会報(たより)

読む会だより

「読む会」だより12月用

「読む会」だより(19年12月用、11月用の訂正補足)  文責IZ

 

「読む会」だより12月用は、11月用の訂正として出させていただきます。主な訂正としては、①以降のパラグラフの説明は全面的に書き換えました。その他では、11月用では「一般的労働」と書いていた言葉を「人間労働」に置き換えました。あとは若干の表現上の問題です。

 

・これまで「たより」は配布文書でもホームページでも書きやすさからエディターを使ってきましたが、文字の修飾ができない、文書形式が崩れる等の問題があるため、今回から、見やすいようにワード形式で作ることにしました。

 

(前回の報告)

・10月20日の「読む会」では、第3章貨幣b「支払い手段」の1回目を行ないました。

チューターが注目項目1として挙げた「商品の譲渡が商品価格の実現から時間的に分離されると、貨幣は流通過程を媒介する代わりに支払い手段としての機能を受け取る」のなかでは、次のような質問が出されました。(なお、当日言い忘れましたが、アンダーラインを付けた「商品価格の実現から」とあるのは、「貨幣の引き渡しから」という意味です。なぜ、わざわざそんな難しい言い回しをするのかについては、このあと触れます。)

 

・質問は、前回の「たより」の3頁目の終わりから9行目の引用文で、「流通手段は蓄蔵貨幣<訳本によっては退蔵貨幣……レポータ>に転化した」とあるが、この意味はどういうことか、というものでした。もう少し詳しく言えば、その前で、支払期限がきたときに貨幣が現実に流通に入ってくると述べられているが、このような支払い手段としての貨幣は蓄蔵貨幣に転化していると言えるのか、という質問でした。

これについては、「b 支払い手段」の項目の最後の所の以下の文章が参考になると思われます。

・「支払い手段としての貨幣の発展は、債務額の支払期限のための貨幣蓄蔵を必要にする。独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョア社会の進歩につれてなくなるが、反対に、支払い手段の準備金という形では貨幣蓄蔵はこの進歩につれて増大するのである。」(全集版、P185)

つまり、支払期限までの間に、ある商品(W1……たとえば機械)の買い手(債務者)は、自らが生産した別の商品(W0……たとえば車)を販売、すなわち貨幣・金に転換して支払いに備えなければなりません。この場合に蓄積される貨幣・金は、支払期限までのあいだは流通に出ないのですから、準備金の形での貨幣蓄蔵と言えるのです。

チューターは、前回の「たより」4頁の図では縦横の関係を逆にしていたこともあり、買い手が後で売って貨幣に転換すべき商品(W0……たとえば車)は、売り手から前に買った(正確には信用買いした)商品と同じもの(W1……たとえば機械)であるかのようにつまりなにかW1を転売するかのように思い違いしてしまい、うまく説明できませんでした。

 

流通手段としての貨幣と支払い手段としての貨幣との違いは、商品の価値(人間労働の特定の“実現”としての商品、あるいは特定の形態をもった価値)と貨幣(人間労働の一般的形態として認められた一商品であり、商品の価値を一般的に“交換”価値として表現するための媒介物となる)との理解に参考になると思われます。余り自信はありませんが、久留間の図を参考に、別の図を描いてみたので(別掲)参考にしてみて下さい。当日のものを若干修正しました。

 

以下、別掲の図を参考に、前回挙げたパラグラフの文章を見てゆきましょう。

なお以下、括弧<>内の文章や、アンダーラインやボールドはレポータの補足ですのでご注意ください。

また、ここでは「儲ける」とか「損する」とかいった価値の増殖(資本)にかかわる問題はまったく考慮に入っていませんし、するべきではありません。ここでは商品交換による社会的分業の可能性と法則性がまず問題とされるのですから。

 

  • 商品<特定の形態をもった価値として、他の商品とは直接には転換不可能な物>と貨幣<一般的な形態をもった価値として、任意の商品と直接に交換可能な物>という二つの等価物売り<W1─G すなわち商品から貨幣への転換>の過程の両極同時に現れることはなくなった。」

 

