会報(たより)

読む会だより

「読む会」だより12月用

「読む会」だより(18年12月用) 文責IZ

(前回の報告)
11月の「読む会」は都合により第2日曜日の11日に変更となり、ご迷惑をおかけしました。
前回は冒頭、「しばらく話題になっている宇野弘藏のことを、佐藤優(元外交官)なども高く評価しているようですね」という参加者からの発言がありました。
価値とは何かが把握できて、はじめて労働力の価値とはどのようなものかが分かるのは至極当たり前のことであって、労働力の価値によってはじめて価値が規定されるといった宇野学派の理屈は逆立ちしています。そうした理屈が持ち出されるのは、むしろ政治的な動機によるものと言うべきでしょう。というのも、労働力の価値の規定よりも価値の規定のほうが根底だと言うならば、ここからは労働が価値という物の姿をとることを止めさせよ!という社会主義的・革命的な要求が出てきます。しかし逆に、価値の規定よりも労働力の規定のほうが根底だというならば、そこからは労働力の価値を価値どおりに支払えという無力な半ブルジョア的な要求しか出てこないからです。チューターにはそうとしか思えません。

次に、10月に紹介した見田の見解について、チューターから以下のように評価を変えたいという報告がありました。
「商品生産社会にあっては、個々人の労働が社会性をもつのは、商品の価値として対象化されて一定の割合でたがいに等置され、交換しうるものであるかぎりであり、つまりそれらの抽象的労働としての同等性においてである」という見解はまったくその通りと思われます。しかし「有用的諸労働がいかに異なっていようとも、それらは人間的有機体の諸機能であるということ、およびかかる機能はいずれも、……本質的には人間の脳髄・神経・筋肉・感官などの支出であるということは、一つの生理学的真理である」というマルクスの文章を引いて、「価値の概念に到達するためには、その自然的な実体たる抽象的人間労働を自然的実体としてとらえることがその第一の条件であって、これを社会的、歴史的なものだとすれば価値なるものは得体の知れぬものとなる」と述べることは、労働のもつ抽象的人間労働という社会的な(したがってまた歴史的な)性質を、労働のもつ自然的な性質に(したがってまた有用的労働へと)還元することであり、正しくないと思われる。労働のもつ抽象的人間労働としての同質な側面は、1章3節でマルクスがアリストテレスの例で語っているように商品生産の発達とともに認識され得たものであり、それは人間労働力の発展とともに社会的労働の内容として発展すると考えるべきと思われます。

この報告に対しては、「例えばロビンソンの例をとっても、彼の労働は社会的なものではないとはいえ、彼のさまざまな有用的労働が、彼のもつ同じ労働力の支出の一部分でもあるという抽象的人間労働の側面をもっていることは永遠に変わることのない事実であろう。しかしそうではあってもそういうことを彼自身が認識して行なっているかどうかで違いがあるのではないか」という意見がまず出されました。
チューターは、とても参考になる意見でありがたい。ロビンソンの例をとっても、彼の生産的活動=労働は、その目的や対象となる自然物が異なるのに応じて有用的労働としては質的差異をもち、それぞれに姿かたちは変わらざるを得ない。しかしそれらの労働は、いずれも彼の労働力の総支出のうちの一部分としては量的差異しかもたないという抽象的人間労働の側面を同時にもっているだろう。この同じロビンソンの労働力の支出としての同質性は、社会的な労働とは違って個人的な活動としての統一性に基づくのですが、にもかかわらず、それは種々の労働の有用性とは異なるロビンソンの労働力の支出の一部分としての同質性を持ち、だから時間で計りうることになります。
このように労働のもつ有用的側面・性質と抽象的側面・性質とは「労働の二面性」として同じではありえないのですから、見田のように「生理学的真理」から直接に「抽象的人間労働そのものの自然的性質」といったものを引き出すことは、抽象的人間労働を自然的性質へ、結局は有用的労働に還元することになってしまいます。
抽象的人間労働が「生理学的真理」であるかどうかが問題なのではなくて、見田自身が語っているように、商品生産のなかでは労働の無差別な同質性という抽象的側面が発展し、労働の有用性ではなくてその無差別な側面こそが社会的労働の主要な形態となるということが重要に思われます。
『資本論』1章2節でわざわざ「商品に表わされる」労働の二重性と言われているように、価値が抽象的人間労働としての同等性であると人々が認識できるようになったのは、商品生産のつまり資本主義の発展の成果です。そして諸個人が、各自の労働を社会の総労働の一部分として自覚的に支出する(つまり生産物=商品の“価値”という形をとることなく、直接に社会的必要生産物にたいして総労働時間の配分が行われる)というのが、社会主義の内容だろう、とチューターは述べました。
これに対して別の参加者からは、労働の抽象的人間労働としての性質は資本主義に独特ではなくて将来の社会主義にも残るということか、という質問が出されました。
チューターは、人々の生活を支える生産的労働の総体を、社会の成員全員が意識的に分配し、また平等な労働時間を支出しあいながら担うという形で、抽象的人間労働は社会的労働の眼にみえる内容として発展するのではないか(個々の生産物の生産にはそれぞれ異なった有用的労働が必要なことに変わりはないが)、だからそこでは「実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表わす」(第1章4節、全集版P106)、と指摘されているのではないかと述べました。
(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」の1回目

