会報(たより)

読む会だより

「読む会」だより7月用

「読む会」だより(18年7月用) 文責IZ

(6月の報告)
6月の「読む会」は17日に行われました。
(前回の報告)の部分での「価格が“観念的なもの”である」という点には、あまり意見が出ませんでした。チューターにもこだわりがあるせいか、説明が長くなってむしろ分かりづらかったのではないかと反省しています。
チューターの言いたかったことは、価格とは、第一に、“商品の”価値表現の方法であり、それは「異種の諸商品の等価表現」ないし異種の使用価値(物質的属性)の“等置”として行われています。だから、商品の価格は物質的なものではなくて“観念的なもの”だということです。商品が価格をもつという現象は、現実の社会現象であって、商品生産者等の観念が作り上げるといったものではありません。
そして価格とは第二に、発展した価値表現として、すべての商品が一般的等価物としての金のみを右辺に置く形で表現された価値の表現であるということです。この場合、すべての商品にとって右辺の金は、金という物質としてではなくて、社会的に同等な、抽象的人間労働の結晶としてのみ取り扱われます。このことによって、すべての商品は、共通にその価値の大きさを金の大きさとして表現できることになります。価格は、商品の価値を抽象的人間労働の結晶と見なされた金の大きさで示すものです。商品の価値を、金の一定量として表示する商品の価格は、その商品自身に固有な物質的属性とは区別された商品に共通な社会的属性の表現(抽象的人間労働の結晶)として“抽象的なもの”なのです。
商品交換が発展して一般的等価物が成立するようになると、諸商品の価値はそれと交換可能な一般的等価物の一定量として、その使用価値と分離されることになりますが、物々交換においては、生産物の価値はその使用価値と完全には分離されていないのです。

また、商品流通が貨幣運動の結果のように見えるという点についても、魔術と言えるかといった形で問題にしてしまいよくなかったと反省しています。
重要な事柄は、久留間の説明図で言えば、リンネル生産者の手の中にあったGが聖書生産者の手へと右下方向に移動したのは、リンネル生産者が聖書を買った(G─W3)結果であり、リンネルW2の形態転換として見れば、聖書W3がリンネルを売って得たGと置き換わって右上に移動した結果です。このことは社会的な素材転換W2─W3が行われたということであり、このなかでGは、すべての商品にとっての価値の形態として、特定の使用価値の姿をもつリンネルW2が別の姿をもつ聖書W3へと置き換わるのを媒介したということです。
GがリンネルW2が聖書W3に置き換わるのを媒介しうるのは、ただリンネル生産者がリンネルを小麦生産者に売っていた(W2─G)からであり、また聖書生産者がすでに聖書を生産していたからにほかなりません。しかしながら、個々の商品生産者にとっては、リンネルW2が欲求どおりに聖書W3に置き換わるのは、Gのもつ“購買力”で聖書W3を買ったからのように見えます。しかしそれは実際には、すでにリンネルが販売されて価値の形態Gをとっているからにすぎません。金Gはすべての商品によって価値の形態であると認められているからこそ、商品は販売されてGの姿に置き換わっているならば任意の別の商品に置き換わる(購買する)ことができるのです。
このように商品の使用価値の形態と価値の形態との形態転換、W─GまたはG─Wは、いつも貨幣の持ち手(位置)の転換すなわち貨幣通流として現れます。しかし、リンネルW2─G─聖書W3という一商品リンネルの形態転換の過程はそこで完結するのに対して、それを媒介した貨幣の持ち手の転換である貨幣通流のほうは、そこで完結するのではありません。新たな貨幣所有者となった聖書生産者の手の中で、聖書が姿を変えたGは聖書が火酒に転換されるためにこそ存在するのです。商品流通の絶え間ない更新は、消費された使用価値に替わる新しい使用価値が、商品としてつねに生産されなければならないということでしかありませんが、商品流通を媒介する貨幣はいつまでも流通のなかにとどまり続けなければならないのです。
そこで『経済学批判』での言葉を借りれば、「商品はつねに貨幣とは反対方向に1歩だけ進むにすぎないのに対して、貨幣のほうはいつも商品といれかわりに第2歩を進めて、商品がAといった場所でBというためであるが、そうなると、全運動は貨幣から出発するように見えるのである。だがそれにもかかわらず、販売のさいに貨幣をその位置からひきよせ、したがってまた貨幣を、ちょうど購買のさいに商品が貨幣によって流通させられるのと同じように、流通させるのは商品である。さらにまた貨幣は、つねに購買手段という同じ関連で商品にあいたいするのであるが、購買手段としては、ただ商品の価格を実現することによって、商品を運動させるにすぎないから、流通の全運動は、……貨幣が商品の価格を実現することによって、商品と位置をかえるように見える。……貨幣は、商品の価格を実現することによって商品を流通させているように見える。……」(岩波文庫版、P126)
価値の形態Gを媒介にした商品の形態転換W─G─Wは、商品流通のなかでは、あたかも貨幣が商品の価格を次々と実現し、その持ち手をかえながら通流していくことによって、商品が運動しているように現れるのです。