<少し長くなりますが、流通手段としての貨幣の機能(役割)のおさらいをしましょう。

図1のW1─G─W2の過程に注目して下さい。売り手Bの商品W1(布)は、直接には他の商品W2(本)との任意の交換可能性をもたないので、まずそれを任意の交換可能性をもつ貨幣へと転換することからはじめなければなりません。このことはBが商品W1を買い手Aに引き渡す代わりにAから貨幣Gを受け取ることで行われます。この両者の行為(売買)の意味するところは、まず商品W1にとっては、それを非使用価値として生産したBの手からそれを使用価値とするAの手に引き渡たされる(W⇒W)ことによって、W1はその使用価値(特定の有用性)を実現したということです。またそれと同時に貨幣がAからBに引き渡される(G⇒G)のですから、W1は、その価格として観念的に表示されていただけの価値を一般的、社会的に妥当な価値の形態であると認められた貨幣Gへとその価値の形態を転換した(W1─G)ということでもあります。他方、貨幣Gは、Aの手にあっては、その観念的な使用価値(任意の商品との交換可能性)を実現して別の特定の商品であるW1に置き換わった(G─W1)ということになりますが、このことは商品W0の形態転換(W0─G─W1)の全過程から見れば、貨幣Gを媒介にして、商品はその価値(人間労働の対象化としての同等性)を実現したということでもあります。そしてそれと引き換えに貨幣は社会的に妥当な価値の形態を保持したままでAからBの手に移ります。こうして諸商品は、価値の独立的な存在として認められた貨幣を媒介として、つまり、いったんこの一般的な価値の形態へと転換し(W─G)、次の段階(G─W)で実際にその価値を実現して他の商品へと転換することになります。こうして商品の使用価値としての実現と、その価値としての実現との直接の対立という交換過程の矛盾は、商品が”価格”をもつことによって回避され、この矛盾は商品の形態転換運動(W─G─W)に置き換えられることになります。

しかしながら商品がその形態転換を継続的に行なうために、次々と流通手段としての金肉体=鋳貨等に置き換わるということは、商品にとっては、流通手段としての貨幣=金肉体は一時的な仮の肉体にすぎないということを意味しています。(なお価値標章の問題については以前触れました。)

ところでここで忘れてならないことは、図の通り、「売買」(商品と貨幣・金との持ち手の相互転換)は、W1の価値の形態転換(W1─G─W2)の第1段階である売り(販売)と、他方での買い手Aの商品W0の価値の形態転換(W0─G─W1)の第2段階である買い(購買)とが、結びつくことで行われるということです。また同様に、W1の第2段階(G─W2)の形態転換は、W2の形態転換の第一段階(W2─G)と結びつくことによって行われます。つまり売買においては、いつも別々の二つの逆向きの形態転換の段階が、結合され、同時に行なわれるのです。

商品流通においては、商品W1は、その売買と同時にBからAへと持ち手を取り替えW0→W1の全過程を終了し、またそれと同時に流通界から消費界へと消え去ります。しかし、この素材転換を媒介した貨幣Gは、商品W1と違って流通界から消費界へと消え去るのではなくて、新しい持ち手Bの手のなかで流通界に残り、引き続いてW1→W2の過程を媒介します。このため、売買すなわち商品と貨幣・金との素材転換の部分だけに目を奪われてしまうと──二つの過程の結合である売買にあっては、売りは買いであり買いは売りであるために、売買自身は商品の価値としての形態転換の過程と結びついたものでしかないのに、それが何か商品自体(その使用価値)の素材転換の過程であるかのように見え──、W0─G─W1とW1─G─W2という二つの商品の形態転換の結合の全体が、したがってまた社会的素材転換の全体が目に入らないことになります。

そこで、貨幣の持ち手変換は商品の持ち手変換の結果でしかないのに、むしろ逆に商品の持ち手変換は貨幣の持ち手変換の結果でしかないように見えます。また貨幣・金が絶対的交換可能性という力をもつのは、ただ、商品すべてが人間労働の対象化であるという共通の社会的属性をもっているということを、すべての商品が共通な貨幣・金との交換可能性として表現しているだけであるのに、それがなにか金の物質的属性の特別な力であるかのような──まるですべてがあべこべに見えてしまうような──、貨幣の魔術がいっそう発展していくのです。(蛇足ながら、貨幣である金を生むのは採金という固有な有用労働ですが、金を貨幣とするのは、採金労働ではなくて商品の価値を生む人間労働一般としてであり、しかも諸商品によって金が価値の一般的形態と認められるからです。)

