそれらが「有限性」として、規定されるのもこの故である。それらの定在の目的はこの定在そのものにあるのではなくて、理念がこれらの前提を自身から切り離すのは、「それらの理念性から出て対自的に無限な、現実的精神であらんがため」である。ということは、★政治的国家は家族という自然的土台と市民社会という人工的土台なしにはあり得ないということであり、それらは国家にとって一つの欠くべからざる条件なのであるが、しかし<ヘーゲルにあっては>条件が条件づけられたものとして、規定するものが規定されたものとして、産出するものがそれの産物の産物として定立される。@
現実的理念がその身を貶めて家族および市民社会の「有限性」へ入りこむのは、ただこの有限性の揚棄を通じて国家の無限性を享受し産出せんがためにほかならぬ。現実的理念は「そのため」(国家の目的を成就するために)「これらの圏に、このそれの有限的現実性」(この? どんな? これらの圏は何と言ってもそれの「有限的現実性」、それの「材料」にほかならないのである)「の材料、すなわち衆人としての諸個人を割り当て」(国家の材料はここでは「諸個人、衆人」であり、「彼らから国家は成立している」のであるが、この国家の成立はここでは理念の業<わざ>と称され、理念がそれ自身の材料でもって行うところの「配分」であると言われる。★事実においては、国家は家族成員として、また市民社会の成員として現存しているような衆人から出てくる。思弁はこの事実を理念の業と称し、大衆の理念とは言わずに、かえってある主体的な、事実そのものとは別な理念の業と称する)「しかもこの割り当ては」(さきにはただ家族と市民社会の両圏への諸個人の割り当てのことが云々されているだけである)「個人にあっては境遇とか個人的自由とか等々によって媒介されて現われるように行われる。」@
★ご覧のとおり経験的現実があるがままに受け入れられ、この現実がまた理性的だとも称されるのであるが、しかしそれはそれ固有の理性のおかげで理性的であるのではなくて、それが理性的なのは、経験的事実はその経験的な現存においてはそれ自身とは何か別な意義を有するからである。出発点となる事実はかかる事実そのものとは解されず、かえって神秘的な成果と解される。現実的なものは現象となるが、しかし理念はこの現象以外のどんな内容をも持ちはしない。のみならずまた理念は、「対自的に無限な、現実的精神であらん」とする論理的目的以外のいかなる目的をも持ちはしない。★この節のうちに法哲学、またヘーゲル哲学一般の全秘密が蔵されている。」(国民文庫版、「ヘーゲル法哲学批判序説」に所収、P6~)

国家は諸個人からなりたっており、この諸個人は家族成員としてまた同時に市民社会の成員として存在している。だから国家を理解するためには、諸個人が市民社会のなかでもつ関係、その媒介のされ方を理解することから始めなければならない、とこうマルクスは語っているようにチューターには思われます。ただ残念ながら「国民国家」の意義等については不勉強で多くは語れません。
下に、いわゆる哲学用語のいくつかの説明を挙げておきます。これまた難解でしょうが。

≪※1 ヘーゲル、「法の哲学」より。なお、即自、対自、即自かつ対自というヘーゲル用語については、広辞苑では以下のように説明されています。「即自、対自、即自かつ対自、はヘーゲル弁証法の根本的概念で、事物の発展段階を示す語。即自はそれ自身の存在に即した未発展の段階、対自は即自の状態から発展し否定契機として自己の対立物が現われる段階、即自かつ対自は、その対立を止揚して統一を回復した一段階高まった状態。この3段階は定立・反定立・総合(正・反・合)に対応する」 なお、下記の日本大百科全書によれば、「『正立<定立>・反立<反定立>・総合』を略して「正・反・合」と呼ぶ。たとえば『存在・無・生成』において、生成は存在(正)と無(反)の対立を克服し、高め、その両契機を保存する。すなわち止揚する「合」の段階である。この概念は本来ヘーゲルのテキストには存在しないもので、フィヒテの概念をヘーゲル哲学の説明に援用したものにすぎない……」。むしろヘーゲル自身は、「止揚 揚棄とも訳される。否定・保存・高揚という三義を含む。ヘーゲルはこの三義を三位一体と見なし、弁証法の根本要素とした」とある。≫

