会報(たより)

読む会だより

「読む会」だより6月用

「読む会」だより(18年6月用) 文責IZ

(5月の報告)
5月の「読む会」は20日に行われました。
(前回の報告)の部分では、「価格が“観念的なもの”であるということは、……一定量の金がその商品と交換可能であるという姿で……すでに社会的に関連付けられているということだ」という説明になっているが、これまでの説明と少し違っていないのか、という質問がありました。チューターは、価格は商品にとって「物質的なものではない」から「観念的なもの」だという説明だけではどうかという意識があったのでこう書いたが、まだあれこれ考えていると答えました。

チューターの意識にあるのは『資本論』のなかの、以下の3つの指摘です。まず直接に関係するのは第3章1節のはじめのほうにある以下のものです。
・「商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態である。鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらの物そのもののうちに存在する。この価値は、これらの物の金との同等性によって、いわばただこれらの物の頭のなかにあるだけの金との関係によって、想像される。それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには、……これらの物に紙札をぶらさげるかしなければならないのである。」(全集版、P126)
ここでは価格は、商品の実在的な物体形態(特定の使用価値をもった)からは区別されるものであり、したがって単に観念的なまたは想像的な形態である、と述べられています。

ここで「商品の価値形態一般と同様に」とあるのは、第1章3節の以下の部分が参考になるでしょう。
・「リンネル=上着 というのが等式の基礎である。……たとえば上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、上着に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働に等置される。ところで、たしかに、上着をつくる裁縫は、リンネルをつくる織布とは種類の違った具体的労働である。しかし、織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に還元するのである。このような回り道をして、次には、織布もまた、それが価値を織るかぎりでは、それを裁縫から区別する特徴をもってはいないということ、つまり抽象的人間労働であるということが、言われているのである。ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働の独自な性格を顕わにするのである。というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の諸労働を、実際に、それらに共通なものに、人間労働一般に、還元するのだからである。」(全集版、P68)
ここでは異種の商品の等価表現によって、まずは右辺の商品(発展すれば貨幣商品)に含まれる労働が抽象的人間労働に還元され、その上で、左辺の商品もまた共通な価値としては右辺の商品と区別されないということが表現されている、と述べられています。要するに価格(左辺の商品と右辺に置かれる金量との等式)においては、右辺の金は抽象的人間労働が対象化された物体としてのみ扱われるのであり、この抽象的人間労働の対象化として、実在的な物体形態から区別される観念的な想像的な形態(姿)だと言われるのです──単に両辺が観念的に等置されるからというのではなくて。
価格は、だから、抽象的なあるいは社会的な人間労働の対象化(すなわち価値の形態)と見なされた、そしてこの意味で“観念的な”金の一定量との等置なのです。

しかし、商品は物であって意識を持たないではないか、価格といった観念的なものをもつのは人間つまり商品所有者でしかありえないではないかという疑問をもつ方がいらっしゃるかもしれません。第1章第4節でマルクスはこう述べています。
・「商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、<労働生産物の……レポータ>商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き替えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。……商品形態やこの形態が現われるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的な性質やそこから生ずる物的な関係とは絶体になんの関係もないのである。」(全集版、P98)
価格は価値と同じく、商品がもつものであって人間がもつものではありません。しかし労働生産物の価値としての同等性やその価格としての表現は、人間の社会関係がもたらす社会的な属性です。そして、この社会的な属性がどのようなものであるかは、マルクスが『資本論』でおこなっているように、人間が観念を利用して認識するほかには手がないのです。

貨幣による商品流通の媒介は当たり前のことで、魔術というほどのものではないという点については、質問者が欠席なさったので議論は進みませんでしたが、若干補足しておきます。
貨幣が生み出されると、商品交換は販売と(W─G)と購買(G─W)という二つの過程に分裂します。しかし物々交換と違って、商品交換の前半の販売(W─G)においては、商品は価格として、観念的にすでに存在していた自分自身の価値の姿に現実に転化するのであって、商品としての金と交換されるのではありません。言いかえれば、商品世界が排除された一商品を貨幣とする関係をすでに持っているからこそ、商品の価値は価格で表現しうるし、その価格が実現されるならば、その商品は貨幣に置き換わった姿において、その大きさの範囲内であれば、今度はすべての他の商品と置き換わることができるのです。
ある商品の生産に支出された労働が、価値として、社会的な労働として同等なものとして認められるということが、ここでは商品の価格が実現され、一定量の貨幣に置き換わるということとして現われるのです。貨幣は、なぜ他の商品と任意に置き換わることができるのかを考えるならば、事はさほど当たり前ではないように思われます。

前回は説明の部分に進めなかったので、説明部分は前回と同じです(すみません)。

(説明)第2節 流通手段 b 貨幣の流通 の2回目

(2)流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、商品の価格総額と貨幣の流通速度によって決まるのであって、貨幣量によって価格やその総額が決まるのではない──いわゆる貨幣数量説の誤りについて