①で触れられているように、貨幣が流通手段として機能する場合には、W─GであろうとG─Wであろうと、その形態転換の両極は、価値(人間労働の対象化)の特殊な形態(すなわち商品)であるか、その一般的な形態(すなわち貨幣)であるかという形態の違いはあるにしても、同量の価値としてすなわち等価物として同時に現れます。

ところが、商品が信用買い(後払い)される場合には、形態転換の両極には等価物は同時には現れず、W1─Gの貨幣GはW1が引き渡され消費界に消え去ったあとになってはじめて等価物として流通に現れることになります。このため流通手段の場合とは違って、支払い手段としての貨幣は、W0→W1とW1→W2という素材転換(社会的な物質代謝)の連鎖を媒介せず、その運動は商品の素材転換の過程とは切り離された別の過程となります。>

 

②「いまや貨幣は、第一には、売られる商品<W1>の価格決定において価値尺度として<すなわちその商品に対象化された抽象的人間労働一般の大きさを、他の商品と同名のものとして計るための、観念的な貨幣表示あるいは計算貨幣として>機能する。契約によって確定されたその商品の価格買い手の債務、すなわち定められた期限に彼が支払わなければならない貨幣の大きさを示す。」

 

<支払い手段としての貨幣は、流通手段の場合と同様にまず価値の尺度として、商品W1の売り手にたいして、そのW1の価値を価格(共通な金量)として表示することに、すなわち一般的な形態をもった価値である一定の金量と、特殊な形態の価値である商品W1との、一定の比率での交換可能性(交換価値)を表示する──観念的に等置する──ために役立つだけです。

他方で、商品W1を受け取って債務者となった買い手にとっても、貨幣は同じく価値の尺度として、その債務の額(大きさ)を、つまり決済期日に商品W1の対価として支払うべき貨幣・金の額を、観念的に表示する計算貨幣として役立つだけです。>

 

  • 「貨幣は、第二には、<買い手の側の>観念的な購買手段として機能する<購買手段とは貨幣Gが、G─Wすなわち絶対的な交換可能性をもつ貨幣・金として、任意の商品Wに転換(すなわち購買)するための手段となるということです>。それ<貨幣>はただ買い手の貨幣約束<という観念的・法律的関係>のうちに存在するだけだ<まだ実在的な貨幣が引き渡されたわけではない>とはいえ、<現実に>商品の持ち手変換をひき起す支払期限がきたときはじめて支払い手段<としての貨幣>が現実に流通に入ってくる。すなわち<貨幣が>買い手から売手に移る。」

 

<売り手の手のなかにあった商品W1(特定の人間労働の対象化とみなされる)は、実在の貨幣(一般的な人間労働の対象化とみなされる)へと転換されることなく、契約(信用)によって買い手の手に移ります。この信用買い(後払い)による商品の持ち手変換を媒介する場合の貨幣は、すでに触れた観念的な価値尺度(計算貨幣)としての役割を果たすだけではなく、買い手にとっては観念的な購買手段として、つまり将来に商品の売り手に引き渡すべき貨幣として購買手段の役割を果たして、商品の持ち手変換を行ないます。しかしこの観念的な購買手段としての貨幣の役割は、将来に行われる支払いにおいては、絶対的な交換可能性をもつ実在の貨幣が「支払い手段」として商品の売り手に引き渡されなければならないことが予定されているのです。この支払手段としての貨幣=金肉体の役割は、流通手段としての貨幣のような一時的な仮の肉体ではなくて、売り手に引き渡されるときにはこの金肉体に固定されていなければその役割を果たせません。>

 