≪※2 日本大百科全書「ヘーゲル哲学の基本概念」によれば、定有、定在、定存在ともに「[規定された存在、質をもつ存在]の意。……ヘーゲルでは[一定の具体的な実在物]のこと……。定有は質を身につけている。すなわち、他の物との差異、性質上の限界、制限を自分の性質として持っている。定有は、限界を身の周辺につけているだけではなくて、限界を自分の核心に体している。しかし限界という規定はその定有の否定である。ゆえに定有とは、自己の否定を自己のなかに含む存在である。また、定有は本性の現われ、示現、権化、托身、受肉である。たとえば<ヘーゲルにおいては>、私の所有物は私の所有権の定有である。国家は自由の定有である。」また、市民社会とは「自由な市場経済活動の営まれる分業化された社会を、家族からも国家からも明確に区別して述語化したのはヘーゲルの歴史的功績である。マルクスの場合には、同じ言葉が[ブルジョア社会]と訳され、歴史の一段階としてとらえられるが、ヘーゲルでは、あらゆる歴史社会の構造として[市民社会]が組み込まれている。……」
また、「契機」についてはこう触れられているので、参考までに紹介しておくと、「多面的な要素から構成される実在の一側面。たとえば「消費」は商品交換の契機である。消費という要素だけでは交換は成り立たないが、消費という契機なしにも交換は成り立たない。もともとは力学の「モーメント」の概念から取られた概念で、たとえば、梃子や竿秤では、重力を支える力の分力が竿の長さで表現される。この時の実在の全体性に対して、契機の一面性・抽象性を『観念性』と呼ぶ。有限なもの、一面的なものの<実在の全体性にたいする>観念性を認識するのが『観念論』の立場である<とヘーゲルは理解する??>」≫

チューターが参院選に立候補するため5、6、7月の「読む会」は休会とさせていただきますので、今回は(説明)部分には入らないことにします。ご了承ください。

2019年4月24日

「読む会」だより3月用

「読む会」だより(19年3月用) 文責IZ

(前回の報告)
2月の「読む会」では、「抽象的労働」について、これまでのまとめになるような二つの質問が出されました。
ひとつは、労働のもつ(無差別な)抽象的人間労働としての側面が、資本主義社会において発見され認識されるようになったということであったが、資本主義社会以前の労働においても抽象的人間労働としての側面はあったということかという質問でした。
チューターは、およそ次のように答えました。第2節で「すべての労働は、……同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する」と言われているように、資本主義社会以前においても、すべての労働(具体的有用労働)が抽象的人間労働としての側面・属性をもつ──すなわちどれをとっても“人間の”労働であり、その一部分である──と言えます。しかしここで問題になるのは、発展した商品生産と社会的な分業をもつ資本主義社会においては、この無差別な人間労働としての側面こそが、商品の価値として、支出された労働が社会的労働と認められるための条件になるというところに歴史的な特徴があるということです。
以前の社会、たとえば封建制では、そうではありません。農民による年間に何日かの領主の土地での耕作とか年貢米の生産のための労働といった、種々の使用価値を生み出す具体的な有用労働の特定の姿そのものが社会的労働であるための(言いかえればそこでの社会関係の)条件でした。資本主義社会でも、直接的生産者である労働者が、その支配者である資本家を養うためにも労働を行なわねばならないという点では同じことです。しかしながらここでの社会的な労働は、単に支配者を養うためばかりではなく労働者自らが生活していくためにも、諸個人が行う具体的有用労働の姿ではあり得ず、商品の価値を生みだす無差別な人間労働でなければなりません。
というのは、社会の富が「巨大な商品の塊」(『資本論』の冒頭)として存在する社会においては、諸個人の労働は労働そのものとしてではなくて、商品に対象化された労働としてのみ他の労働と関係しうるのですし、種々別々な商品に対象化された労働が社会的な労働として相互に関係するためには、異種の商品を生み出す具体的有用労働としてではなく、他の商品に支出された労働と共通な、無差別な人間労働としてだけ、したがってまた量的にだけ異なるものとして相互に関係できるからです。商品の価値の実体である抽象的人間労働は、直接に感覚的な存在をもたないとはいえ、商品を生産するために支出された労働時間(社会的に必要な)として現実的なものであり、商品はこのことを共通な価格をもつことで表現しているのです。
マルクスは、別記の※参考(初版より)にあるように、「“社会的であること”の標準は、それぞれの生産様式に特有な諸関係の性質から借りられるべき」だと語って、ある労働が社会的なものであるための条件は、それぞれの社会に独自な歴史的なものだと語っています。
資本主義社会においては、抽象的人間労働であるということが社会的労働であるための条件ですが、抽象的労働であるということ(すべての具体的労働がそういう側面をもつということ)と、一定の社会においてどのような労働が人々を結びつける社会的労働であるのかということとは区別して考えるべきと考えられます。