1)「貨幣としての貨幣」を理解することの困難について

第3節は次のようなパラグラフで始まります。
・「価値尺度として機能し、したがってまた自分の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品は、貨幣である。それゆえ、金(または銀)は貨幣である。@
金が貨幣として機能するのは、一方では、その金の(または銀の)肉体のままで、したがって貨幣商品として、現われなければならない場合、すなわち価値尺度のように単に観念的にでもなく流通手段の場合のように代理可能にでもなく現われなければならない場合であり、@
他方では、その機能が金自身によって行われるか代理物によって行われるかにかかわりなく、その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値としての他のすべての商品に対立させて固定する場合である。」(全集版、P169)

それがどうしたとおっしゃる方もおられるかもしれませんが、『経済学批判要綱』の中では、(1)尺度としての貨幣、(2)交換手段としての貨幣と区別して、第3節で触れられる貨幣については「貨幣としての貨幣」(『要綱』、大月版P971)と呼び、そして「貨幣をその第三規定で把握することの困難」について以下のように触れています。
・「貨幣としての完全な規定性での貨幣を把握するにさいしての特別の困難──経済学は、<使用価値と交換価値という二つの規定のうち……レポータ>その規定の一つを他の規定のためにわすれ、一方の規定がくつがえされれば他の規定に訴えるというやり方で、この困難をのがれようとつとめる──は、一つの社会関係が、すなわち個人相互間の一定の<同等な……レポータ>関係が、ここでは金属として、石として、すなわち彼らの外部にある純粋に有体な物として、つまりそのものとして自然のうちに見いだされ、また、もはやその自然的存在から区別されうる何らの形態規定もそれに残されていない物として、現われることにある。@
金および銀は、それ自体貨幣ではない。自然が貨幣を生産しないことは、為替相場や銀行業者を生産しないのと同様である。ペルーやメキシコでは、金銀が装飾品として存在し、完成した生産組織がそこに見いだされるとはいえ、金銀は貨幣としては役だっていなかった。貨幣であるということは、金銀の自然的性質ではなく、したがって物理学者、化学者等にはそういうものとしては全然知られていなかった。@
だが貨幣は、直接に金銀である。尺度としてみれば、貨幣はなお<商品の価値表現における……レポータ>形態規定が主となっているが、この貨幣が外的にもその刻印で現われている鋳貨としてみれば、いっそうそうである。だが第三規定においては、すなわち尺度であり鋳貨であるということが貨幣の<固有の……レポータ>機能として現われるにすぎない完成状態においては、あらゆる形態規定は消滅している。すなわちその金属的存在と直接に一致している。そこでは、貨幣であるという規定がたんに社会的過程の結果であるというふうには全然みえない。貨幣があるのである。このことは、貨幣の直接的使用価値<その自然的属性……レポータ>が、生きている個人にとっては少しもこれらの役割とは関係せず、また一般に純粋な交換価値の権化としての貨幣においては、交換価値とは異なる使用価値への連想は、まったく消え去っているだけに、いっそうむずかしい。だからここでは交換価値と交換価値に対応する社会の生産様式とにふくまれている基本的矛盾が、完全な純粋性においてたちあらわれる。」(同、P159)

抽象的人間労働としての諸労働の同等性が、商品生産の基礎のもとでは、対象化された商品の価値として、さらには金銀という物として現われます。その結果は、[人間の外部に存在する自立的な“物”としての金銀が、人間の社会的な労働を支配するということでしょう。]

社会的労働が人間によって制御されるのではなくて、逆に人間の外部に存在する物が、貨幣としての金銀が、自立的な運動を開始する(資本の形成に向けて)ということでしょう。

2018年12月18日

「読む会だより」11月用

「読む会」だより(18年11月用) 文責IZ

・今月はチューターの都合により、定例の第3日曜日ではなくて、第2日曜日に開催を変更させていただきました。あらかじめ予定を組んでおられる方が多く、参加者が少ないので、今回の「たより」は、前回、前々回の報告と補足だけにさせていただきます。申し訳ありません。

(前回、前々回の報告と補足)

・9月の「読む会」には、岩波新書(再版)の「マルクスの哲学」を今読んでいるという94歳のSさんが参加して下さいました。(戦前の学生時代に、隠れてマルクスの本を読んだりした貴重なお話を聞かせていただきました。)