  • 「<つまり>流通手段は蓄蔵貨幣に転化した。というのは、流通過程が第一段階で中断した<W1─GのGが入手できないままに>からであり、言いかえれば、商品の転化した姿<G>が流通から引きあげられたからである。支払い手段<としてそれ>は流通に入ってくるが、しかし、それは商品がすでに流通から<消費界へと>出て行ってからのことである。貨幣はもはや<流通手段のように人間労働一般の対象化として、二つの特定の人間労働の対象化が社会的に転換される>過程を媒介しない。<支払手段としての>貨幣は、交換価値の絶対的定在<すなわち貨幣・金そのもの>または<絶対的交換可能性をもつ>一般的商品として、<中断していたW1─Gの>過程を<流通手段の場合には売買で結合されていたW0─G─W1という別の過程とは>独立に閉じる。」

 

<W1─G─W2の第1段階であるW1─Gは、後払い(信用売り)のためにW1の引き渡しと同時にGが受け取られることはなく、このためにW0→W1とW1→W2という二つの商品の素材転換は貨幣を媒介とした「売買」で結合されておらず、両者は別々の過程として進行することになります。少し後の所ではこう触れられています。「流通手段の流通では、売り手と買い手との関連がただ表現されているのではない。この関連そのものが、貨幣流通において、また貨幣流通とともに、はじめて成立するのである。これに反して、支払い手段の運動は、すでにそれ以前に出来あがっている社会的な関連を表わしているのである」(全集版、P179)。後になって、W1の等価である貨幣が支払い手段として流通に入ってきますが、この支払手段としての貨幣は、流通手段のように売買という売り手と買い手とのあいだの商品と貨幣との持ち手変換を次々と媒介するような連続運動をするのではありません。それは、以前に行なわれたBからAへの商品の使用価値の引き渡しを、後になってAからBへの価値の引き渡しとして補足するだけの単独な運動なのです。以下⑤から⑦までの文章の補足は、以上に述べたところです。>

 

  • 「売り手が商品を貨幣に転化させたのは、貨幣によってある欲望を満足させるためであり、貨幣蓄蔵者がそうしたのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務を負った買い手がそうしたのは、支払いができるようになるためだった。もし彼が支払わなければ、彼の持ち物の強制売却が行われる。つまり、商品の価値姿態、貨幣は、いまでは、流通過程そのものの諸関係から発生する社会的必然によって、売りの自己目的になるのである。」

 

  • 「買い手は自分が商品を貨幣に転化させる前に貨幣を商品に再転化させる。すなわち、第一の商品変態よりも先に第二の変態を行なう。売手の商品は流通するが、その価格をただ司法上の貨幣請求権に実現するだけである。その商品は貨幣に転化する前に使用価値に転化する。その商品の第一の変態はあとになってからはじめて実行されるのである。(※)」

 

  • (※)私が本文でこれと反対の形態を考慮に入れなかった理由は、1859年に刊行された私の著書からとった次の引用文で明らかになるであろう。「逆に、過程G─Wでは、貨幣が現実の購買手段として手放されて、商品の価格が、貨幣の使用価値が実現される前に、または商品が引き渡される前に、実現されることがありうる。これは、たとえば日常見られる前払いという形で行われる。またはイギリス政府がインドで農民のアヘンを買う場合の形で……。だが、この場合には、貨幣は、ただ購買手段というすでに知られている形態で働くだけである。……資本は、もちろん、貨幣の形態でも前貸される。……しかし、この観点は単純な流通の視野には入ってこないのである。

 

 

まだいろいろ理解が足りないところが多いと思いますが、大まかに言えば、(1)商品流通とは、相異なる具体的労働(私的に営まれる)が等しく人間労働一般として現れることによって、私的な労働を転換しあう社会的分業の現われです。しかし異なる具体的労働は直接に交換され得ないので、人間労働一般の代表となる貨幣の媒介を経てこの具体的労働の転換が行なわれます。流通手段としての貨幣の機能とは、この具体的な労働の交換を媒介するための、瞬時的な人間労働一般としての貨幣の機能です。(2)ところで、流通のなかにあっては、具体的労働もまた商品の価値として人間労働一般の特殊な実現として現れる以上、それは、流通内にあって相互に転換しあう、貨幣の形態での人間労働一般と、その量が均衡していなければなりません。支払い手段としての貨幣の機能は、流通内の両形態の不均衡は均衡させられなければいけないという、すなわち信用買いという一方的な買い(G─W)によるG(貨幣つまり交換可能な形態にある人間労働一般)の不足は、一方的な売り(W─G)による支払手段Gの還流によって補完されなければならないという、流通のつまり社会的分業におけるひとつの法則の現われなのです。