(説明)の部分にたいしてもあまり質問・意見は出ませんでしたが、朝日新聞のコラム(柄谷行人、カール・マルクス)についていくつか意見が出されました。持参してくださった参加者は「資本主義経済は宗教的な世界だ」という部分に共感したということでしたが、資本主義の欠陥は労働力商品を増やすことも減らすこともできないことにある等々というのはどうかという意見などが出ました。「交換を強いるのは物神の力」だとタイトルにありますが、むしろ逆で、生産物の私的な交換から物神の力が生まれる、とマルクスは言っているように思われます。

今回から、c「鋳貨 価値章標」の項目に入ります。短いものですが、現代の“通貨”である中央銀行券の理解などのためにも重要なところです。

(説明)第3章 第2節 c「鋳貨 価値章標」の1回目

(1)商品の価値としての表示が瞬間的な契機でしかない場合、すなわち金の機能が、商品流通を媒介するための鋳貨または流通手段の機能に解消される場合には、金は無価値な章標によって置き換えられ、紙幣という機能的な存在を受け取ることができる。

c項の冒頭でマルクスはこう語ります。
・「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。」(全集版、P163)
少しとっつきにくい文章でしょうから、『経済学批判』での説明を紹介しておきます。
・「金は、流通手段として機能するさいには、独特な身なりをとり、鋳貨となる。金はその通流を技術上の障碍によってさまたげられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。貨幣の計算名であるポンド、シリング等々で表現された金の重量部分を含んでいることをその刻印と形状で示す金片、これが鋳貨である。」(岩波文庫版、P136)
要するに、鋳貨とは、貨幣が金地金としてではなく、何円、何ドルという貨幣名をもつ金貨として登場することで、価格が一定の呼称で表わされた金の重量で表現されるということです。このこと自体は流通のためのいわば技術上の必要から生まれることであって、理解はそう難しいものではないと思われます(第1節で見たように、貨幣がもつ、価値尺度機能と価格の度量標準という二つの機能を区別できれば、ですが)。
ですから、「地金の状態にある金と、鋳貨としての金とのちがいは、金の鋳貨名と金の重量名との違いにすぎない」(『経済学批判』、同上)のであり、「金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができる」(全集版、P163)のです。

ところで流通過程には、鋳貨をその象徴に転化させるという自然発生的な傾向があるとマルクスは言います。
・「流通しているうちに、金鋳貨は、あるものはより多く、あるものはより少なく磨滅する。金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが、その分離過程を開始する。同名の金鋳貨でも、重量が違うために、価値の違うものになる。流通手段としての金は価格の度量標準としての金から離れ、したがってまた、それによって価格を実現される諸商品の現実の等価物ではなくなる。18世紀までの中世および近代の鋳貨史は、このような混乱の歴史をなしている。鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、金属喪失が一個の金貨を通用不能にし廃貨とするその程度についての最も近代的な法律によっても承認されているところである。」
例えば、かつての1円の鋳貨なら金2分(ふん)=0.75グラムの重量をもたねばならないのに、実際上0.7グラムしかなくなってしまうという事情です。
こうした事情は銀貨や銅貨といった補助鋳貨においては一層顕著ですし、補助通貨自体が
・「貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料からなっている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる」(全集版、P164)のです。

このようにして
・「それら<補助鋳貨……レポータ>の鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。すなわち、およそ価値というものにはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に変わって鋳貨として<すなわち紙幣として……レポータ>機能することができる。」(同、P165)ことになります。
この場合、
・「流通部面が<商品の価格総額を実現するための流通手段=鋳貨として……レポータ>吸収しうる金量は、たしかに、ある平均水準の上下にたえず動揺している。とはいえ、与えられた一国における流通手段の量は、経験的に確認される一定の最低量より下にはけっして下がらない。……それだからこそ、この最小量は紙製の象徴によって置き換えることができるのである。」(同、167)

