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社会的総生産について、目からウロコの説明です

【「海つばめ」14年10月19日号より】
社会主義における「分配」はいかになされるか
消費手段の「価値規定」問題

1) 我々の前に提起された理論問題

社会主義における分配の問題と関連して、消費手段の「価値規定」をいかにして行うかというテーマがこの2,3年、我々にとって検討されるべき重要な理論問題、したがってまた議論が重ねられ、解決されなくてはならない課題として存在してきた。M会員は、それに先行する「(有用労働による)過去の労働の移転」問題がそもそもの出発点であった証言したが、林としてはその自覚は希薄だった。しかし反省してみるとM会員の言ったことが正しいかと思う(少なくとも、重大な関連を持つ“前哨戦”であった)、というのは、我々が解決──もちろん、理論的な解決に留まるのだが──を追求してきた「消費手段の価値規定」をいかに行うかというテーマは、「過去の労働の価値移転」という観念と──その止揚克服と──深く関係していることがいま確認されるからである。
そもそも社会主義における消費手段の「価値規定」──直接に労働時間(その生産に必要な社会的労働の長さ)で個々の消費手段の「価値」を表現し、規定する──という課題は、20数年前、つまり四半世紀も昔、“市場主義”社会主義といったブルジョア概念が浸透し、はびこる時代的環境の中で、当時、我々が──少し大げさに言えば、世界中で我々のみが──、彼らに反対し、「それは可能であるし、また社会主義が社会主義であるためには、それは実現されなくてはならない」と主張したことから始まったのである。
当時は、スターリン主義的(つまりえせの)“共産主義”運動の疾風怒濤の時代、ソ連邦の解体や東欧革命やソ連共産党権力の崩壊などの世界史的な大事件が続いた時代であり、そんな大きな歴史の転換点の中で、「社会主義」を実現した国家と自他共に(?)信じ込み、喧伝もされていたソ連などを始め、世界中の多くのスターリン主義者たち、つまり共産党の連中──“スターリニズム”を少しも克服できなくて“ブルジョア”に転落した連中──が、社会主義の分配もまた「価値規定」によってなされるのではない、そんなことは不可能だ、「市場経済」の働きによって、つまりスミスの言う「神の手」によって、そうした形でのみ可能である、「市場経済」のままに任せるべきだ、それが一番うまくやってくれる、などと一斉に言いはやし、「市場主義的社会主義」といった妄想や、資本主義による社会主義の救済といったばか話に夢中になっていたのである。
我々はそんなスターリン主義者たちに反発し、それができないというのは、彼らがブルジョアに転落したからだと結論したが、しかしその時は──そしてその後、四半世紀近くもの長い間ずっと──、実際に、社会主義における消費手段の「価値規定」について、従って個々の消費手段がいかに分配されるかの“法則”について論理的に明らかにし、語ることができなかった。
しかし我々は一昨年の労働者セミナーにおいて、いわば真っ正面からこの問題を提起し、一応の解決に到達したのだが、しかし資本価値(「過去の労働」)の「移転」という問題(有用労働による)を、従って「資本価値」の問題を解決することができなかった。つまりその問題をいわば「棚上げする」という形で、とりあえず結論を出したということである。
しかし我々は、今年9月の第11回大会の議論や、その議論の総括も踏まえて、この問題について明確な結論を出し、解決すべきときが来ていると考える。

