会報(たより)

読む会だより

「読む会だより」8月用

「読む会」だより(18年8月用) 文責IZ

(7月の報告)
7月の「読む会」は15日に行われました。
(前回の報告)の部分では、最後から2番目の段落(「価値の形態Gを媒介にした……」)の最後に「商品が運動しているように“現われる”」とあるが、“見える”ということでよいのではないか、とくに違いがあるのか、という質問が出ました。
『資本論』での該当する個所(全集版では、P151~152)の最後が「それゆえ、……逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ“現われる”のである」となっていることもあってそう書いています。単なる外観ではなくて現実的な内容を伴う場合に、“見える”と区別して“現われる”と述べられるようだが、ここでは特に区別しなくてもよいのではないかとチューターは答えました。

関連してチューターは、この段落では、貨幣が商品の価格を次々と実現することで、その持ち手を変えながら通流するから、商品の形態転換が貨幣によって行われているように見えると説明しているが、説明が“方向違い”かもしれないので次回考えて来たいと述べました。
チューターはそこで、なにか商品の価格を実現する運動の“結果”が貨幣の運動であるかに書いていますが、そうではなくて、それもまた一つの外観にすぎないということだと思います。商品の観念的な価値(価格)の実現が、他方での貨幣の観念的な使用価値の実現と結びついていること、あるいは商品の形態運動(転換)ということについての、チューターの一面的な理解があったように思います。
詳しくは別記の参考資料(久留間鮫造、『貨幣論』後篇、「マルクスの価値尺度論」)を参考にして頂きたいのですが、久留間は宇野弘蔵の「商品は自ら運動しうるわけではない」という主張を批判して、「商品が、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を展開すべきものとして措定されているのだ、ということの認識が肝要だ」という見出しをつけています。チューターが説明するには荷が重いのですが、要約すると次のようなことだと思います。
商品に内在している使用価値と価値との対立──すなわち私的で特殊な労働が、社会的効力をもつためには、その直接の対立物である抽象的一般的労働として表わされなければならないという矛盾──は、商品自身が商品と貨幣とに二重化することによって、商品と貨幣との外的対立として表示されることになる。それは言いかえれば、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を、商品自身が展開するような存在を与えられる(措定される)ということである。
なぜなら商品が商品と貨幣とに二重化されると、それぞれが商品としては共に使用価値であるとともに価値であるにもかかわらず、その役割が両極化される。つまり商品は実在的には使用価値であり、その価値存在はただ観念的に価格において現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在的な価値姿態としてそれに対立する金に、関係させる。つまり、使用価値と価値との矛盾が内包されたままでは商品は相互に関連することはできないが、商品が二重化され、商品と貨幣との両極として区別され対立するものとして生みだされることになると、商品は相互に共通な価格をもつものとして関連し運動しうるものになる。逆に、金という素材は、ただ価値の物質化として、貨幣として意味を持つだけである。それゆえに貨幣は実在的には価値である。その使用価値は、もはや、ただ観念的に相対的価値諸表現の列のなかに現われるにすぎなくなる。
このように商品の二重化によって、実在的には使用価値でありながらも観念的には価値として貨幣に関連するものとされる商品極にあっては、それはその価格を実現することによって貨幣に転換されるべきもの(W─Gの運動をするもの)としてのポテンシャルをもつ。他方で実在的には価値でありながらも観念的に諸商品と関連するものとされる貨幣極にあっては、それはその観念的な使用価値を実現して諸商品に転換されるべきもの(G─Wの運動をするもの)としてのポテンシャルをもつ。そして両極がこのような反対のポテンシャルをもつからこそ、両極化された使用価値と価値との矛盾は、W─G─Wという形態運動(転換)を展開することになる。
おおよそこのようなことだと思います。チューターは、商品の側の観念的な価格の実現という面だけを見て、それが貨幣の側の観念的な使用価値の実現と対をなしているという面を見落としている点で、前回の説明は一面的だったと思います。「商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる」(P152)のは、商品が「その流通の前半で貨幣と場所を取り替え」、「それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる」ことで流通の場からは目に見えなくなるからであり、また商品に代わって「その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占め」、「流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける」からであり、「それとともに、<流通における>運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる」からにほかなりません。
貨幣は購買手段として「商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと」移るという同じ運動をくりかえします。しかしこのような貨幣の“購買手段”としての機能は、W─G─W’という商品の形態転換の運動が、前半のW─Gにおいても後半のG─Wにおいても「貨幣とそのつど別な商品との場所変換を含んでいる」からであって、貨幣の購買機能が商品の形態転換をひき起こすというわけではないのです。