マルクスはb項「貨幣の流通」のなかで次のように問題を提起します。
・「どの商品も、流通への第一歩で、その第一の形態変換で<すなわちその所持者にとっては非使用価値である或る商品の売りW─Gは、同時にすでに別の商品を売って得たGの所持者の使用価値としての買いであるのだから(久留間の図で言えば左下から右上に上がって脱落するWの流れのように)……レポータ>、流通から脱落し、そこには絶えず新たな商品がはいってくる。これに反して、貨幣は流通手段としてはいつでも流通部面に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。そこで、この部面はつねにどれだけの貨幣を吸収するか、という問題が生ずる。」(同、P153)

そしてこう答えています。
・「商品は、その価格において、すでに決定された想像された貨幣量に等置されている。ところで、ここで考察されている直接的流通形態<信用などを考慮外に置いた、商品と商品との直接の……レポータ>は、商品と貨幣とをつねに肉体的に向いあわせ、一方を売りの極に、他方を買いの反対極におくのだから、商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表わされている金総額を実在的に表わすだけである。したがって、これら二つの総額が等しいということは自明である。とはいえ、われわれが知っているように、商品の価値が変わらない場合には、商品の価格は金(貨幣材料)そのものの価値といっしょに変動し、金の価値が下がればそれに比例して上がり、金の価値が上がればそれに比例して下がる。こうして諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。」(同、P154)
・「流通過程の或る与えられた期間については、(商品の価格総額)/(同名の貨幣片の流通回数)=流通手段として機能する貨幣の量 となる」(同、P157)

そしてさらにこう触れていわゆる貨幣数量説を批判しています。
・「流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則は、次のようにも表現することができる。すなわち、諸商品の価値総額とその変態の平均速度が与えられていれば、流通する貨幣または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって定まる、と。これとは逆に商品価格は流通手段の量によって規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定される、という幻想は、その最初の代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通過程にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて、そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ、というばかげた仮説に根差しているのである。」(同、P160)

商品の流通があるかぎり、つまり商品の素材転換が滞りなく行われるためには、一定量の流通手段の量が客観的に必要であることは、価格が商品の価値の表現として決してたんなる主観的なものではないということが理解できれば、きわめて当然のことのように思われます。
価格とは、支出された社会的必要労働量として客観的に存在する商品の価値を、貨幣で相対的にあるいは観念的に表現したものでした。だから社会的に必要な流通手段の量は、貨幣として実現されるべき商品の価格総額によって決まることは至極当然なのです。
これにたいしていわゆる近代経済学の人たちは、価値の概念をもつことができず、貨幣が商品の価値の形態であることを理解しません。そのために、商品と貨幣との転換を、商品自体の形態転換と見ることができず、たんなる商品と別の商品との交換、物々交換と同一視します。彼らは「商品は価格をもたずに、また貨幣は価値をもたずに流通にはいる」と勝手に思い込みます。だから流通のなかでも、貨幣量が2倍になれば商品価格も2倍に騰貴し、反対に貨幣量が半分になれば価格も半分になるといった非現実的な幻想にふけることができるのです。

2018年6月20日

「読む会」だより5月用

「読む会」だより(18年5月用) 文責IZ

(4月の報告)
4月の「読む会」は15日に行われました。(前回の報告)の部分では、最後の方で紹介した第1節での「実際に交換価値<等価物……レポータ>の働きをするためには、商品はその自然の姿を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。たとえ商品にとってこの化体が、……もっとつらいことであろうとも」(全集版、P136)のなかにある、「もっとつらい」とはどういうことか、という質問が出されました。
チューターは、引用が長くなるので、その前の……部分を省略してしまったので、分かりづらくなって、申し訳ない。そこには「ヘーゲルの『概念』にとっての必然から自由への移行や、ザリガニにとっての殻破りや、教父ヒエロニムスにとっての原罪の脱却よりも、」とある。要するに、商品にとって、価格というそれがもっているただ想像されただけの金(あるいはすでに関連付けられている金)から、現実の金へと転化(すなわち“化体”ないし“脱却”)することは、たんにヘーゲルが自分の頭のなかで行なう必然から自由への概念の“離脱”とか、自然の成長過程として行われるザリガニの旧来の殻から新しい殻への“化体”などよりも、もっとつらいことだろう。というのは、もしもその商品の生産のために費やされた労働が、他人によって社会的に必要な労働と認められなければ、それは“価値”として認められないのであり、したがってその価格を実現して現実の金に“脱却”できない(あるいはできたとしても量的に異なっている)という、自分自身ではどうすることもできない社会的な事情を抱えているのだから、というような意味だろう。それを彼特有の皮肉をもって言っている。と答えて、了承されました。