2)ロビンソン個人の場合と発達した分業社会の場合

もちろん孤立したロビンソン・クルーソーの場合と、社会主義社会の場合の「分配」法則が本質的には一致するとしても、決定的な違いがあり、その区別性もまた明確に明らかにされなくてはならない。
人々は資本主義的生産とは極度に発達した分業社会であることを忘れるのであり、あれこれの生産手段といい、消費手段といい、徹底した社会的な分業によってのみ生産され、また「分配」されていることを忘れるのである。そもそもマルクスの再生産表式(単純再生産)の6000の労働(者)が生産手段を生産し、3000の労働(者)が消費手段の生産に従事すること自体、最も根源的で決定的な社会的分業である。
そして分業とは社会的な分業であって、例えば個人的な分業──というより自らの労働の分割──といったことと本質的に別な側面があるということを忘れている、あるいは見ないでいる。
ロビンソンのように孤立した個人の場合については、マルクスが『資本論』の冒頭で論じている。そこでマルクスは、問題は単に彼個人の労働の分割、配分にすぎないとして次のように論じている。
「彼とてもいろいろな欲望を満足させなければならないのであり、したがって道具を作り、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろの種類の有用労働をしなければならない。……必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を正確に自分のいろいろな機能の間に配分するようになる。彼の全活動のうちでどれがより大きい範囲を占め、どれが小さい範囲を占めるかは、目指す有効効果の達成のために克服しなければならない困難の大きさによって定まる。経験が彼にそれを教える」(全集Ⅰa、102頁、原91頁)
ロビンソンと資本主義的社会(一般に、発達した共同体社会)の違いは、ロビンソンの場合、彼個人の必要労働の分割として現われることが、発達した社会では多くの労働者の社会的な分業として現われ、そうした形で社会全体の生産物の生産に必要な労働の分割が、配分がなされる──そしてそれに対応して、消費手段の「分配」も可能となる、といってもここでは、資本主義と社会主義の場合、一つの根本的な区別が生じるのだが──ということだけである。
ロビンソンの場合で言うと、例えば彼は生きていくために、毎日6時間は魚を捕るための道具を作り(一般的に言うなら、生産手段の生産である)、またさらに3時間は川や海に出て漁猟に従事し、かくして生活し、生きていくために10匹の魚を取った(消費手段の生産である)としよう。彼の一日の労働量は9時間である。
他方、同じ環境と条件のもとに、9人の共同体社会があり、毎日──つまり9時間──、6人が魚を取るための道具を作ることに専念し、他方、残りの3人も9時間、魚を捕ることに専念し、こうした社会的な分業のもとに90匹の魚を捕ったとしよう。
結果として、二つの場合とも、1人あたりの魚は10匹であり、人々が生活し、生きていくために支出した労働量も同じである。違いは総労働量が1人によって担われたか、9人によって分割され、分業によって担われたかということだけである。9人の共同体の場合は、6人は道具しか作らず、魚を捕ることには直接にはなんら関係がなかったにもかかわらず、それぞれ10匹ずつの魚に対する分配を受けることができるが、それは彼の道具を作る労働が魚を捕る労働と「質的に」同一であり、従って総労働の中での比重に従って魚の分配を受けることができるからである。彼の道具を作る労働の1/3は、労働時間で評価するなら事実上魚を捕る労働であるが、他方、魚を捕る3人の労働の2/3は事実上道具を作るための労働である。「価値規定による分配」とは、基本的にこうした内容によって理解されなくてはならないのである。
つまり我々が、社会主義社会における(搾取が廃絶され、労働の解放が勝ち取られた後の)、消費手段(=消費財)の分配のもととなる生産物(ここでは消費手段)の「価値規定」の概念とは、簡単に言えば次のようなことにすぎない。
共同体の9人の構成員が、9労働日の総労働によって獲得された90匹の魚を、みなそれぞれ──生産手段である道具を作った人たちも、消費手段である魚取りに従事した人たちも──平等に1人10匹ずつ分けるということは誰の目にも単純で、当然のこととして現われる。それはロビンソンが1人で道具をまず作り、それから魚取りに取りかかって10匹の魚を手にしたのと同じことにすぎないのだが、「過去の労働」とか、その「移転」とかいったドグマに取り付かれた人々(つまりブルジョア諸君たち)には、この単純な真実に目が行かないのである。
この共同体では、3人が90匹の魚を捕ったのだが、1人当たり30匹ではなく10匹しか家庭に持ち帰ることしかしないのだが、それは90匹の中には、道具を作った人々の労働も含まれているからであり、従って残りの6人もまた10匹ずつ受け取る当然の資格があるからである、というのは6人もまた、3人と同じ質の抽象的な人間労働を、社会的な分業によって担ったからである。3人の労働の2/3は、実質的に(「価値規定」としては)道具を作る労働であり、またその1/3だけが魚を捕る労働であったのは、6人の労働の労働の2/3が道具を作る労働であり、1/3が実質的に(価値規定としては)魚を捕る労働であったのと同様である。

3)発達した資本主義の場合──マルクスの再生産表式
(ここでは“共同体”として抽象するという修正を行なっている。図表参照)