また、「法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関連は不可解になるのである。」という意味がまだ分かりにくい、という意見が出されました。
前回この文章のすぐ前の部分を引用し忘れていましたので合わせて引用しておくと次のようです。
・「価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。@
たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。@
この取り違えは不可避である。というのは、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無差別な人間労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が別種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてのみのことだからである。
この転倒によっては、ただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。(以下に上記の文が続く)」(初版、国民文庫、P142)

前回も触れましたように、通常ならば、抽象的一般的なものは、具体的なもの、感覚的現実的なものの一般的な共通な属性として認められます。たとえば上着に含まれている裁縫労働には、それがあれやこれやの人間の労働のなかの一つであるという他の労働と共通な一般的な属性がありますが、このことには特段の不可思議さは見当たらないでしょう。このことをマルクスは「もし私が、ローマ法とドイツ法は両方とも法である<法という一般的属性をもつ>、と言うならば、それは自明なことである。」とその個所で語っています。
しかしながら、商品の価値関係およびそこでの価値表現においては、たとえば20エレのリンネル=1着の上着をとりあげてみると、二つの商品リンネルと上着は、同じ価値でありながらも、一方のリンネルはその価値を表現するものであり、他方の上着は相手のリンネルのために価値表現の材料になるものであるという役割分担のもとで、リンネルの価値が上着で表現されることになります。この場合、後者の上着(つまり他商品リンネル価値表現の材料になる等価形態に置かれる商品)においては、それに含まれる裁縫労働という労働は、裁縫という一つの特殊な具体的労働としてリンネルに含まれる紡績労働に関係するのではなくて、両者に共通な、人間労働の一実現形態としてのみリンネルと関係することになります(そうでなければ両者には共通なものがなく、共通なものがなければ両者は関係しえないのですから)。だから、その価値を表現するリンネルにとっては、リンネルによってその等価物(究極的には貨幣)とされる上着に含まれる裁縫労働は、それが人間労働でもあるという一般的属性をもつ具体的有用労働として認められるのではなくて、「人間労働であるということが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけ」という“転倒した”関係をもつことになります。つまりリンネルは、それと等しいとして対置される上着に含まれる裁縫労働を、自分に含まれる紡績労働と同じ、人間労働の一つの実現形態としてのみ認め、それが対象化された上着(究極的には貨幣)を、裁縫労働という具体的な労働が対象化された特定の使用価値としてではなくて、無差別な人間労働が対象化された塊=価値として取扱うことによって、自分を価値として表現しているのです。
具体的な労働をただ抽象的な人間労働の一実現形態としてのみ認めるというこの事象は、ただ商品相互による価値表現という関係のなかでだけのことですし、具体的な労働とそれがもつ人間労働としての抽象的な属性という両者の対立は、二つの同じものの単なる役割分担によってひき起こされるものです。しかし等価形態がある商品に固定化されるにしたがって、その商品が人間労働の塊=価値として認められることは、なにかその特定の商品がもつ自然属性と関連したもののように見え、したがって商品の価値表現は理解が困難なものになります。また等価物に置かれる商品(究極的には貨幣)にあっては、裁縫労働といった具体的な有用労働が同時に抽象的な人間労働の一部でもあるという一般的な属性をもつということが、裁縫労働は紡績労働にとっては具体的な労働としてではなくて、抽象的な労働の一つの実現形態としてのみ認められるという対立的で転倒した形で現われ、具体的有用労働とその一般的属性としての抽象的人間労働との関連がねじ曲げられるために、両者の関係が不可解なものになり、抽象的なものがなにか具体的なものから独立して具体的なものと並んで存在したり、あるいはなにか具体的なものを生みだしていくかのようなヘーゲル的な神秘化に迷い込むことにもなります。