前回の(説明)の部分では、柄谷氏のコラムについての評価について再度いろいろと意見が出されました。「交換を強いるのは物神の力」という氏の主張に反論した林氏の文章をコピーで出しておきます。
もう一つ議論となった、氏の労働者商品の評価については、同じく林氏による反論を『商品の意味するもの』の中から2か所あげておきます。

「労働力も商品である以上、その価値規定は一般の商品と同じである──つまり、その再生産に必要な社会的労働こそが、労働力商品の価値となる。
しかし労働力の“再生産”に必要なものは、直接には社会的労働ではなくて、労働者が消費する生活資料にほかならない。資本主義社会ではこれらの消費手段は商品である。従って、労働力の価値は、一定額の生活手段の価値に還元され、かくして(こうしていわば回り道をして)労働力の価値規定もなされるのである。
見られるように、労働力の価値規定は、一般商品の価値規定──価値法則、と呼んでもいい──を前提にし、それを“媒介”にして間接的になされるのであって、一般商品のように“直接に”なされるのではない。これは、労働力が人間の生産的活動の諸結果なのではなく、むしろ反対にその“主体”、前提なのだから、当然といえば当然である。(もちろんある意味では、労働力も人間の生産的活動の結果、その成果ともいえるのだが)。
周知のように、宇野学派は労働力商品のこの特殊性を理解していない。むしろ彼らはあべこべに、労働力商品の価値規定が一般商品の価値規定の前提であるかの愚論──まず労働力商品の価値規定がなされ、それが一般商品の価値規定として“波及”していく等々──を“真正科学”の名で語っている。詳しくは展開できないが、ここでは、こうした見解がスミス的な、マルサス的たわごとである、とだけ言っておく(宇野はこの点では、自分の見解はスミスと同じだと公言してはばからない)。
労働力商品の価値規定が、労働者の消費する生活手段の価値規定として媒介的であるということは、当然、この価値規定に、一つの量的な特殊性を──質的な特殊性のほかに──つけ加える。……」(著作集1、P125)

「宇野派は労働力商品についてもおしゃべりをくりかえし、「本来商品でない労働力までもが商品化するのが資本主義の根本矛盾だと言ってきた。
労働力商品が「本来商品ではない」というなら、宇野派は事実上、「本来の商品」を、つまり“労働価値説”によって本質的に規定される一般商品を前提しているわけだ。彼らは、一般商品と労働力商品とを区別した──これは大変にすばらしいことである。
しかし他方、宇野派はずっと、一定の価格をもつものが即商品である、と言ってきた。彼らは、ヴェーム・バヴェルクらとともにマルクスの労働価値説を攻撃して、商品の価値規定を「最初から」やるから、他の商品の規定ができなくなる。単に価格(すべての商品に共通なある量!)を持つものを商品として、つまり「流通形態」として規定しておけば、マルクスもバヴェルクらに批判されないですんだろうに、とおっしゃっている。
もし一般商品と労働力商品(さらには土地などの“商品”)を区別しようとするなら、労働価値説に立脚する以外ないことは明らかである。
宇野派は、一方で、価格をもつものはすべて商品だ、とおっしゃる。他方では、一般商品と労働力商品を区別せよとおっしゃる。これは偉大なる矛盾ではないでしょうか!
……宇野にとってこの言い方がペテンであり自己矛盾そのものであるのは今見たとおりだが、そのことはさておくにしても、ヨリ本質的に反省してみれば、一般商品もまた「本来商品ではない」のだ(それとも宇野学派は、生産物は「本来商品だ」とでも妄想しているのか?)
人間の労働生産物は私的所有と分業の社会では“商品”となり、“商品”としてあらわれる。この社会では人々は直接に社会的存在でなく私的生産者であり、孤立した存在である。こうした人々の社会的な結びつきは、ただ自らの私的な生産物を“商品”として交換することによってのみ可能となる。人々は直接に社会的労働を“交換”しえないので、生産物を交換することで、媒介的にそれをなす。これがかの有名な“交換価値”(市場経済!)であり、その秘密なのだ。
資本主義が克服されれば、労働生産物が「本来商品でない」ことは白日の下にさらけ出されるだろう。……」(同、P126)