しかしそれにしても、なぜ金属貨幣流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能なのでしょうか。マルクスは「なぜ金はそれ自身のたんなる無価値な章標によって代理されることができるのか?」と自問し、こう答えています。
・「すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりのことである。……金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通している間だけのことである。……この最小量の金は、<商品価格を実現するために……レポータ>つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。@
だから、その運動は、ただ商品転態W─G─Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのだる。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。@
それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけていく過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の<流通手段としての……レポータ>機能的定在が貨幣の<金という……レポータ>物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。……@
ただこの流通部面のなかで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである。」(同、168)

こうして金属貨幣の流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能になるのですが、価値章標による金属貨幣の代理は、資本主義の現実をいっそう複雑で理解困難なものにしていくことになります。

2018年7月17日

「読む会」だより6月用

「読む会」だより(18年6月用) 文責IZ

(5月の報告)
5月の「読む会」は20日に行われました。
(前回の報告)の部分では、「価格が“観念的なもの”であるということは、……一定量の金がその商品と交換可能であるという姿で……すでに社会的に関連付けられているということだ」という説明になっているが、これまでの説明と少し違っていないのか、という質問がありました。チューターは、価格は商品にとって「物質的なものではない」から「観念的なもの」だという説明だけではどうかという意識があったのでこう書いたが、まだあれこれ考えていると答えました。

チューターの意識にあるのは『資本論』のなかの、以下の3つの指摘です。まず直接に関係するのは第3章1節のはじめのほうにある以下のものです。
・「商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態である。鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらの物そのもののうちに存在する。この価値は、これらの物の金との同等性によって、いわばただこれらの物の頭のなかにあるだけの金との関係によって、想像される。それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには、……これらの物に紙札をぶらさげるかしなければならないのである。」(全集版、P126)
ここでは価格は、商品の実在的な物体形態(特定の使用価値をもった)からは区別されるものであり、したがって単に観念的なまたは想像的な形態である、と述べられています。

ここで「商品の価値形態一般と同様に」とあるのは、第1章3節の以下の部分が参考になるでしょう。
・「リンネル=上着 というのが等式の基礎である。……たとえば上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、上着に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働に等置される。ところで、たしかに、上着をつくる裁縫は、リンネルをつくる織布とは種類の違った具体的労働である。しかし、織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に還元するのである。このような回り道をして、次には、織布もまた、それが価値を織るかぎりでは、それを裁縫から区別する特徴をもってはいないということ、つまり抽象的人間労働であるということが、言われているのである。ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働の独自な性格を顕わにするのである。というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の諸労働を、実際に、それらに共通なものに、人間労働一般に、還元するのだからである。」(全集版、P68)
ここでは異種の商品の等価表現によって、まずは右辺の商品(発展すれば貨幣商品)に含まれる労働が抽象的人間労働に還元され、その上で、左辺の商品もまた共通な価値としては右辺の商品と区別されないということが表現されている、と述べられています。要するに価格(左辺の商品と右辺に置かれる金量との等式)においては、右辺の金は抽象的人間労働が対象化された物体としてのみ扱われるのであり、この抽象的人間労働の対象化として、実在的な物体形態から区別される観念的な想像的な形態(姿)だと言われるのです──単に両辺が観念的に等置されるからというのではなくて。
価格は、だから、抽象的なあるいは社会的な人間労働の対象化(すなわち価値の形態)と見なされた、そしてこの意味で“観念的な”金の一定量との等置なのです。

しかし、商品は物であって意識を持たないではないか、価格といった観念的なものをもつのは人間つまり商品所有者でしかありえないではないかという疑問をもつ方がいらっしゃるかもしれません。第1章第4節でマルクスはこう述べています。
・「商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、<労働生産物の……レポータ>商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き替えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。……商品形態やこの形態が現われるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的な性質やそこから生ずる物的な関係とは絶体になんの関係もないのである。」(全集版、P98)
価格は価値と同じく、商品がもつものであって人間がもつものではありません。しかし労働生産物の価値としての同等性やその価格としての表現は、人間の社会関係がもたらす社会的な属性です。そして、この社会的な属性がどのようなものであるかは、マルクスが『資本論』でおこなっているように、人間が観念を利用して認識するほかには手がないのです。