そこの記述でチューターが強調していることは、価格もまた、価値の表現としては客観的な内容をもっており、恣意的なものではないということでした。また価格が“観念的なもの”であるということは、商品の価格が商品生産者の意識や想像のなかにあるという意味ではまったくないということです。それは商品世界の中で、すでに、すべての商品が貨幣・金によってその価値を相対的に表現し、“一定量の金が”その商品と交換可能であるという姿で──すなわち価格という姿で──自らの価値(社会的必要労働量)を共通に表示するという関係をもっている、あるいはそうしたものとしてすでに社会的に関連付けられているという意味において、“観念的なもの”だということでした。
価格はたしかに“物”である「商品」がもつものであって、人間がつまり商品生産(所持)者やその意識がもつものではありません。しかし価格は、商品自体がもっている物質的な性質とは無関係であって、この意味でも商品の価格は“物質的なもの”ではありません。価格は“物”(商品)がもつものとして現われているとはいえ、価値の表現方式なのであり、諸個人の労働の社会的な同質性を(“物質的に”ではなくて)“観念的に”表示しているのです。
商品は、その価格が実現されると「ただ想像されただけの金から現実の金に転化」されますが、それは抽象的に“観念的なもの”が“現実的なもの”に移行するというようなヘーゲル的な意味ではまったくありません。それは、第2節の冒頭の商品の形態転換のところ(たより17年9月用など)で述べられてきたように、価値としての、つまり無差別な社会的な労働の対象化としての商品の「形態」の転換、すなわちその生産されたままの特殊な使用価値をもった姿から、貨幣という共通な人間労働が対象化された姿に転換されたうえで、別の特殊な使用価値をもつ商品に置き換わることで商品としてのまた価値としての姿を失なうという、商品生産のもとで社会的な素材転換が行われるための方式なのです。商品は、使用価値であると同時に価値でもあるという矛盾を、価値の形態としての貨幣を生みだし、それへの形態転換を媒介することによって、解決していくのです。そしてだからこそ、商品は生まれた時からその使用価値としての姿のほかに、価値として貨幣(価値の形態)との転換の必要を、価格という姿でもつのです。
(ただし、たとえば1本のボールペン=100円という価格においては、左辺の商品が右辺の一定量の金と任意に交換可能だということを表示しているのではなくて、右辺の一定量の金のほうが、左辺の任意の商品と交換可能であるという姿で、他の商品と共通にその価値を表現しているということに注意が必要です。)

(説明)の部分では、「貨幣の魔術」、つまり金はその金という物体、その自然属性によって他の商品と任意に交換可能のように見えるが、しかしそれは金が貨幣として社会的に認められた結果であり、すべての商品が共通の金でその価値を表現したからこそである、ということは
分かった。しかし、貨幣による商品流通の媒介はいわば当たり前のことで、「“いっそう発展した”貨幣の魔術」というようには言えないのではないか、という質問が出されました。
チューターは、マルクス自身は「b 貨幣の流通」のなかで“いっそう発展した”貨幣の魔術というようなことは言っておらず、いわばチューターの独断でこう書いた。時間も迫っているので次回のたよりで補足させてほしい、ということになり、ここで補足しておきます。

前回引用したなかでも、次の部分をもう一度読んでいただきたいと思います。
・「それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態転換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介される“ように見え”@
この貨幣がそれ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移していく“ように見える”のである。……貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。」(全集版、P152)
ここで述べられていますのは、①別の商品による商品の取り替え(つまり商品流通あるいは社会的素材転換)は、流通手段としての貨幣の機能の“ように見える”が、実際には諸商品の形態転換のからみ合いによって媒介されている。②貨幣が運動することで商品を流通させる“ように見える”が、実際に運動するのは商品であり、貨幣流通は商品流通の結果でありその表現でしかない。という二つのことです。
①についてはマルクス自身がa項の終わりで「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつ」(同、P151)と述べたのではないか、という疑問が上がると思います。商品の形態転換、W─G─Wをもっとも抽象的に語れば、貨幣Gは商品Wの流通の媒介者であることに間違いはありません。しかし、前回、前々回と久留間の図を参考にして触れてきましたように、それは直接的生産物交換W(リンネル)─W’(聖書)とはまったく違った、複雑な姿をもっているのです。
たとえばW2(リンネル)のW3(聖書)への素材転換、すなわちW2(リンネル)─G─W3(聖書)をもう少し詳しく見てゆけば、それはリンネル所持者にとっては、W2(リンネル)─Gすなわち「リンネルの売り」という前半の過程と、G─W3(聖書)つまり「聖書の買い」という後半の過程が結びついたものであり、より詳しく書けば、W2(リンネル)─G…G─W3(聖書)です。しかし、このリンネルの形態転換の過程の前半部分であるW2─Gつまりリンネル所持者にとっての「リンネルの売り」は、別の商品W1(小麦)の形態転換であるW1(小麦)─G─W2(リンネル)の後半の過程、つまり小麦所持者の「リンネルの買い」と結びついてはじめて成立します。さらに、リンネルの形態転換の後半部分であるG─W3(聖書)は、また別の商品W3(聖書)の形態転換であるW3─G─W4の前半の過程、つまり「聖書の売り」であるW2(リンネル)─Gと結びついてはじめて成立するのです。
そしてこうした過程の全体である商品流通のいわば“主役”は商品Wであって貨幣Gではなく、貨幣Gはすべての商品の価値の形態として、それらの商品の素材転換を“媒介”する役割を果たしているだけなのです。商品の貨幣への転換、そしてまた貨幣の商品への転換は、商品自体の形態の転換なのであって(すなわち使用価値の形態から価値の形態へ、また逆に価値の形態から使用価値の形態への)、商品と別の商品である貨幣との素材交換、物々交換ではない、ということが重要です。
こうしたことを見ていくと、②のように「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる」と述べられていることを、“いっそう発展した”「貨幣の魔術」と語ってもあながち間違いではないとチューターは思うのですが、いかがでしょうか。