今回は、いくつか資料もあり、夏バテということで(説明)の部分にははいりません。了承願います。
(資料を別添します)

資料2 久留間鮫造『貨幣論』(大月)、後篇「マルクスの価値尺度論」より

13){〈商品は自ら運動しうるわけではない〉という点からするマルクス批判について}

{宇野氏は、商品は自ら運動しうるわけではない、貨幣によって運動させられるのだ、と言う}
B それでは次の問題に移ります。宇野教授は、58頁でこう言っています。
〈マルクスは、「交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化を、すなわち諸商品がそれらの内在的な使用価値と価値との対立をそこで表示する外的対立を生ぜしめる」(岩波文庫1、200頁)と言い、「諸商品のかかる対立的な諸【P265】形態は、諸商品の交換過程の現実的運動形態である」(同上)とも言っているが、これはなお商品の側からの規定にすぎない。「諸商品の現実的運動諸形態」といっても、商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである。商品の、商品と貨幣とへの二重化は、商品の側からは観念的なる貨幣形態を与えうるだけであって、この対立もそれだけでは現実的に解決される運動を展開するわけではない。〉
この、「商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである」、という主張についてはどうお考えでしょうか?

{「諸商品の対立的な諸形態」についてのマルクスの叙述は「商品の側からの規定にすぎない」のか?}
久留間 その前にまず、「マルクスは……『諸商品のかかる対立的な諸形態は、諸商品の交換過程の現実的運動形態である』とも言っているが、これはなお商品の側からの規定にすぎない」とある、これが問題です。どういうつもりで、それを「商品の側からの規定にすぎない」と言うのか、ぼくにはちょっと分かりかねるのです。マルクスが「諸商品の“かかる”対立的諸形態」と言っているのは、そのすぐ前に彼が述べていることを受けていることは言うまでもない。では、どういうことを彼はそのすぐ前に述べているかというと、こういうことを言っているのです。

{マルクスは明白に「貨幣の側からの規定」をも与えている}
交換過程は貨幣を生み出すことによって、「商品と貨幣とへの商品の二重化」を生ぜしめる。そうすると、商品に内在する使用価値と価値との対立が、商品と貨幣との外的な対立として現れることになる。ところでこの場合、商品および貨幣は、もはや商品でなくなるのではなく、やはり商品であり、使用価値と価値との統一なのだが、この区【P266】別の統一は、商品および貨幣の両極に逆に現われ、それによって同時に、商品と貨幣との相互関係を表わすことになる。大体こういう意味のことを述べた後に、マルクスは、この最後の点<商品と貨幣との相互関係>を具体的に説明して、次のように言っているのです。
〈商品は実在的には使用価値であり、その価値存在はただ観念的に価格において現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在的な価値姿態としての対立する金に関係させる。逆に、金材料は、<それが独自に持つ使用価値としてではなく>ただ価値の物質化として、貨幣として、意味をもつだけである。それゆえ、貨幣は実在的には交換価値である。その<貨幣としての>使用価値は、もはや、ただ観念的に相対的価値諸表現の列のなかに現われるにすぎない。(『資本論』Ⅰ、119頁、「方法Ⅱ」、〔305〕〉
ここでマルクスは、一見明白なように、「商品の側からの規定」だけではなくそれに対応するものとしての貨幣の側からの規定をも与えているのです。「その逆に、金材料は、云々」という後半の叙述がそれです。そしてそれを受けて、「諸商品のかかる対立的な諸形態は、諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、と言っているのです。(……省略……)
ところが宇野君はこれを読んで、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」と言う。一体どういう読み方をするとそういう解釈ができるのか、ぼくにはどうも不思議でたまらないのです。