貨幣による商品流通の媒介は当たり前のことで、魔術というほどのものではないという点については、質問者が欠席なさったので議論は進みませんでしたが、若干補足しておきます。
貨幣が生み出されると、商品交換は販売と(W─G)と購買(G─W)という二つの過程に分裂します。しかし物々交換と違って、商品交換の前半の販売(W─G)においては、商品は価格として、観念的にすでに存在していた自分自身の価値の姿に現実に転化するのであって、商品としての金と交換されるのではありません。言いかえれば、商品世界が排除された一商品を貨幣とする関係をすでに持っているからこそ、商品の価値は価格で表現しうるし、その価格が実現されるならば、その商品は貨幣に置き換わった姿において、その大きさの範囲内であれば、今度はすべての他の商品と置き換わることができるのです。
ある商品の生産に支出された労働が、価値として、社会的な労働として同等なものとして認められるということが、ここでは商品の価格が実現され、一定量の貨幣に置き換わるということとして現われるのです。貨幣は、なぜ他の商品と任意に置き換わることができるのかを考えるならば、事はさほど当たり前ではないように思われます。

前回は説明の部分に進めなかったので、説明部分は前回と同じです(すみません)。

(説明)第2節 流通手段 b 貨幣の流通 の2回目

(2)流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、商品の価格総額と貨幣の流通速度によって決まるのであって、貨幣量によって価格やその総額が決まるのではない──いわゆる貨幣数量説の誤りについて

マルクスはb項「貨幣の流通」のなかで次のように問題を提起します。
・「どの商品も、流通への第一歩で、その第一の形態変換で<すなわちその所持者にとっては非使用価値である或る商品の売りW─Gは、同時にすでに別の商品を売って得たGの所持者の使用価値としての買いであるのだから(久留間の図で言えば左下から右上に上がって脱落するWの流れのように)……レポータ>、流通から脱落し、そこには絶えず新たな商品がはいってくる。これに反して、貨幣は流通手段としてはいつでも流通部面に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。そこで、この部面はつねにどれだけの貨幣を吸収するか、という問題が生ずる。」(同、P153)

そしてこう答えています。
・「商品は、その価格において、すでに決定された想像された貨幣量に等置されている。ところで、ここで考察されている直接的流通形態<信用などを考慮外に置いた、商品と商品との直接の……レポータ>は、商品と貨幣とをつねに肉体的に向いあわせ、一方を売りの極に、他方を買いの反対極におくのだから、商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表わされている金総額を実在的に表わすだけである。したがって、これら二つの総額が等しいということは自明である。とはいえ、われわれが知っているように、商品の価値が変わらない場合には、商品の価格は金(貨幣材料)そのものの価値といっしょに変動し、金の価値が下がればそれに比例して上がり、金の価値が上がればそれに比例して下がる。こうして諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。」(同、P154)
・「流通過程の或る与えられた期間については、(商品の価格総額)/(同名の貨幣片の流通回数)=流通手段として機能する貨幣の量 となる」(同、P157)

そしてさらにこう触れていわゆる貨幣数量説を批判しています。
・「流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則は、次のようにも表現することができる。すなわち、諸商品の価値総額とその変態の平均速度が与えられていれば、流通する貨幣または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって定まる、と。これとは逆に商品価格は流通手段の量によって規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定される、という幻想は、その最初の代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通過程にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて、そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ、というばかげた仮説に根差しているのである。」(同、P160)

商品の流通があるかぎり、つまり商品の素材転換が滞りなく行われるためには、一定量の流通手段の量が客観的に必要であることは、価格が商品の価値の表現として決してたんなる主観的なものではないということが理解できれば、きわめて当然のことのように思われます。
価格とは、支出された社会的必要労働量として客観的に存在する商品の価値を、貨幣で相対的にあるいは観念的に表現したものでした。だから社会的に必要な流通手段の量は、貨幣として実現されるべき商品の価格総額によって決まることは至極当然なのです。
これにたいしていわゆる近代経済学の人たちは、価値の概念をもつことができず、貨幣が商品の価値の形態であることを理解しません。そのために、商品と貨幣との転換を、商品自体の形態転換と見ることができず、たんなる商品と別の商品との交換、物々交換と同一視します。彼らは「商品は価格をもたずに、また貨幣は価値をもたずに流通にはいる」と勝手に思い込みます。だから流通のなかでも、貨幣量が2倍になれば商品価格も2倍に騰貴し、反対に貨幣量が半分になれば価格も半分になるといった非現実的な幻想にふけることができるのです。

2018年6月20日