 

さて最後に、はじめに述べた、なぜ「商品の譲渡が貨幣への引き渡しから時間的に分離されると」と分かりやすく言わず、「商品の譲渡が商品価格の実現から時間的に分離されると」と言うのかということですが、それは、前者の表現では貨幣が何か商品とはまったく別の物のように見え(それは現象そのままですが)、貨幣もまた人間労働一般の表現としては商品一般であるということが見失われやすいからだと思われます。

 

 

(説明) 第3章「貨幣または商品流通」第3節「貨幣」b「支払い手段」の2回目

 

2)流通手段としての貨幣の運動は、それとともに売り手と買い手との関連をつくり出すが、支払い手段としての貨幣の運動は、それ以前に出来あがっている社会的な関連を表わしている。

 

3)支払い手段としての貨幣は、一方で、諸支払が相殺されるかぎりでは観念的な価値尺度(計算貨幣)として機能するだけなのに、他方で、諸支払が相殺されず現実の支払がなされなければならないかぎりでは、交換価値の独立な定在=貨幣・金物質としてのみ支払い手段の機能を果たすという矛盾をもつ。この矛盾の爆発がいわゆる貨幣恐慌である。

 

  • 前回のたよりでは、今回上の2点の説明を加えることとしていましたが、『資本論』の概要を理解するためのスピードを上げるために、以下に4)と5)の二つの文章を参照として加えるだけにして(2は今回の訂正で述べました)、次回は第3節貨幣の「c世界貨幣」の項目に進みたいと思います。

 

4)「価格と貨幣流通の速度と諸支払の節約とが与えられていても、ある期間たとえば一日に流通する貨幣量と流通する商品量とは、もはや一致しないのである。もうとっくに流通から引きあげられてしまった貨幣が流通する。その貨幣等価物が将来はじめて姿を現すような諸商品が流通する。また他方では、その日その日に契約される支払と、同じその日に期限が来る支払とは、まったく比較できない大きさのものである。」(全集版、P182)

 

5)「信用貨幣は、支払い手段としての貨幣の機能から直接に発生するものであって、それは、売られた商品にたいする債務証書そのものが、さらに債権の移転のために流通することによって、発生するのである。他方、信用制度が拡大されれば、支払い手段としての貨幣の機能も拡大される。このような支払い手段として、貨幣はいろいろな特有な存在形態<小切手だのCP(コマーシャル・ペーパーという無担保証券)だの>を受け取る……」(同)

 

 

2019年12月15日

「読む会」だより4月用

「読む会」だより(19年4月用) 文責IZ

(3月の報告)
3月の「読む会」では、(2月の報告)でチューターが「抽象的なものがなにか具体的なものから独立して具体的なものと並んで存在したり、あるいはなにか具体的なものを生みだしていくかのようなヘーゲル的な神秘化に迷い込むことにもなります」と触れた部分について、「“ヘーゲル的な神秘化”というのがどんなものなのか例を挙げてほしい」という質問が出されました。『聖家族』や『経哲草稿』などでマルクスはあれこれ触れているが、今は挙げられないということで、宿題にしてもらいました。(なお、むしろ指摘された部分より、その前の文章が長すぎて、意味がとりにくかっただろうと、チューターは反省しています。機会があれば直します。)
少し調べようとしたところ、単なるヘーゲル「哲学」の批判ではなくて、具体的な存在をもっている「政治」や「国家」をどう理解するかをめぐって、マルクスの考え方を理解するのにうってつけな所があったので、かなり長くなりますが、ここで引用しておきます。また、あまり「方法論」に立ち入りすぎるのは良くないと考えていますが、いわゆる哲学用語についての簡明な説明がありましたので、この機会にあわせて紹介しておきます。
難解なヘーゲルの文章に付き合うのは苦手という方が多いと思いますが、少しだけお付き合い下さい。