総生産は9000であり、6000が生産手段、3000が消費手段として生産されている。しかしこれまでは、一見して、3000が「生きた労働」の価値であり、残りが「過去の労働」の価値、その移転してきた価値であるかに言われ、またそう見なされてきた(スターリン主義者はそんな風に言いはやしてきた)。
しかし6000の労働が生産手段を生産したのであって、残りの3000の労働は消費手段を生産したのであり、決まり文句として言われている「生きた労働」とは、消費手段の生産に配分された労働ということでしかないのであり、また「死んだ労働」とは、生産手段の生産に充用された労働ということでしかない。とするなら、ここでは「生きた労働」とか、「死んだ労働」といった観念が意味を失うのは明らかである。消費手段を生産する労働が「生きた労働」であり、生産手段を生産する労働が「死んだ労働」、過去の労働である、などと言えるはずもないからである。
ただ個々のブルジョアの目には、生産手段のための労働は「過去の労働」として、つまり資本価値(搾取の前提としての費用価値)として現象するのだが、俗流経済学はそんなブルジョアたちの意識を反映し“理論化”するだけである。
生産手段として再生産された6000の(労働量の含まれる)生産物は、使用価値としては生産手段であるが、「価値」としては、4000の生産手段と2000の消費手段が再生産されたものである。
同様に、3000の消費手段もまた、使用価値としては全て消費手段であるが、「価値」としては消費手段は1000のみであり、残りの2000は生産手段である。
従ってブルジョア社会では生産手段のために支出された2000の価値(労働量)と、消費手段に支出された2000の価値が「交換」されなければならないのだが、社会主義ではただ3000の消費手段が9000の労働(者)に分配される、つまり「労働に応じて分配」されるだけである。
従って、社会の全体においては問題は簡単であり、生産手段を作ることに従事した6000を生産する労働者は3000の労働者の生産した消費手段の2/3を、つまり2000の労働分の分配を受ける資格を持つのであり、3000の消費手段を生産した労働者はその全部ではなく1/3を、つまり1000労働分を受けとる資格を有するだけである。
人はおうおう、一定の期間(年々)、支出された(“対象化”された)労働が9000ではなくて3000であると誤解するが、それは例の「生きた労働」の観念──スターリン主義者たちが言いはやす間違った観念──にとらわれているからである。しかし3000とは総労働の内の消費手段の生産のために支出された労働にすぎず、生産手段のための労働も加えれば総労働は3000ではなくて9000である。「生きた労働」の観念は、それを年々に支出される、現実の総労働と理解するなら、この言葉も意味を持ち得るが、消費手段に支出されたものと解する限り、不合理な観念にすぎない。
ここでついでに付け加えておけば、マルクスは『資本論』第2巻の再生産表式の理論においては、生産手段(資本)の「有用労働による価値移転」などといったことは、当然ではあるが全く問題にしていない(客観的に、問題になるはずもない)。
消費手段を生産する労働は3000であり、またそれを消費する労働(者)も3000であって、かくして「価値論」にうまく適合しているといった観念は、一見してまともであり、至極もっともに思われるので俗人の耳に入りやすいが、しかし社会はまた6000の生産手段の生産にも労働を支出している──せざるを得ない──のであって、実際には社会はこれらの生産手段も年々消費しているのであって(個人的消費ではなく、生産的消費であるが)、前記の間違った観念は、ただ生産手段の生産のための労働を無視し、忘却したところに存在し得るにすぎない(どこかで「スミスのドグマ」に通じる妄想であろう)。
現実には、社会は6000の生産手段を生産する労働と、3000の消費手段を生産する労働に、総労働を分割しているのであって、こうした“分業”の中で消費手段の配分もまた“合法則的に”貫徹しているのである。すなわち個々人について言うなら、各人はロビンソンと同様に、個人的労働を生産手段のために2/3を、消費手段のために1/3を支出している、つまりそんな風に自らの労働を分割しているということである。だからこそ、生産手段を生産する労働と、消費手段を生産する労働が“分業”の中で支出されるとき、生産手段および消費手段の交換もしくは配分が行なわれるし、行われなくてはならないのである(もちろん社会主義では「交換」というより、消費手段の「配分」もしくは「分配」が行なわれるというべきであろうが)。
生産手段を生産する労働者について言えば、その労働を「価値」から見れば、生産手段のために2/3であり、消費手段のために1/3であるし、また消費手段を生産する場合も同じである。だからこそ生産手段を生産する労働の1/3に相応する消費手段に権利を有するのであり、他方、消費手段を生産する労働者は自ら生産する消費手段に対して1/3しか権利を有しないのである。つまり9000の労働に対して、全ての生産者はその労働の1/3だけ、消費手段に対して権利を有するのであるが、ここでは全てが“価値法則”に適合しているのであって、それ以外は何もないと言っても決して言いすぎではない。
これが社会主義社会における「価値規定(消費手段を生産するに要した労働量)による」、消費手段の分配の基本的な内容であり、法則であるにすぎない。