【P267】{「諸商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」ということの意味}
念のために、もう一度くり返して説明すると、「諸商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、とマルクスが言っているのは、今も言ったように、商品に内在する使用価値と価値との対立が商品と貨幣との対立として外化することになると、商品の方は、実在的には使用価値であって、それの価値は価格の形態で、一定量の金として表示されることになるが、この表示はなお観念的にすぎない。すなわち、商品は価値としては一定量の金であるといっても、商品が本来の使用価値の形態にあるかぎりは、それはまだ現実の金にはなっていない。だから、価格の形態において、商品は、価値として現実に作用するためには、本来の使用価値の形態を譲渡することによって現実の金にならねばならぬものとして──すなわちW─Gの運動を展開すべきものとして──措定されていることになる。@
その反対に金の方は、価値の体化物すなわち貨幣としてのみ意味をもっている。だからそれは、実在的に交換価値、すなわちいかなる他商品とも交換可能なものである<久留間は交換価値についてこう言う>。と同時に、そういうもの<すなわち交換価値ないし貨幣>としての金の使用価値は物価表を逆に読む形──いわゆる「貨幣商品の特殊的相対的価値形態」──で表示されることになる。だがこの表示はなお観念的にすぎない。だからこの形態において、貨幣としての金の使用価値はこれから実現されねばならぬものとして──すなわちG─Wの運動を展開すべきものとして──措定されていることになる。@
このようにして商品は、商品と貨幣とに二重化し、それに内在する使用価値と価値との対立が商品と貨幣との外的対立として表示されるようになると、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を、展開すべきものとして措定されることになり<注意!!>、商品の交換過程は、これらの対立的な形態を通して運動することになる。マルクスが「諸【P268】商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、と言っているのは、このことを言っているのです。

{宇野氏は、商品から独立した貨幣の規定が別にあるとでも考えているのだろうか?}
ところが、宇野君はこれをつかまえて、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」と言うのだが、なぜこれが「商品の側からの規定にすぎない」のか、ぼくにはどうもそのわけが分からない。もちろん、貨幣にしても商品の価値の自立化したものであり、商品の転化した形態にほかならない。だから、今言ったような貨幣の側からの規定にしても、やはり商品の規定にほかならないということ、ひいてはまた、G─Wにしても商品自身の運動──商品の第二の姿態変換──にほかならないということは、確かな事実です。だがもし、だからそれは「なお商品の側からの規定にすぎない」と言うのだとすれば、それはとりもなおさず、上に述べた以外の・もともと商品から独立した・貨幣の規定が別にあるものと考え、それをマルクスは説いていないといって批難していることになる。しかし宇野君にしても、まさかそういう途方もないことを考えているものとは思えない。とすると、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」いう宇野君の批難は、「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」というマルクスの言葉の意味を全然理解していないことから来ているものと考えるほかはないことになる。

{「商品は自ら運動しうるわけではない」というのは無理解の上に安住した放言だ}
なお宇野君は上に続いて、「『諸商品の〔交換過程の〕現実的運動〔諸〕形態』“といっても”、商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである」、とも言っている。そしてこれが、さきほどB君が問【P269】題にしようとした点なのですが、これもまたぼくには、同じ無理解の上に安住した放言としか思えない。