なお、前回の引用では省略しましたが、そのすぐ後で、貨幣の流通手段の機能についてマルクスはこう指摘しています。
・「他方、貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。」(同、P153)

(説明)第2節 流通手段 b 貨幣の流通 の2回目

(2)流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、商品の価格総額と貨幣の流通速度によって決まるのであって、貨幣量によって価格やその総額が決まるのではない──いわゆる貨幣数量説の誤りについて

マルクスはb項「貨幣の流通」のなかで次のように問題を提起します。
・「どの商品も、流通への第一歩で、その第一の形態変換で<すなわちその所持者にとっては非使用価値である或る商品の売りW─Gは、同時にすでに別の商品を売って得たGの所持者の使用価値としての買いであるのだから(久留間の図で言えば左下から右上に上がって脱落するWの流れのように)……レポータ>、流通から脱落し、そこには絶えず新たな商品がはいってくる。これに反して、貨幣は流通手段としてはいつでも流通部面に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。そこで、この部面はつねにどれだけの貨幣を吸収するか、という問題が生ずる。」(同、P153)

そしてこう答えています。
・「商品は、その価格において、すでに決定された想像された貨幣量に等置されている。ところで、ここで考察されている直接的流通形態<信用などを考慮外に置いた、商品と商品との直接の……レポータ>は、商品と貨幣とをつねに肉体的に向いあわせ、一方を売りの極に、他方を買いの反対極におくのだから、商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表わされている金総額を実在的に表わすだけである。したがって、これら二つの総額が等しいということは自明である。とはいえ、われわれが知っているように、商品の価値が変わらない場合には、商品の価格は金(貨幣材料)そのものの価値といっしょに変動し、金の価値が下がればそれに比例して上がり、金の価値が上がればそれに比例して下がる。こうして諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。」(同、P154)
・「流通過程の或る与えられた期間については、(商品の価格総額)/(同名の貨幣片の流通回数)=流通手段として機能する貨幣の量 となる」(同、P157)

そしてさらにこう触れていわゆる貨幣数量説を批判しています。
・「流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則は、次のようにも表現することができる。すなわち、諸商品の価値総額とその変態の平均速度が与えられていれば、流通する貨幣または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって定まる、と。これとは逆に商品価格は流通手段の量によって規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定される、という幻想は、その最初の代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通過程にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて、そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ、というばかげた仮説に根差しているのである。」(同、P160)

商品の流通があるかぎり、つまり商品の素材転換が滞りなく行われるためには、一定量の流通手段の量が客観的に必要であることは、価格が商品の価値の表現として決してたんなる主観的なものではないということが理解できれば、きわめて当然のことのように思われます。
価格とは、支出された社会的必要労働量として客観的に存在する商品の価値を、貨幣で相対的にあるいは観念的に表現したものでした。だから社会的に必要な流通手段の量は、貨幣として実現されるべき商品の価格総額によって決まることは至極当然なのです。
これにたいしていわゆる近代経済学の人たちは、価値の概念をもつことができず、貨幣が商品の価値の形態であることを理解しません。そのために、商品と貨幣との転換を、商品自体の形態転換と見ることができず、たんなる商品と別の商品との交換、物々交換と同一視します。彼らは「商品は価格をもたずに、また貨幣は価値をもたずに流通にはいる」と勝手に思い込みます。だから流通のなかでも、貨幣量が2倍になれば商品価格も2倍に騰貴し、反対に貨幣量が半分になれば価格も半分になるといった非現実的な幻想にふけることができるのです。

2018年5月20日