会報(たより)

読む会だより

「読む会」だより3月用

「読む会」だより(18年3月用) 文責IZ

(前回の報告)
2月18日に行われた「読む会」では、新しく二人の方が参加されました。チューターは、はじめて『資本論』を読もうとすると、まずもって二つのことが分かりにくいだろうからと、以下のように触れました。
一つは、価値(経済的な価値)とは、普通に言われるような使用価値(種々な有用性)のことではない、ということです。価値とは、自分は他人のための生産物を作る一方で、すべての人が自分の生活を他人の生産物で成り立たせるという商品生産社会において現われる、労働の無差別な(社会的に同等な)性格なのです。しかしそれは生産物の性格として反映されます。そしてその大きさは生産のために支出された社会的に必要な労働時間で測られます。生産物の使用価値の方は種々に異なるものですが、その価値の方はただ大きさだけが違うということをとっても、価値と使用価値とは全く別のものなのです。
二つ目は、価値は価格として表現されているけれども、価値と(その現象形態としての)価格とは別のものだということです。価値は、社会的に必要なものとして支出された労働時間であり、商品は実際にそうした労働時間の結晶です。しかし社会的必要労働時間から出発して労働を組織するのではなくて、個々バラバラな私的な生産から出発し、商品の交換を通じて生活を成り立たせる商品生産社会にあっては、すべての商品と交換可能だという一般的等価物(貨幣)の性格として、労働の社会的労働としての同質性が現れるほかないということです。だから、ある商品の価値は1/10労働時間というように直接に表現されるのではなくて、100円だの1ドルだのという価格として、すなわち一定量の金という共通な“物”の大きさとして相対的に表現されることになります。商品にとってその価格は、金という使用価値(“物”)の大きさであり、その一定量との等価の表現です。しかしこの場合の金は、諸商品にとっては、その金という使用価値の性質や大きさを表示するためのものなのではなくて、自分たちの価値をすなわちそれらの社会的労働の対象化としての同質性やその大きさを共通に表現するための材料(価値の形態)としてのみ取り扱われているのです。
これらのことはすぐには呑み込めないかもしれませんが、何回でも説明しますので、分からないことはどんどん質問なり意見なりを出してもらえるとうれしいです。

(前回の報告)の部分では、まずチューターから、3番目の段落の最後の文章「言いかえれば、商品は、……と答えました」という部分は、あまり正しくないので削除させてほしいという発言がありました。
ここでは「現代は大量生産の時代なのだから、労働量が等置されるというマルクスの考えでは答えられないのではないのか」という質問が出されました。チューターは、例えばかつて万年筆は高価だったが、ボールペンの時代になってとても安価になった。これは大量生産が可能になることによって、筆記具という使用価値においてその社会的必要労働量が減少したからということで説明できるのではないだろうか、と答えました。関連して、「労働価値説というのは、人間の存在の根幹としてはあるのではないか」という意見が出されました。
また「社会的必要労働が貨幣なり価格なりで示されるというのはどういうことか」という質問が出されました。この点については、はじめの部分で補足してまとめさせてもらいました。

さらに「商品の価値は、それが売れて、価格が貨幣に置き換わることで証明されるということか」という質問が出されました。チューターは、自分の説明もよくなかったかもしれないが、なにか“売れる”ということの理解に誤解があるように思う。商品の「価値の実現」、実証ということは、それが社会的必要労働の一部として無差別な労働であるということが実証されるということだから、それは別の“商品”と交換され、置き換わることで実証され実現されるということだろう。
他方、商品が「価格をもつ」ということは、この商品の交換(素材転換)が、貨幣という価値形態の媒介を経て売りと買いの二つの過程に分裂し、W─G─Wの形で行われるということである。(ただし、ここでのGは商品・金ではなくて、全商品の価値の物質的存在としての金のこと。)そして、この過程の前半部分のW─Gが売りであり、後半部分のG─Wが買いである。しかし、たとえばリンネル生産者にとってのこの前半の売り・W(リンネル)─G(貨幣)は別の小麦生産者の後半部分の買い・G(貨幣)─W(リンネル)と結びついているからややこしくなる。このWとGの保持者という二つの極から同じ行為を逆方向から見る限りでは、売りは買いであり、買いは売りである。
しかしある商品Wにとっては、売り・W─GはW─G─Wの前半部分であり過程の一部分にすぎず、それは「価格の実現」、すなわち価値形態としての一定量の貨幣への転換にすぎない。だから売り、すなわちある商品の貨幣への転換は、その価値が実証され別の商品に置き換わったということではなくて、ただその前段階としての価格が実現されたということ、他の任意の商品に置き換わり得る形態を得たということにすぎない。なお、“売り”ではなくて、“売れる”という表現には何か貨幣=儲けというイメージがあるが、儲けについては第4章の資本のところで述べられるが、ここでは問題にされてはいない。と答えました。

(説明)の部分では、久留間の図に関連して、「Gは同じ大きさのように書かれているが、そこには流通費があるから同じ大きさではないのではないか」という質問が出されました。チューターは、後に『資本論』でも運送費や倉庫費用などを流通費用として考察する部分が出てくるが、ここは流通の概念図ということなので、省略してよいのではないかと答えました。
マルクスの最後の引用の部分では、①「互いに補いあっているために内的には独立していないもの」というのは、社会的な生産と消費ということだろう、②「物の人化」とは、生産物が自然的には持つことのない社会的性質である価値をもつということだろう、③「人の物化」というのは、人々の社会的労働が商品の価値として現れるということだろう、④「商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取る」というのは、すぐ後に出てくる信用その他のことだろう、とチューターが補足しました。