{商品が、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を展開すべきものとして措定されているのだ、ということの理解が肝要だ}
なるほど、貨幣の側からのG─W(購買)なしには商品のW─Gの運動(販売)は行われないということは、確かに事実に相違ないが、しかし同時にまた、商品の側からのW─Gなしには貨幣のG─Wの運動は行なわれえない、ということも事実です。両者は相互に条件づけあう関係にあるので、一方だけが他方の条件をなすわけではないのです。だがいずれにしても、これはもともと、運動が行なわれるためのいわば外的な条件の問題にすぎない。われわれは、運動を問題にする場合、そういう外的条件を問題にする前に、運動そのものがなにによって必然とするかを問題にする必要がある。一般に、あるものが運動するのは、それが矛盾をもっていて、そのままの状態に留まりえないからです。さきにぼくが引用した──宇野君の引用では省略されていてぼくが補足した──個所で、マルクスはまさにこの観点から、商品が商品の形態にあってはW─Gの運動を・反対に貨幣の形態にあってはG─Wの運動を・展開すべきものとして措定されているところの、その形態について述べているのです。そしてそれを受けて、「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」と言っているのです。
なお、念のために注意しておくが、ここ<諸商品のかかる対立的諸形態は……の部分>でマルクスが言っていることは、商品変態論の冒頭で彼が言っていることに対応しているのです。そこで彼はこういうふうに言っている。「すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾し互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を取り除きはしないが、これらの矛盾が運動しうる形態をつくりだす。これは、一般に現実的な矛盾が解決さ【P270】れる方法である」(『資本論』Ⅰ、118頁、「方法Ⅱ」〔305〕)。──「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」と言うとき、マルクスは、この冒頭<第2節第4パラ>にいわゆる「これらの矛盾が運動しうる形態」の実際のあり方について述べているのです。

{究極的には、交換過程論の意義を理解しないことから、見当はずれの批難が生じている}
ぼくは、今日最初に話したさいに、マルクスの商品変態論に対する宇野君の異論は、究極的には、マルクスの交換過程論の意義を理解していないことから来ているということ、そのために、交換過程論につながる商品変態論の重要な意義を理解しえないことになって、検討はずれの批難を加えることになったのだということを述べたのですが、今の、「『諸商品の〔交換過程の〕現実的〔諸〕形態』といっても、商品は自ら運動しうるわけではない」というのも、まさにその一例にほかならないと思うのです。
<以上 『参考資料』の項目に全文を掲載しています>

2018年8月20日

「読む会」だより7月用

「読む会」だより(18年7月用) 文責IZ

(6月の報告)
6月の「読む会」は17日に行われました。
(前回の報告)の部分での「価格が“観念的なもの”である」という点には、あまり意見が出ませんでした。チューターにもこだわりがあるせいか、説明が長くなってむしろ分かりづらかったのではないかと反省しています。
チューターの言いたかったことは、価格とは、第一に、“商品の”価値表現の方法であり、それは「異種の諸商品の等価表現」ないし異種の使用価値(物質的属性)の“等置”として行われています。だから、商品の価格は物質的なものではなくて“観念的なもの”だということです。商品が価格をもつという現象は、現実の社会現象であって、商品生産者等の観念が作り上げるといったものではありません。
そして価格とは第二に、発展した価値表現として、すべての商品が一般的等価物としての金のみを右辺に置く形で表現された価値の表現であるということです。この場合、すべての商品にとって右辺の金は、金という物質としてではなくて、社会的に同等な、抽象的人間労働の結晶としてのみ取り扱われます。このことによって、すべての商品は、共通にその価値の大きさを金の大きさとして表現できることになります。価格は、商品の価値を抽象的人間労働の結晶と見なされた金の大きさで示すものです。商品の価値を、金の一定量として表示する商品の価格は、その商品自身に固有な物質的属性とは区別された商品に共通な社会的属性の表現(抽象的人間労働の結晶)として“抽象的なもの”なのです。
商品交換が発展して一般的等価物が成立するようになると、諸商品の価値はそれと交換可能な一般的等価物の一定量として、その使用価値と分離されることになりますが、物々交換においては、生産物の価値はその使用価値と完全には分離されていないのです。