4)全体の場合と、個々の消費手段の価値規定は別

我々の議論はここから始まったのだが、しかしそこに留まることはできなかった。というのは、それは全体としての消費手段の分配は簡単明瞭だとしても、個々の消費手段の場合はどうなのか、個々の消費手段の「価値規定」はいかになされるのか、という問題が簡単には解決されなかった、つまり理論的に説明できなかったからである。消費手段がただの一種類なら──我々の想定した9人の共同体のように、魚だけなら──答えは明瞭であった。しかし現代では消費手段は千差万別、何万、何十万もある、あるいは無限大と言えるほどに多量である。
こうした発展した社会では、個別の消費手段は個別的に規定されるしかないのである。というのは、消費手段の「価値規定」は、消費手段の生産のために必要な生産手段の「価値」(労働)と、直接に消費手段に費やされた労働の和以外ではないのだが、個々の消費手段の価値自体、その大きさは千差万別であり、また二つの契機の比率もまたみな違うだろうからである。
総生産について論じるなら、「価値規定」の問題にはどんな困難もない。しかし生産物の、従ってまた個々の消費手段の生産においては──もちろん生産手段の場合でも基本的に同じだが、我々は社会主義における分配法則の発見が課題であるから、消費手段について論じることにして──、二つのことが問題になる。
一つは、個々の消費手段の価値(生産に必要な労働量)の大小である。より大きな労働量の消費手段は小さい労働量の消費手段よりも大きな労働量によって「買われ」なくてはならない(分配されなくてはならない)ということである。例えば乗用車1台が200の価値であり、携帯1台2であったとするなら、乗用車は携帯1台の100倍の労働時間によって「買われる」ことができる、あるいは100倍の労働時間と引き替えにのみ手にすることができるということになる。
だからこそ、社会主義の分配においてはまだ「価値規定による分配」ということになるし、ならざるを得ないのである。社会主義での原則は、社会に与えただけの自分の労働によって生産された生産物が自分のものとなる、ということである。もちろん、200の「価値」の乗用車を手にする個人は、年間労働が例えば仮に200であるとするなら、乗用車をあえて手にしたら生きていくことができず、餓死するしかないが、携帯を「買った」だけの個人はまだ198の労働量(に対応する消費手段)に対する権利を持っているから、余裕を持って生活し、生きていくことができる。前者はしかたなく「ローンでも組む」しかないということになる(ここで「ローンでも組む」というのはたとえであって、社会主義では別の形をとることは言うまでもない)。
もう一つ、注意すべきことは、個々の生産物はその自然的な「有機的構成」が、つまり「価値」構成の比率が異なっており、平均からずれているということである。
例えば、コメ10キロと乗用車1台の「価値規定」は如何、という問題をとってみよう。
両者とも、直接にその生産に支出された労働は10としよう。しかしコメを生産するための生産手段に支出されている労働量は10とし、他方自動車の方は50とすると、コメ10キロは20の労働量として規定されるが、他方自動車1台は60と規定されるし、されざるを得ない、ということになる。同じ労働量によって直接には生産されるが、コメ10キロは20の労働量によって手に入れることができるが、自動車の方は60の労働量によって「買う」必要がある──交換されうる、あるいはその労働量によって分配されることができる──ということである。
コメを生産する生産手段の労働量は現実的なものであり、生産手段部門において示されており、また乗用車を生産するための生産手段の労働量も同じであり、そうした数字の計算は純粋に技術的なものであって、概念がはっきりしているなら、どんな社会でも、少しでも慣れれば容易にやることができるだろう。そしてこうした計算が技術的に可能なのは、生産手段を生産する労働も、消費手段を生産する労働も──つまり一切の社会的に必要な生産物を生産する労働が──質的に同一でただ量的に異なるだけの、抽象的人間労働に還元されているからであり、いる限りのことにすぎない。
1台の乗用車を生産する労働が、仮にコメの一定量を生産する労働と等しくても、実際には乗用車と交換される労働量はコメの何倍、何十倍にもなりうるし、またなって当然であり、それこそが合理的である。というのは、乗用車に含まれる──その生産に必要な──労働量は、ただ乗用車を製造するための労働であるだけではなく、それに加えて、その乗用車の製造に必要な生産手段の「価値=労働量」もまた再生産され、プラスされているからである。乗用車ではこの部分の比重がコメよりも相対的に大きいのである。そしてこうした両者の懸隔<けんかく=隔たり>は、歴史的なものである限り(そしてそれが仮に自然的な契機によるものであったとしても──例えば土地生産物の「価値」は豊度の違いによって異なりうる)、農業の機械化や科学技術の応用・適用や経営の大規模化等々が進み、生産性が上昇するなら、それに比例して急速に縮まり、縮小していくし、行くことができるだろう。

5)「生きた労働」と「過去の労働」(資本価値)、および後者の「(有用労働による)移転」論の虚偽性(ブルジョア的観念)