(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の5回目

(3)まとめ──商品流通(商品交換 W─G─W)と直接的生産物交換(物々交換 W─W)とは、その形式が違うばかりではなくて、実質的にも違っている。

生産物の価値としての形態転換(貨幣)を媒介としている商品交換(流通)と、生産物の使用価値としての直接的転換である物々交換とは、前者が生産物が商品としてあらかじめ共通な「価格」をもっているということによって本質的に区別されます。
価値が価格で表示されるということは、“すでに”商品世界が排他的な一商品である金を一般的等価物(貨幣)とすることで、相互に価値として関連しあっているということを、前提しているのです。この場合、商品の価値関係のなかにあっては、一般的等価物(貨幣)は価値の物質的存在として、価値物体すなわち価値そのものとして、諸商品に認められることになります。だから諸商品は、この一般的等価物(貨幣)の物質的大きさによって、その価値(無差別で同質な労働という実体)の大きさを共通に表示するということが可能となるのです。言いかえれば、その大きさ(すなわち価格)の範囲では無差別に転換可能であることを、観念的な一定量の金として相互に表示しあうことができるのです。

前回も触れたように、ある商品が自らの価値姿態である貨幣へといったん形態転換することを、ある商品が別の商品・金と交換されることだと見違えることは、商品交換と物々交換とを同一視することになります。しかし、それでは商品に独自な価格も、商品交換の独自の部面である流通も見失うことになるのです。

マルクスはa「商品の変態」の項の終わりのほうで、これらの点について次のように指摘しています。
・「商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている。事態の経過をほんのちょっと振り返ってみよう。リンネル織職は無条件にリンネルを聖書と、自分の商品を他人の商品と、取り替えた。しかし、この現象はただ彼にとって真実であるだけである。冷たいもの<本>よりも熱いもの<酒>をこのむ聖書の売り手は、聖書とひきかえにリンネルを手に入れようとは考えもしなかったし、リンネル織職も小麦が自分のリンネルと交換されたことなどは知らないのである。Bの商品がAの商品に替わるのであるが、しかしAとBとが互いに彼らの商品を交換するのではない。実際には、AとBとが彼らどうしのあいだで互いに買い合うことも起こりうるが、しかし、このような特殊な関係はけっして商品流通の一般的な諸関係によって制約されているのではない。
@商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って人間労働の物質代謝を発展させるのが見られる。他方では、当事者たちによっては制御されない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。織職がリンネルを売ることができるのは、農民がすでに小麦を売っている<Gに転換している>からこそであり、酒好きが聖書を売ることができるのは、織職がリンネルをすでに売っているからこそであり、ウィスキー屋が蒸留酒を売ることができるのは、別の人が永遠の命の水<酒>をすでに売っているからこそである、等々。
それだから、流通過程はまた、直接的生産物交換のように使用価値の場所変換または持ち手変換によって消えてしまうものでもない。貨幣は、<別の商品に置き替えられることで>最後には一つの商品の変態列から脱落するからといって、それで消えてしまうのではない。それは、いつでも、商品があけた流通場所に沈殿する。たとえばリンネルの総変態、リンネル─貨幣─聖書では、まずリンネルが<小麦生産農民がそれを消費するために買うことによって>流通から脱落し、貨幣が<リンネル織職の手の中という>その場所を占め、次には聖書が<リンネルを貨幣に転換したリンネル織職によってそれを消費するために買われることで>流通から脱落し、貨幣がその場所<聖書所持者の手の中>を占める。商品による商品の取り換えは、同時に第三の手に貨幣商品をとまらせる。流通は絶えず貨幣を発汗している。」(全初版、P148)

商品の価格は、その生産者(人)がもっているものでもなければ、その生産者が自分の労働時間や彼の恣意によって勝手に決め得るものでもありません(口をもたない商品に替わって、その生産者が値札をつけるといった手助けをすることはあっても)。価格は、実際に“物”としての商品がもっているものだということが重要でしょう。
価格は、観念のうえで“すでに”商品がもっている金としての大きさ(全商品にとっての価値の物質的存在としての)のことです。というのは、商品の価格として表示されているものは、一般的等価物である金で表示された、その商品に含まれている無差別な人間労働としての労働、すなわち価値だからです。だからこそ、商品の価格は恣意的なものではなくて、その生産のためにすでに支出された社会的必要労働の大きさの表示として現実的なものであり、また商品はそうしたものとしてすでに生まれた時から関連しあっていることを、共通な価格をもっているということで表現しているのです。
他方、商品は、直接には使用価値としての現物形態しかもっていません。だから自らを価格としてまず表現し、その価格が実現され一般的等価物である金に置き換わることで、他の商品と交換可能な形態を得ます。それは、生産物を単なる使用価値としてではなくて、同時に無差別な人間労働の対象化として相互に関係させることで社会の物質代謝をしなければならない社会において、私的な生産物がもたねばならない必然的な方式なのです。

2018年3月21日