また、商品流通が貨幣運動の結果のように見えるという点についても、魔術と言えるかといった形で問題にしてしまいよくなかったと反省しています。
重要な事柄は、久留間の説明図で言えば、リンネル生産者の手の中にあったGが聖書生産者の手へと右下方向に移動したのは、リンネル生産者が聖書を買った(G─W3)結果であり、リンネルW2の形態転換として見れば、聖書W3がリンネルを売って得たGと置き換わって右上に移動した結果です。このことは社会的な素材転換W2─W3が行われたということであり、このなかでGは、すべての商品にとっての価値の形態として、特定の使用価値の姿をもつリンネルW2が別の姿をもつ聖書W3へと置き換わるのを媒介したということです。
GがリンネルW2が聖書W3に置き換わるのを媒介しうるのは、ただリンネル生産者がリンネルを小麦生産者に売っていた(W2─G)からであり、また聖書生産者がすでに聖書を生産していたからにほかなりません。しかしながら、個々の商品生産者にとっては、リンネルW2が欲求どおりに聖書W3に置き換わるのは、Gのもつ“購買力”で聖書W3を買ったからのように見えます。しかしそれは実際には、すでにリンネルが販売されて価値の形態Gをとっているからにすぎません。金Gはすべての商品によって価値の形態であると認められているからこそ、商品は販売されてGの姿に置き換わっているならば任意の別の商品に置き換わる(購買する)ことができるのです。
このように商品の使用価値の形態と価値の形態との形態転換、W─GまたはG─Wは、いつも貨幣の持ち手(位置)の転換すなわち貨幣通流として現れます。しかし、リンネルW2─G─聖書W3という一商品リンネルの形態転換の過程はそこで完結するのに対して、それを媒介した貨幣の持ち手の転換である貨幣通流のほうは、そこで完結するのではありません。新たな貨幣所有者となった聖書生産者の手の中で、聖書が姿を変えたGは聖書が火酒に転換されるためにこそ存在するのです。商品流通の絶え間ない更新は、消費された使用価値に替わる新しい使用価値が、商品としてつねに生産されなければならないということでしかありませんが、商品流通を媒介する貨幣はいつまでも流通のなかにとどまり続けなければならないのです。
そこで『経済学批判』での言葉を借りれば、「商品はつねに貨幣とは反対方向に1歩だけ進むにすぎないのに対して、貨幣のほうはいつも商品といれかわりに第2歩を進めて、商品がAといった場所でBというためであるが、そうなると、全運動は貨幣から出発するように見えるのである。だがそれにもかかわらず、販売のさいに貨幣をその位置からひきよせ、したがってまた貨幣を、ちょうど購買のさいに商品が貨幣によって流通させられるのと同じように、流通させるのは商品である。さらにまた貨幣は、つねに購買手段という同じ関連で商品にあいたいするのであるが、購買手段としては、ただ商品の価格を実現することによって、商品を運動させるにすぎないから、流通の全運動は、……貨幣が商品の価格を実現することによって、商品と位置をかえるように見える。……貨幣は、商品の価格を実現することによって商品を流通させているように見える。……」(岩波文庫版、P126)
価値の形態Gを媒介にした商品の形態転換W─G─Wは、商品流通のなかでは、あたかも貨幣が商品の価格を次々と実現し、その持ち手をかえながら通流していくことによって、商品が運動しているように現れるのです。

(説明)の部分にたいしてもあまり質問・意見は出ませんでしたが、朝日新聞のコラム(柄谷行人、カール・マルクス)についていくつか意見が出されました。持参してくださった参加者は「資本主義経済は宗教的な世界だ」という部分に共感したということでしたが、資本主義の欠陥は労働力商品を増やすことも減らすこともできないことにある等々というのはどうかという意見などが出ました。「交換を強いるのは物神の力」だとタイトルにありますが、むしろ逆で、生産物の私的な交換から物神の力が生まれる、とマルクスは言っているように思われます。