(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」「a 貨幣蓄蔵」の2回目
2)金属流通の経済における貨幣蓄蔵の機能の一つに、一国に現実に流通する貨幣量をいつでも流通部面での飽和度に適合させるための、貨幣の流出流入の水路になるという機能がある。

貨幣蓄蔵については、現代においては金属貨幣の流通がなくなっているという事情のほかには、さほど難解な部分はないとおもわれますので、いくつかの引用だけで次の「b 支払い手段」に進みたいと思います。

・「使用価値としての商品は、ある特殊な欲望を満足させ、素材的な富の一つの特殊な要素をなしている。ところが、商品の価値は、素材的な富のすべての要素にたいするその商品の引力の程度を表わし、したがってその商品の所有者の社会的な富の大きさを表わしている。@
未開の単純な商品所持者にとっては、また西ヨーロッパの農民にとってさえも、価値は価値形態から不可分なものであり、したがって金銀蓄蔵の増加は価値の増加である。……」
・「金を、貨幣として、したがって貨幣蓄蔵の要素として、固持するためは、流通することを、または購買手段として享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。それだから、貨幣蓄蔵者は黄金呪物のために自分の肉体の欲望を犠牲にするのである。……」
・「蓄蔵貨幣の直接的な形態と並んで、その美的な形態、金銀商品の所有がある。それは、ブルジョア社会の富とともに増大する。……こうして、一方では、金銀の絶えず拡大される市場が、金銀の貨幣機能にはかかわりなく形成され、他方では、貨幣の潜在的な供給源が形成されて、それが、ことに社会的な荒天気には、流出するのである。」
・「貨幣蓄蔵は金属流通の経済ではいろいろな機能を果たす。まず第一の機能は、金銀鋳貨の流通条件から生ずる。すでに見たように、商品流通が規模や価格や速度において絶えず変動するのにつれて、貨幣の流通量も休みなく満ち引きする。だから、貨幣流通量は、収縮し膨張することができなければならない。あるときは貨幣<金銀>が鋳貨として引き寄せられ、あるときは鋳貨が貨幣<金銀>としてはじき出されなければならない。現実に流通する貨幣量がいつでも流通部面の飽和度に適合しているようにするためには、一国にある金銀量は、現に鋳貨機能を果たしている金銀量よりも大きくなければならない。この条件は、貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。蓄蔵貨幣貯水池は流通する貨幣の流入流出の水路として同時に役だつのであり、したがって、流通する貨幣がその流通水路からあふれることはないのである。」