こうした認識から反省してみれば、「生きた労働」とか「過去の労働」といった観念が、どんなに不明瞭なものであるかが、労働者の観点からするなら虚偽の観念でさえあることが明瞭に暴露されてくる。というのは、生産手段を生産する労働も消費手段を生産する労働もみな現実的であり、共に質的に同一の抽象的人間労働として現在的だからである。その意味では「過去の労働」といったものは存在する余地がないからであり、従ってそんなものが「有用的労働」によるものか、何によるかは知らないが「移転」されるはずもないのである。「過去の労働」といったものは、ただブルジョア社会では「資本価値」といった形で存在するのだが、そんなものは果たして社会的亡霊(物神崇拝の一種)ではないかと我々は疑ってかかるべきであろう。
「資本」とは──「貨幣」という物質的な形をとって現われるとはいえ──本質的に社会関係であって、“モノ”の関係ではなく、従って“実体的な”関係ではないこと、単にそうしたものとして表象され、“仮象”されているにすぎないことが確認されなくてはならないのである。
「価値移転論」は、「価値」を、従って「資本」をも、何か「実体的な」ものとして、つまり自然的、物質的といった意味での「実体的な」ものとして想定する、つまり“物神崇拝的な”意識、ブルジョア的な虚偽の意識に、錯誤にとらわれている。
「過去の労働」として現象しているものは、実際には、生産手段を生産する労働でしかないが、それは分業によって現実に存在する労働であって「過去の労働」といったものではない。そんな風に理解するのは、資本主義社会における、高度に発達した、社会的な分業を──つまり現代の社会がそうした分業によってのみ成り立ち、発展してきたことを──理解することができない人々のたわ言であろう。彼らはブルジョアの立場を、しかも個別的ブルジョアの立場を現実的に、さらには意識において克服することが決してできないのである。
実際、ブルジョアの意識には、つまり個別資本の立場からは、「資本」は「過去の労働」として現象するのであり、現実にそうしたものとして現われている。資本はまず資本から、つまり生産手段から出発するが、資本にとってはみな「過去の労働」であり、その「蓄積」されたものでしかない。そして商品の価値(価格)も、資本価値(費用価格)と利潤の合計として表象される。
しかし個別資本が「資本」(「過去の労働」)として意識し、認識するものは、社会全体の、ブルジョア社会全体の関係の中で考察するなら、「過去の労働」といったものではなく、現存の労働に、社会的な総労働の内の、生産手段を生産する社会的な労働によって規定されているにすぎない。それは「過去の労働」に関わることではなく、現存の年々の社会的総労働とその配分にかかわる問題にすぎないのであり、こうした観点からするなら、「過去の労働」の、つまり資本価値の「移転」といったことは、実際には陳腐なブルジョア的幻想にすぎないということになるし、ならざるを得ない。彼らは労働者の生産した富を、使用価値を、「資本」として、自分の私的所有物として再び手にするのであり、することができるのだが、ブルジョアの目には、それが資本価値の「移転」として意識されるのである。
通俗的に「過去の労働」と呼ばれていたものは、実際には(「価値」としてみるならば)生産手段を生産する労働であり、「生きた労働」と言われていたものは、消費手段を生産する労働でしかない。従って、使用価値として生産手段を生産する労働者(いわゆる第Ⅰ部門の労働者)も「価値」(労働量)としては消費手段に対して、その労働部分だけの権利を持つのであり、他方消費手段を生産する労働者(第Ⅱ部門の労働者)は、自らの生産した消費手段ではあっても、「価値」として生産手段を再生産した分に対しては権利を持たないのである。
従来の観念(スターリン主義者の観念)では、ただ消費手段を生産する労働のみが「生きた労働」として考えられており、生産手段に“対象化”される労働は、事実上「過去の労働」として、「(有用労働によって)移転」されてきた資本価値とみなされてきた。しかし、再生産されるものが使用価値の全体であって、単に消費手段だけでないとするなら、「価値」においても同様であって、年々の総労働が「生きた労働」として消費手段だけに支出されていて、生産手段には支出されないといった観念は途方もないのであり、分業によって社会が成り立っているような、どんな“近代的”社会の現実とも合致しないのである。
かくして、「価値規定による分配」の概念に到達するためには、何よりもまず、「有用労働による価値移転」といった虚偽の意識から解放されることが必要であり、またそうした意識から解放される限りで、この問題の解決──もちろん、さしあたりは理論的な解決に留まるのだが──は極めて容易であり、単純明快なものとして現われるのである。
かつて林は「有用労働による」価値移転という観念に反発したが、しかし今の時点に立って反省すれば、問題はむしろ「資本の価値移転」という観念そのものであり、それがどういう意味と内容かということであった。「有用労働」による移転といったことも、ただ個別資本の“論理”として仮に意味があるとしても、そんな限界の中でのみのことであって、社会的な総生産と再生産という観点からすれば何の意味もないこと、社会的な総生産の論理において、そんなものを持ち出すのはまるでピント外れであり、有害でしかないことを、我々は確認する必要がある。
しかし人々は個々の資本に現れるままの現象に幻惑されて、「過去の労働」の移転という妄想から離れることができないのである。こうした妄想は、一つには魚捕りをするには、その道具をまず作ってからでなくては魚を捕ることはできないという、自然発生的で“感覚的な”観念から出発するからであり、さらにブルジョア社会においても、ブルジョア的生産の出発点では、資本が、つまり生産手段が──消費手段もまた──社会的な生産もしくは再生産の前提として、「資本」として、現われるからであり、また資本は社会的な「価値」として、維持され、その“生命”を継続していく──自己増殖さえしていく──からである。