10月の「たより」のなかで、「商品は、自らが一般的抽象的労働の対象化であるということを直接その自然の姿で表現する代わりに、一般的等価物である貨幣を価値そのものと見なし、一定量の貨幣がその商品と等価であり、交換可能だということ、つまり『価格』をもつということによって表現する」と述べた点について、Sさんから「普遍的な労働が貨幣になるということか」という質問が出ました。チューターは、普遍的なつまり抽象的な労働が貨幣になるというよりも、価値としての抽象的な労働が貨幣として表わされ、そのことによってすべての商品に含まれる相異なる労働が、抽象的労働としての(すなわち価値としての)共通な姿をもち、そのことによって使用価値であるとともに価値であるという二重な姿をもつ、ということだろうと答えました。

また、「初版・付録」からの引用に関連して、具体的労働と区別される抽象的労働というのがよく分からないという質問も出されました。チューターは、抽象的労働の理解は重要なので、次回、見田石介が『資本論の方法』で述べているところを参考として紹介してみたい。ただ、どこかで見田は「一般的なものも存在する」とか語っているが、今回「初版・付録」で引用しているところにも触れてあるように、一般的なものの存在の仕方は自然的なものの存在の仕方とは異なっているようにチューターは考えているが、と述べました。

・10月の「読む会」では、9月の話に沿って、見田石介の『資本論の方法』と関連文書のなかの2か所をとって紹介しました。
ここでは、「個人労働の社会性を“保証する”」ということは、どういうことか、という質問などが出ました。チューターは、見田以外の人が「保証する」いう言葉を使っているかどうかは知らないが、社会的な労働として“認められる”という程度の意味ではないか、と答えました。
「たより」の最後に触れましたように、直接には私的な生産を基礎にしている商品生産社会にあっては、個々人の労働が社会性をもつのは──従来の社会とは異なって──、商品の価値として対象化されて一定の割合でたがいに等置され、交換しうるものであるかぎりであり、つまりそれらの労働の抽象的労働としての同等性においてである、という見田の指摘はその通りと思います。

しかし、紹介した見田の文章は、読み返してみますとやはりいろいろ大きな問題があります。とりわけ問題となっている抽象的労働の理解には、むしろ誤解を与えたのではないかと反省しています。幾つか思い当るところを指摘しておきます。
はじめの「論理歴史説」の批判の部分に、まず決定的な問題が出てきます。
見田は引用の2番目のパラグラフ中ほどで、「しかもこの労働の二面性は、たんに客観的にそうであったばかりでなく、過去においては主観的にも人間に意識され、強い関心をもたれ、それに従って人間社会の総労働が各生産分野に配分されてきた。……だが、私的生産という条件のもとでは、したがって人間がもはや社会的総労働を意識的に配分できなくなった条件のもとでは、この自然的な抽象的労働の対象化は、……社会的実体──価値に転化する」と述べています。
しかし商品生産が発展する以前の時代に、「社会的総労働が意識的に配分されてきた」とはいっても、それは具体的労働そのもの(年貢米をつくる農業労働といった)が社会的労働の姿をとっているからこそ、具体的労働の姿そのもので行なわれたのであって、決してそれは抽象的人間労働の姿として、すなわち労働時間一般として行なわれたのではありません。第1章第4節でのマルクスの指摘を、見田は何か読み間違いをしているとしか思えません。

さらに見田は、「第一に、有用的諸労働または生産的諸活動がいかに相異なっていようとも、それらは人間的有機体の諸機能であるということ、および、かかる機能はいずれも、この内容や形式がどうであろうとも、本質的には人間の脳髄・神経・筋肉・感官などの支出であるということは、一つの生理学的真理である。」というマルクスの指摘をとってきて、それを「抽象的人間労働そのものの自然的性質」であると言います。
しかし、見田はマルクスが以下のように語っていることを忘れています。
・「ところが教授大先生にあっては、人間の自然にたいする関係は、はじめから実践的な関係ではなく、つまり行為によって基礎づけられた関係ではなくて理論的関係であ<る>」(「ワーグナー評注」全集版、P362)
・「しかし、商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読み取ることができなかったのであって、それは、ギリシャの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働の不等性を自然的基礎としていたからである。……しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。」(第1章、第3節、全集版P81)
マルクスが「生理学的真理」と述べているのは、人間労働力“一般”の支出というのがたんなる観念ではなくて、現実的・自然的基礎をもっているということにすぎないとチューターは考えます。労働の抽象的労働としての側面は、人間労働力の発展とともに社会的労働の内容として発展すると捉えるべきであって、それを「抽象的人間労働そのものの自然的性質」としてしまうのは非実践的な(あるいは非社会的な)、理論的な関係に抽象的労働を貶めることではないのでしょうか。

・今回は説明部分はありません。次回の説明は、第3章、第3節「貨幣」からの予定です。

2018年11月15日