紹介するのは初期の著作の一つ『ヘーゲル国法論批判』からの引用ですが、その前に「ルーゲ宛の手紙(1843年)」で、マルクスがこのヘーゲル批判をする意図が書かれており、とても重要だと思いますので、まずそれを紹介しておきます。ここでマルクス自身が述べている通り、政治の分析のために、つまり社会改革のために、哲学=認識論を役立てること、これがマルクスのマルクスたるゆえんとチューターは考えています。

・「フォイエルバッハは余りにも自然にかかわりすぎ、そして余りにも政治にかかわらなさすぎます。……しかし政治と結ぶこと、ただこれのみが今日の哲学をして真理たらしめる唯一の同盟なのです。」(国民文庫、『ヘーゲル法哲学批判序論』への「あとがき」からの重引)

・「第262節。『現実的理念、精神──このものはそれの概念の二つの理念的な圏、すなわち家族と市民社会に己れ自身を割って、己れ自身を有限な在り方にするのであるが、これは精神がこれらの両圏の理念性から出て対自的<※1>に無限な、現実的精神であらんがためである──それは、そのため、これらの圏にこのそれの有限的現実性の材料、すなわち衆人としての諸個人を割り当て、しかもこの割り当ては個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによって媒介されて現われるように行われる。』

この<ヘーゲルの難解な>文章をなんでもない言い方に直せば、こうなる。
国家が家族および市民社会と媒介されるされ方は「境遇とか個人的自由とか職分の自身での選択とか」である。したがって国家理性は国家材料の家族および市民社会への割り振りとは何のかかわりもない。国家はある無意識な、かつ自由勝手な仕方で、それらから出てくる。家族と市民社会は暗い、生の下地として現われ、ここから国家の火が点(とも)り出る。国家材料という場合には、国家の取り扱う仕事、つまり家族と市民社会が──これらが国家の部分をなし、国家としての国家にかかわりをもつかぎり──理解されているのである。
この展開は二重の点で目に立つ。
1、家族と市民社会は国家の概念圏、それも国家の有限性の圏、国家の有限性と解される。国家とは、それ自身をこれらの圏に割るもの、これらの圏を前提するものであって、しかも国家がそうするのは、「それら両圏の理念性から出て対自的に無限な、現実的精神であらんがため」である。「それは己れを割るのであるが、これは……がためである。」それは「そのため、これらの圏にそれの現実性の材料を割り当て、しかもこの割り当ては……に媒介されて現われるように行われる。」言うところの「現実的理念」(無限な、現実的な精神としての精神)なるものは、あたかもある特定の原理にしたがい、そして特定の意図のために行動しでもするかのように描かれる。それはそれ自身を有限な諸圏に割り、それがそうするのは、「自身のうちへ戻ってくるためであり、対自的であらんがためであり」、しかもそれがそうするのは、それこそがまさに現実的な在り方にほかならぬからである。

★この個所で論理的汎神論的神秘主義が非常に歴然と現われる。
現実的な関係は、「国家材料の割り当ては個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによって媒介されている」ということである。この現実的関係が思弁によって現われとか現象とかいう言葉で言い表わされる。★ある特定の境遇、ある特定の個人的自由、ある特定の職分の選択、こういった特定の現実的媒介は、現実的理念がそれ自身を相手に行なうような媒介、しかも舞台裏でおこなわれるような媒介、の現われであるにすぎない。★現実はそのもの自体としてではなく、なにか別の現実として言い表わされる。通常の経験はそれ固有の精神をではなくて、なにかそれとは無縁の精神を掟にもち、これに対して現実的理念はそれ自身から展開された現実をではなくて、通常の経験を定在<※2>にもつ。
理念は主体化され、そして家族と市民社会との国家にたいする現実的な関係は理念の内的な、想像上のはたらきと解される。★家族と市民社会は国家の前提であり、それらはもともとアクティブなものなのであるが、思弁の中であべこべにされる。ところで理念が主体化されると、その場合には、現実的な諸主体であるところの市民社会、家族、「境遇とか個人的自由とか等々」は理念の、非現実的な、他のものを意味する、客体的な諸契機となる。
「個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによる」国家材料の割り当ては真実のこと、必然なこと、本来それはそれとして理由のあることとして端的に述べられるということはない。境遇や個人的自由がそのようなものとして理性的なもの<必然的なもの>と称されるということはない。が、それにしてもやはり別の面でそれらは理性的なものとなる。ただしこの場合、それらは見かけ上の媒介と称されるというだけである。つまりそれらは現にあるがままのあり方に放置されながらも、同時に理念の一つの規定、理念の一つの成果、一つの産物という意義を受け取るという形でそうなるにすぎない。この区別は内容のうちに存するのではなくて、見方のうちに、あるいは言い表わし方のうちにある。二重の歴史、すなわち秘儀的なそれと公開的なそれとがある。内容は公開的な部分のうちにある。秘儀的な部分の関心はいつでも、論理的概念の歴史を国家のうちに認めるという関心である。しかしながら本来の展開が行われるのは、公開的な面においてなのである。