ロビンソンについての我々の例でも、彼はまず道具を作るのに6時間を費やし、それから3時間をかけて魚を捕ったのであって、まさに彼の魚を捕るという「労働」においては、道具を作るという労働は前提として、従って魚を捕るという労働に「移転」して現れたのである。
しかしロビンソンの場合においてさえ、彼は「移転」ということでは説明できない行動に出るかもしれない。例えば道具を作るのに6時間ではなくて18時間を要するなら、彼はそのために道具を作る労働を3日間に分割せざるを得ないのであって、まず2日間を道具の生産に費やし、その後で1日まるまるを魚取りに費やすというやり方をしないであろう。というのは、魚は毎日捕らなくては腐ってしまって食べられないからであり、どうしても毎日魚取りに3時間を割かなければならないからである。
要するに、ロビンソン(孤立した個人)の場合には、いわば“縦並びの”労働分割が、配分がなされるかもしてないが、社会的な生産が行なわれるなら、“横並びの”配分が、つまり“分業”が行なわれるのであって、道具を作ることも、魚捕りをすることも“同時並行的に”なされるのであり、なされることが可能である。このことが理解され得るなら、社会主義における価値規定の理解は容易になるであろう。
「価値移転論」は結局不合理な循環論証に帰着したし、せざるを得なかった。
消費手段の価値規定において問題となるのは、その消費手段を生産するのに要した生産手段の「価値」のみであって、その生産手段の生産のためにさらに(つまり延々とさかのぼって)必要とされた生産手段の「価値」はいっさい無関係である。
例えば、乗用車の生産のためには、労働対象としての鉄鋼と、労働手段としての機械(A)が必要であったとしよう。そしてこの鉄鋼のためには鉄鉱石が、そして機械(A)の生産のためには鉄鋼と機械(B)が必要であったとしよう。しかしここでは鉄鉱石から鉄鋼を生産する労働や、機械(A)を生産するために必要な鉄鋼や機械(B)等々のことは考慮する必要は一切ないのである。
というのは、乗用車を生産するために必要な鉄鋼と機械(A)は、すでに再生産された労働時間によって「価値規定」され、示されているからである。
これは本質的に、機械や鉄鋼や鉄鉱石の価値規定を、「過去の労働」によって、つまり「価値の移転」によって行なうことは不合理である。実際そうしたことは不可能である。というのは、結局は循環論証になるだけであり、価値を価値によって(現実には価格を価格によって)規定するということになるしかないからである。
例えば、鉄鉱石(これは「生きた労働」からのみかちきていされる?)から出発して、次に、「過去の労働」つまり「移転された労働」──鉄鉱石に対象化された労働──と「生きた労働」なるものをプラスし、さらに順次、同様にして乗用車にまで至り、かくして乗用車の価値規定が可能になるように見える。しかし、最初の鉄鉱石の生産──採掘等々──もまた機械等々を必要とするのであって、鉄鉱石自体、その価値規定はアプリオリすなわち無前提ではない(いわゆる「生きた労働」だけでできているわけではない)。
生産手段の価値もまた「再生産」されるとするのと、それが「有用労働によって移転される」とすることとは同じことではないのか、という見解が、つまり「移転論者」の言い抜けが持ち出されるかもしれない。
つまり、年々の社会的な労働によって、「生産手段の価値が、つまり『過去の労働』が移転される」(有用労働によって、ということは問わないとして)と規定することと、「生産手段の価値もまた『再生産される』とすることは結局同じことではないのか」、といった“疑問”である。
しかし再生産されるのは生産手段ばかりではなく、消費手段もまた同様であり、かくして両者を併せて年々の──一定期間の──社会的な総生産を形成するのである。生産手段は使用価値としてだけでなく、「価値」──質的に同一の抽象的人間労働──としても年々に生産もしくは再生産されたものであり、またそうしたものとして以外には存在していないのだから、そんな世界に「過去の労働」とか、そんなものの「移転」とかいったものが混入するはずも、し得るはずもないのである。「過去の労働」なるものを一体いかにして抽象的人間労働に還元できるのか、そんなことは不可能であろう。それは年々の現実の労働によって「対象化される」限りで、抽象的人間労働であるし、あり得るのである。
もし、年々の労働によって、「価値」もまた再生産され、規定されるのではないと言うなら、使用価値もまた、年々の再生産によって再生産されないし、され得ないということになるしかない。
しかし実際には、年々の使用価値は年々消費されると共に、再生産されるのであって、それは生産手段においてだけでない、消費手段においても同様である(人はしばしば、この後者のことを忘れるか、確認することを怠る)。
総労働が社会的な分業として行われているとき、そして生産手段も消費手段もその生産が、広範な社会的分業の中で行なわれているとき、生産手段の価値は「過去の労働」の移転であり、消費手段の価値のみが「生きた労働」の結果であるといった、スターリン主義流の混沌とした空文句は、マルクス主義の「価値」の理論の根底を脅かし、混乱させ、無意味なものに転落させる以外の、どんな意味も“役割”も持っていない。生産手段の価値が過去の労働の移転だというなら、消費手段もまた同様であろう。というのは、消費手段もまた生産手段を用いて生産されているのであって、その意味では「過去の労働」の移転でもあるからである。使用価値として消費手段ではないかといってもムダである。というのは、ここで問題になっているのは使用価値ではなく、価値(交換価値)だからである。
「価値移転論」は、ブルジョアの「費用価値学説」という形で理論的、“学問的”な形をとった意識と密接不可分である。つまり「価値」(彼らにとっては、そのものとしての「価格」であるが)とは、資本価値(不変資本と可変資本)プラス利潤であるという意識である。ブルジョアにとっては、生産手段として、そしてまた消費手段として再生産された富は、ブルジョアの所有する「資本」として、その「移転」として意識されるのであり、従ってその「価値」もまた「移転される」のであるが、それはブルジョアの目に映る現実そのものである。