今回から、c「鋳貨 価値章標」の項目に入ります。短いものですが、現代の“通貨”である中央銀行券の理解などのためにも重要なところです。

(説明)第3章 第2節 c「鋳貨 価値章標」の1回目

(1)商品の価値としての表示が瞬間的な契機でしかない場合、すなわち金の機能が、商品流通を媒介するための鋳貨または流通手段の機能に解消される場合には、金は無価値な章標によって置き換えられ、紙幣という機能的な存在を受け取ることができる。

c項の冒頭でマルクスはこう語ります。
・「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。」(全集版、P163)
少しとっつきにくい文章でしょうから、『経済学批判』での説明を紹介しておきます。
・「金は、流通手段として機能するさいには、独特な身なりをとり、鋳貨となる。金はその通流を技術上の障碍によってさまたげられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。貨幣の計算名であるポンド、シリング等々で表現された金の重量部分を含んでいることをその刻印と形状で示す金片、これが鋳貨である。」(岩波文庫版、P136)
要するに、鋳貨とは、貨幣が金地金としてではなく、何円、何ドルという貨幣名をもつ金貨として登場することで、価格が一定の呼称で表わされた金の重量で表現されるということです。このこと自体は流通のためのいわば技術上の必要から生まれることであって、理解はそう難しいものではないと思われます(第1節で見たように、貨幣がもつ、価値尺度機能と価格の度量標準という二つの機能を区別できれば、ですが)。
ですから、「地金の状態にある金と、鋳貨としての金とのちがいは、金の鋳貨名と金の重量名との違いにすぎない」(『経済学批判』、同上)のであり、「金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができる」(全集版、P163)のです。

ところで流通過程には、鋳貨をその象徴に転化させるという自然発生的な傾向があるとマルクスは言います。
・「流通しているうちに、金鋳貨は、あるものはより多く、あるものはより少なく磨滅する。金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが、その分離過程を開始する。同名の金鋳貨でも、重量が違うために、価値の違うものになる。流通手段としての金は価格の度量標準としての金から離れ、したがってまた、それによって価格を実現される諸商品の現実の等価物ではなくなる。18世紀までの中世および近代の鋳貨史は、このような混乱の歴史をなしている。鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、金属喪失が一個の金貨を通用不能にし廃貨とするその程度についての最も近代的な法律によっても承認されているところである。」
例えば、かつての1円の鋳貨なら金2分(ふん)=0.75グラムの重量をもたねばならないのに、実際上0.7グラムしかなくなってしまうという事情です。
こうした事情は銀貨や銅貨といった補助鋳貨においては一層顕著ですし、補助通貨自体が
・「貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料からなっている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる」(全集版、P164)のです。

このようにして
・「それら<補助鋳貨……レポータ>の鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。すなわち、およそ価値というものにはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に変わって鋳貨として<すなわち紙幣として……レポータ>機能することができる。」(同、P165)ことになります。
この場合、
・「流通部面が<商品の価格総額を実現するための流通手段=鋳貨として……レポータ>吸収しうる金量は、たしかに、ある平均水準の上下にたえず動揺している。とはいえ、与えられた一国における流通手段の量は、経験的に確認される一定の最低量より下にはけっして下がらない。……それだからこそ、この最小量は紙製の象徴によって置き換えることができるのである。」(同、167)

しかしそれにしても、なぜ金属貨幣流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能なのでしょうか。マルクスは「なぜ金はそれ自身のたんなる無価値な章標によって代理されることができるのか?」と自問し、こう答えています。
・「すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりのことである。……金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通している間だけのことである。……この最小量の金は、<商品価格を実現するために……レポータ>つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。@
だから、その運動は、ただ商品転態W─G─Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのだる。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。@
それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけていく過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の<流通手段としての……レポータ>機能的定在が貨幣の<金という……レポータ>物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。……@
ただこの流通部面のなかで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである。」(同、168)

こうして金属貨幣の流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能になるのですが、価値章標による金属貨幣の代理は、資本主義の現実をいっそう複雑で理解困難なものにしていくことになります。

2018年7月17日