★合理的にはヘーゲルの文章は次のことを言っているにすぎないであろう。すなわち、
家族と市民社会は国家の諸部分である。国家材料は「境遇とか個人的自由とか職分の自身での選択とかによって」これらの部分に配分されている。公民は家族成員と市民社会の成員である。
「現実的理念、精神──このものは、それの概念の二つの理念的な圏、すなわち家族と市民社会に己れ自身を割って、己れ自身を有限的な在り方にする──」──このように、国家の家族と市民社会への分割は理念的、すなわち必然的であり、国家の本質に属する。★家族と市民社会は国家の現実的な部分、意思の現実的、精神的現存態であり、両者は国家の定在様式である。家族と市民社会はそれ自身を国家となす。それらは原動力となって他を推し動かすものである。@
これに反してヘーゲルによれば、家族と市民社会は現実的理念によって働きを受けている。それらを国家に統合するのは、それら自身の生<なま>の成り行きなのではなくて、理念の生の成り行きがそれらを己れからふるい分けたのであり、しかもそれらはこの理念の有限性なのである。それらはそれらの定在を、それら自身の精神とは別な一つの精神に負っており、ある第三者によって定立された規定なのであり、いかなる自己規定であるのでもない。事実またそれらが「有限性」として、規定されるのもこの故である。それらの定在の目的はこの定在そのものにあるのではなくて、理念がこれらの前提を自身から切り離すのは、「それらの理念性から出て対自的に無限な、現実的精神であらんがため」である。ということは、★政治的国家は家族という自然的土台と市民社会という人工的土台なしにはあり得ないということであり、それらは国家にとって一つの欠くべからざる条件なのであるが、しかし<ヘーゲルにあっては>条件が条件づけられたものとして、規定するものが規定されたものとして、産出するものがそれの産物の産物として定立される。@
現実的理念がその身を貶めて家族および市民社会の「有限性」へ入りこむのは、ただこの有限性の揚棄を通じて国家の無限性を享受し産出せんがためにほかならぬ。現実的理念は「そのため」(国家の目的を成就するために)「これらの圏に、このそれの有限的現実性」(この? どんな? これらの圏は何と言ってもそれの「有限的現実性」、それの「材料」にほかならないのである)「の材料、すなわち衆人としての諸個人を割り当て」(国家の材料はここでは「諸個人、衆人」であり、「彼らから国家は成立している」のであるが、この国家の成立はここでは理念の業<わざ>と称され、理念がそれ自身の材料でもって行うところの「配分」であると言われる。★事実においては、国家は家族成員として、また市民社会の成員として現存しているような衆人から出てくる。思弁はこの事実を理念の業と称し、大衆の理念とは言わずに、かえってある主体的な、事実そのものとは別な理念の業と称する)「しかもこの割り当ては」(さきにはただ家族と市民社会の両圏への諸個人の割り当てのことが云々されているだけである)「個人にあっては境遇とか個人的自由とか等々によって媒介されて現われるように行われる。」@
★ご覧のとおり経験的現実があるがままに受け入れられ、この現実がまた理性的だとも称されるのであるが、しかしそれはそれ固有の理性のおかげで理性的であるのではなくて、それが理性的なのは、経験的事実はその経験的な現存においてはそれ自身とは何か別な意義を有するからである。出発点となる事実はかかる事実そのものとは解されず、かえって神秘的な成果と解される。現実的なものは現象となるが、しかし理念はこの現象以外のどんな内容をも持ちはしない。のみならずまた理念は、「対自的に無限な、現実的精神であらん」とする論理的目的以外のいかなる目的をも持ちはしない。★この節のうちに法哲学、またヘーゲル哲学一般の全秘密が蔵されている。」(国民文庫版、「ヘーゲル法哲学批判序説」に所収、P6~)