6) 「価値移転論」の矛盾と自己撞着
──生産的労働は3000でなく9000

価値移転論者によると、年々の総労働(者)は9000でなくて3000だそうである。というのは「生きた労働」はただ3000だけであって、残りの労働の6000は「生きた労働」ではなく、「過去の労働」、死んだ労働だからである。
3000の労働が抽象的人間労働によって3000の価値を創造し、他方、具体的有用労働は9000の使用価値を生産すると共に、6000の「過去の労働」を、生産手段の価値を、資本価値を「移転する」のである。9000のうち3000だけが「生きた労働」の成果である。つまり6000の価値をもつ生産手段は、使用価値としては再生産されたが、価値としては再生産されなかったのである。
しかし9000の使用価値が3000の労働によって生産されたものであるというのは、言語矛盾であって、そんな理屈が「原則」であるかに祭り上げられるなら無意味なドグマになるしかないのは余りに明らかなように思われる。
3000の労働が生産したものは結局消費手段であり、ただそれだけだということになるが、しかし他方では9000の使用価値を生産したと言われるのである。しかし商品生産においては、使用価値の生産とは同時に価値の生産であるし、そうでなくては労働価値説はわけの分からないたわ言になるしかない。価値の生産ではない、使用価値の生産がありうるなどという観念は途方もないものであって、「価値法則」を根底から否定し、止揚することなくしてはとうてい理屈として提出することはできないように思われる。だがスターリン主義者たち(共産党の連中)は平気でそんなドグマを振りまくのであるし、今も振りまいている。
そしてもし「過去の労働の移転」(価値移転)を言うなら、生産手段の価値だけでなく、消費手段の価値の移転も言わなくては首尾一貫することはできない。というのは、資本にとっては「移転」され、再生産されるのは不変資本(生産手段の価値)だけでなく可変資本(消費手段の価値)も同様だからである。資本は年々の再生産の出発点では生産手段も消費手段も「資本」として所有し、前提しているのであって、それらは年々の終わりにはまた自分の手元に戻っていなくてはならないのである。
そしてこの場合には、「価値移転論」の限界が、矛盾が暴露されてしまう。というのは、価値としての消費手段(可変資本)は直接に「移転」するのではなく、直接には労働者への所得へと転化し、さらに労働者の労働によって現実的に再生産されるものとして現象するからである。その価値は「移転」されたものとして、「労働」によって(抽象的人間労働によってさえも)媒介されたものとして現われ、「有用労働によって移転されたもの」として現われないからである。
かくして「価値移転」論のドグマに固執する限り、「価値法則」はわけの分からない理論的混沌と不合理に行き着くしかなく、社会主義社会における「分配法則」などどこかに吹っ飛んでしまうだけではない、資本主義社会の合法則的な理解さえも全く不可能になるだろう。スターリン主義者(共産党の連中)は途方に暮れるしかなく、結局実践的、理論的に自ら破綻し、いくじなくブルジョアの軍門に下るのである。
労働者にとって資本主義の現実の認識──従ってまた社会主義の理論の理解──は単純で明快である。9000の価値と使用価値(9000の価値をもつ使用価値)が年々再生産されるとするなら、それは年々9000の労働が支出されたのであって、それ以外ではない。消費手段を生産するために3000の労働が支出されたから、年々の「生きた労働」は、つまり総労働は3000でしかないといった観念は、社会的な分業の社会について、なにも理解していないことを暴露しているだけである。もし3000の消費手段を得るために、3000の消費手段の生産に必要な労働だけでなく、6000の生産手段を生産する労働も必要だというなら、それは社会的な総生産のために、年々9000の労働が「分配」されるし、されなくてはならないということであって、それは余りに単純な現実であり、真実であるにすぎない。
ブルジョアにとっては、搾取の対象となるのは、消費手段を生産する労働である。というのは、直接生産者から搾取して意味があるのは消費手段でしかないからである。どんな階級社会においても、支配階級は消費手段を収奪し、搾取することによって富んできたのである。もちろん生産手段を収奪することによって富むときもないとは言わないが、それは「ただ一度限りでのこと」──例えば「原始的な蓄積」等々──であって、継続的に行うことは不可能であった。というのは、小生産者たちはいったん生産手段を収奪されれば「無産の民」になり、労働力売って生きるしかなく、ブルジョアたちが再び生産手段を収奪しようとしてもできないからである。だからこそ、ブルジョアにとっては、消費手段を生産する労働だけが「生きた労働」──搾取可能な対象──として現象するのだが、俗流ヘッポコ理論家たちは、そんなブルジョア意識を反映して騒ぎ立てるのである。ブルジョア社会では、もちろん一部の労働者は生産手段だけを生産して消費手段は生産しないのだが、ブルジョアたちは「賃労働」によって、そうした労働者をも──労働者の全体を──搾取するのであり、することができるのである。
年々の総生産は消費手段を生産する3000の労働の結果ではなく、9000の労働の結果であることを確認することは極めて重要である。それは、労働者が自らの解放に向かって前進していくために欠くことのできない自覚の一つであって、9000の労働を3000だなどと言いやはす連中のドグマに、たわ言に──つまり「価値移転」論などに──とらわれているなら、社会主義を勝ち取る闘いが挫折し、解体することほどに明らかなことはないであろう。社会が継続し、また労働者が生活し、生きていくためには、3000の消費手段を生産する労働だけでなく、6000の生産手段を生産する労働も全く同様に必要であって、こうした分業はより多くの消費手段をより少ない労働で、より有効に獲得するためのものであること、消費手段を生産する労働も、生産手段を生産する労働も──ありとあらゆる労働が──、質的に同一で、無差別平等の労働であることが──それ故に、全ての労働する人々の平等と無差別が、従ってまた各人の人格と自由が──確認されなくてはならないのである。

7)「生産手段の価値規定」の問題

乗用車の価値規定は、労働対象としての鉄鋼と、労働手段としての機械(A)の「価値規定」(労働時間)と、直接に乗用車を生産する労働時間の和としてのみによってなされるということは、鉄鉱石を生産する労働や、機械(A)を生産するための鉄鉱石や機械(B)等々を生産する労働がどうでもいいということではない。それらは社会的な総生産の中に、つまり社会的に必要な総労働の中に含まれているが、ただ消費手段の生産のために直接に支出されないのであり、従って消費手段の価値規定とは無関係であるということにすぎない。
もちろん、生産手段もまた価値規定を受けとるし、受け取ることができるというなら、それは正しい。しかし社会主義で生産手段の価値規定といったものは仮に可能だとしても、何の意味も持たないのである。というのは、生産手段は直接に使用価値として、その量として労働(労働者)と関係するからであり、また生産手段の個々人への分配といったことは全く問題にならないからである。