※参考(「初版」での、第2版での一般的価値形態に相当する部分よりの引用)
・「1着の上着   =20エレのリンネル
u量のコーヒー =20エレのリンネル
v量の茶    =20エレのリンネル
等々
……
労働の直接的に社会的な物質化としては、リンネル、すなわち一般的な等価物は、直接的に社会的な労働の物質化であるが、他方、自分の価値をリンネルで示している他の諸商品は、直接的には社会的でない諸労働の諸物質化である。
実際にすべての使用価値が商品であるのは、ただ、それらが互いに独立な諸私的労働の諸生産物であるからにほかならない。私的労働、といっても、分業の自然発生的な体制の、独立化されているとはいえ特殊な諸分肢として、素材的には互いに依存しあっている私的労働である。それらの労働がこうして社会的に関係しあっているのは、まさにそれらの相違、それらの特殊な有用性によってのことである。それだからこそ、これらの労働は質的に違った諸使用価値を生産するのである。もしそうでないならば、これらの労働は相互にとっての商品にはならないであろう。他面では、このような違った有用な質だけではまだ諸生産物を諸商品にしはしない。もしある農民家族がそれ自身の消費のために上着とリンネルと小麦とを生産するとすれば、これらの物はその家族にはその家族労働のいろいろに違った生産物として相対してはいるが、しかしそれら自身が互いに諸商品として相対してはいない。もし労働が直接的に社会的な、すなわち共同の、労働であるとすれば、諸生産物は、それらの生産者にとっては共同生産物という直接的に社会的な性格をとるであろうが、しかし相互にとっての商品という性格はとらないであろう。とはいえ、われわれはここではさらに進んで、諸商品に含まれていて互いに独立している諸私的労働の社会的な形態がなににあるのか、ということを探求する必要はない。この形態はすでに商品の分析から明らかになっていた。@
諸私的労働の社会的な形態とは、同じ労働としてのそれらの相互の関係である。つまり、千差万別のいろいろな労働の同等性はただそれらの不等性の捨象においてのみ存在しうるのだから、それらの社会的な形態は、人間労働一般としての、人間労働力の支出としての、それらの相互の関係であって、このような人間労働力の支出は、すべての人間労働が、その内容やその作業様式がどうであろうとも、実際にそういうものなのである。どの社会的な労働形態においても別々な諸個人の労働はやはり人間労働として互いに関係させられているのであるが、ここではこの関係そのものが諸労働の独自に社会的な形態として認められるのである。ところが、これらの私的労働のどれもがその現物形態においては抽象的な人間労働のこの独自に社会的な形態をもってはいないのであって、それは、ちょうど、商品がその現物形態においては単なる労働凝固体という、すなわち価値という、社会的な形態をもってはいないのと同じことである。しかし、ある一つの商品の、ここではリンネルの、現物形態が、すべての他の商品がそれら自身の価値の現象形態としてのリンネルに関係するがゆえに、一般的な等価形態になる、ということによって、リンネル織りもまた抽象的な人間労働の一般的な実現形態に、すなわち直接的に社会的な形態にある労働に、なるのである。@
●「社会的であること」の標準は、それぞれの生産様式に特有な諸関係の性質から借りられるべきであって、それに無縁な諸観念から借りられるべきではないのである。先に明らかにされたように、商品は、生来、一般的な交換可能性の直接的な形態を排除しているのであって、したがってまた一般的な等価形態をただ対立的にのみ発展させることができるのであるが、これと同じことは諸商品のなかに含まれている諸私的労働にも当てはまるのである。これらの私的労働は直接的には社会的ではない労働なのだから、第一に、社会的な形態は、現実の有用な諸労働の諸現物形態とは違った、それらには無縁な、抽象的な形態であり、また第二に、すべての種類の私的労働はその社会的な性格をただ対立的にのみ、すなわち、それらがすべて一つの除外的な種類の私的労働に、ここではリンネル織りに、等置されることによって、得るのである。これによってこの除外的な労働は抽象的な人間労働の直接的で一般的な現象形態となり、したがって直接的に社会的な形態における労働となるのである。したがってまた、その労働は、やはり直接的に、社会的に認められて一般的に交換されうる生産物となって現われもするのである。
あたかも一商品の等価形態が、他の諸商品の諸関係の反射であるのではなくて、その商品自身の物的な性質から生ずるかのような外観は、個別的な等価物の一般的な等価物への発展につれて固まってくる。なぜならば、価値形態の対立的な諸契機は互いに関係する諸商品にとってもはや均等には発展しないからであり、一般的な等価形態にある一つの商品をすべての他の商品からまったく別なものとして区別するからであり、そして最後に、その商品のこのような形態は、実際にはもはや、なんらかの個別的な他の一商品の関係の産物ではないからである。
」(初版、国民文庫版、P73前後)

2019年4月24日