国家は諸個人からなりたっており、この諸個人は家族成員としてまた同時に市民社会の成員として存在している。だから国家を理解するためには、諸個人が市民社会のなかでもつ関係、その媒介のされ方を理解することから始めなければならない、とこうマルクスは語っているようにチューターには思われます。ただ残念ながら「国民国家」の意義等については不勉強で多くは語れません。
下に、いわゆる哲学用語のいくつかの説明を挙げておきます。これまた難解でしょうが。

≪※1 ヘーゲル、「法の哲学」より。なお、即自、対自、即自かつ対自というヘーゲル用語については、広辞苑では以下のように説明されています。「即自、対自、即自かつ対自、はヘーゲル弁証法の根本的概念で、事物の発展段階を示す語。即自はそれ自身の存在に即した未発展の段階、対自は即自の状態から発展し否定契機として自己の対立物が現われる段階、即自かつ対自は、その対立を止揚して統一を回復した一段階高まった状態。この3段階は定立・反定立・総合(正・反・合)に対応する」 なお、下記の日本大百科全書によれば、「『正立<定立>・反立<反定立>・総合』を略して「正・反・合」と呼ぶ。たとえば『存在・無・生成』において、生成は存在(正)と無(反)の対立を克服し、高め、その両契機を保存する。すなわち止揚する「合」の段階である。この概念は本来ヘーゲルのテキストには存在しないもので、フィヒテの概念をヘーゲル哲学の説明に援用したものにすぎない……」。むしろヘーゲル自身は、「止揚 揚棄とも訳される。否定・保存・高揚という三義を含む。ヘーゲルはこの三義を三位一体と見なし、弁証法の根本要素とした」とある。≫

≪※2 日本大百科全書「ヘーゲル哲学の基本概念」によれば、定有、定在、定存在ともに「[規定された存在、質をもつ存在]の意。……ヘーゲルでは[一定の具体的な実在物]のこと……。定有は質を身につけている。すなわち、他の物との差異、性質上の限界、制限を自分の性質として持っている。定有は、限界を身の周辺につけているだけではなくて、限界を自分の核心に体している。しかし限界という規定はその定有の否定である。ゆえに定有とは、自己の否定を自己のなかに含む存在である。また、定有は本性の現われ、示現、権化、托身、受肉である。たとえば<ヘーゲルにおいては>、私の所有物は私の所有権の定有である。国家は自由の定有である。」また、市民社会とは「自由な市場経済活動の営まれる分業化された社会を、家族からも国家からも明確に区別して述語化したのはヘーゲルの歴史的功績である。マルクスの場合には、同じ言葉が[ブルジョア社会]と訳され、歴史の一段階としてとらえられるが、ヘーゲルでは、あらゆる歴史社会の構造として[市民社会]が組み込まれている。……」
また、「契機」についてはこう触れられているので、参考までに紹介しておくと、「多面的な要素から構成される実在の一側面。たとえば「消費」は商品交換の契機である。消費という要素だけでは交換は成り立たないが、消費という契機なしにも交換は成り立たない。もともとは力学の「モーメント」の概念から取られた概念で、たとえば、梃子や竿秤では、重力を支える力の分力が竿の長さで表現される。この時の実在の全体性に対して、契機の一面性・抽象性を『観念性』と呼ぶ。有限なもの、一面的なものの<実在の全体性にたいする>観念性を認識するのが『観念論』の立場である<とヘーゲルは理解する??>」≫

チューターが参院選に立候補するため5、6、7月の「読む会」は休会とさせていただきますので、今回は(説明)部分には入らないことにします。ご了承ください。

2019年4月24日