8) 2種類の「有機的構成」の概念とマルクスの表式

マルクスもまた、生産手段を生産する労働と、消費手段を生産する労働の比重が持つ重要な意義をよく理解していたのであって、彼は資本主義における、その特殊な現象形態を、資本の有機的構成として、すなわち不変資本と可変資本の比率として表現したが、しかし他方では、生産手段を生産する労働と消費手段を生産する労働の比率を、自然的な有機的構成という概念で言及している。マルクスの単純再生産の表式では、6000対3000つまり2対1である(もちろん不変資本と可変資本の比率では、6000対1500で4対1であるが)。
そしてさらにマルクスは個々の資本家的商品の有機的構成の違いに基く、価値の生産価格への転化についても語り、分析を行なっているが、これは客観的に、個々の生産物の有機的構成が平均的な有機的構成とは──自然的なものとしても──異なってくる、ずれてくることから生じてくる、資本主義的現象である。

9) 生産力の向上もしくは「価値革命」と「価値規定」問題

労働生産性の向上つまり「価値革命」(生産物を生産する労働時間の短縮)の問題も、容易に解決することができる(「価値移転」論では、決して合理的に解決することができないのだが)。
我々の例において、消費手段の場合をとって論じることにしよう。自然的な有機的構成が2対1なら、生産手段の生産力が2倍になったなら(つまり必要労働時間が半分になったなら)、消費手段の生産性の上昇は労働時間が2/3に減少するという形で現れるが、消費手段の生産力が直接に2倍になったなら(つまり必要な労働時間が半減したなら)、直接に消費手段は半分の労働時間で生産されるという形で現象する。もちろん生産手段部門の場合も同様である。もし消費手段部門の生産力が2倍になり、そこでの労働時間が半分になったら、生産手段部門の必要労働は1/6だけ縮小して、5/6になるだろう。

10) 我々の新しい概念の意義

かくして我々は資本主義における「価値規定」に基く問題を基本的に解決し、共産党の“ブル転”した(ブルジョア的転向に走った)卑しい連中の本性を暴露したのだが──彼らは社会主義における「分配」も資本主義と同じ形で、つまり「市場経済」の運動によってなすしかないと騒ぎ立てた──しかし社会主義を勝ち取ったあかつきには、労働者階級はブルジョア的方法を廃棄して、自らの支配にふさわしいやり方を実現し、容易にこの問題も解決していくだろうし、行くことができるだろう。
我々は、資本の「価値規定」とか、資本価値(「過去の労働」)の移転とかいった虚偽概念と決定的に決別し、そのブルジョア的本性を明らかにすることによって、はじめて、社会主義社会における分配の問題をも解決することができたが、その中心をなく概念とは、個々の消費手段がいかに「価値規定」され得るのか、つまり労働時間で表現されうるかという問題であった。我々は、年々の──一定の期間の──使用価値も交換価値も、年々の労働者の総労働によってのみ生産もしくは再生産され、また消費──個人的であれ、生産的であれ──され得るのであることを明らかにし、さらに年々のどんな使用価値に支出され、“対象化”される労働も、社会的な形で支出された総労働の一環、一部として、それぞれ量的には異なるとしても、質的に一様であることを確認し、まさにそのことによって、消費手段の価値規定の概念に到達したのであり、し得たのである。
かくして我々が一昨年の労働者セミナーで明らかにした概念もまた、首尾一貫した、明瞭で合理的な回答として確定され得たのである。というのは、消費手段を生産する場合に必要な生産手段の労働時間もまた、消費手段を生産する労働と同質である──どんな種類の有用的労働とも関わりない、あるいはそれらに共通の、抽象的な人間労働として質的に同じであり、区別され得ない──からこそ、“翻訳”し、“転換”することが可能になるからである。消費手段を生産するための生産手段の価値規定を「過去の労働」やその「移転」等々の観念を根底にして行うことは不可能だった。というのは、そうした場合、分業によって生み出される社会的な生産物を生産する労働の質的な同一性が保障され得ず、従ってまた量的な比較もできないからである。個々の消費手段の「価値規定」(労働時間、労働量)を規定するためには、個々の消費手段の「価値規定」の諸部分の労働の質的な同一性が前提されなくてはならないのは明らかであろう。
我々は、共産党らスターリン主義者が、社会主義での分配も、資本主義と同じやり方でやるしかない、市場経済の“法則”(「神の見えざる手」)に任せるしかない、などとブルジョアと資本主義経済への全面的拝跪と屈従に走っているとき、彼らのたわ言を徹底的に明らかにし、社会主義的分配の基本的な概念と内容を明らかにしてきた意義は決定的に大きく、重要であって、いくら強調してもしすぎることはない。
もちろん、我々の理論は社会主義における分配の理論であって、その性格上、今実践的にどうこうというものではない。しかし労働者階級が資本の支配の一掃と、その後の社会について一層明瞭な観念を持つことは、その闘いを勇気づけ、強固で、持続的なものにするだろうし、また労働者階級が自らを支配階級に高めたときには、その支配を有効に使って何をなしたらいいかの展望と指針とを与え、彼らが確信と勇気を持って前進することを可能にするだろう。
〔なお、この小論は、一昨年の労働者セミナーにおけるチューターの報告と議論の全てを特集した、『プロメテウス』55・56合併号を合わせて読まれ、検討されれば、我々の「社会主義社会における価値規定」に関する概念についての議論や結論の持つ決定的な重要性と意義を一層深く理解し、確認していただけると思う〕 (林 紘義)

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2014年11月23日