「読む会」だより4月用

「読む会」だより(19年4月用) 文責IZ

(3月の報告)
3月の「読む会」では、(2月の報告)でチューターが「抽象的なものがなにか具体的なものから独立して具体的なものと並んで存在したり、あるいはなにか具体的なものを生みだしていくかのようなヘーゲル的な神秘化に迷い込むことにもなります」と触れた部分について、「“ヘーゲル的な神秘化”というのがどんなものなのか例を挙げてほしい」という質問が出されました。『聖家族』や『経哲草稿』などでマルクスはあれこれ触れているが、今は挙げられないということで、宿題にしてもらいました。(なお、むしろ指摘された部分より、その前の文章が長すぎて、意味がとりにくかっただろうと、チューターは反省しています。機会があれば直します。)
少し調べようとしたところ、単なるヘーゲル「哲学」の批判ではなくて、具体的な存在をもっている「政治」や「国家」をどう理解するかをめぐって、マルクスの考え方を理解するのにうってつけな所があったので、かなり長くなりますが、ここで引用しておきます。また、あまり「方法論」に立ち入りすぎるのは良くないと考えていますが、いわゆる哲学用語についての簡明な説明がありましたので、この機会にあわせて紹介しておきます。
難解なヘーゲルの文章に付き合うのは苦手という方が多いと思いますが、少しだけお付き合い下さい。

紹介するのは初期の著作の一つ『ヘーゲル国法論批判』からの引用ですが、その前に「ルーゲ宛の手紙(1843年)」で、マルクスがこのヘーゲル批判をする意図が書かれており、とても重要だと思いますので、まずそれを紹介しておきます。ここでマルクス自身が述べている通り、政治の分析のために、つまり社会改革のために、哲学=認識論を役立てること、これがマルクスのマルクスたるゆえんとチューターは考えています。

・「フォイエルバッハは余りにも自然にかかわりすぎ、そして余りにも政治にかかわらなさすぎます。……しかし政治と結ぶこと、ただこれのみが今日の哲学をして真理たらしめる唯一の同盟なのです。」(国民文庫、『ヘーゲル法哲学批判序論』への「あとがき」からの重引)

・「第262節。『現実的理念、精神──このものはそれの概念の二つの理念的な圏、すなわち家族と市民社会に己れ自身を割って、己れ自身を有限な在り方にするのであるが、これは精神がこれらの両圏の理念性から出て対自的<※1>に無限な、現実的精神であらんがためである──それは、そのため、これらの圏にこのそれの有限的現実性の材料、すなわち衆人としての諸個人を割り当て、しかもこの割り当ては個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによって媒介されて現われるように行われる。』

この<ヘーゲルの難解な>文章をなんでもない言い方に直せば、こうなる。
国家が家族および市民社会と媒介されるされ方は「境遇とか個人的自由とか職分の自身での選択とか」である。したがって国家理性は国家材料の家族および市民社会への割り振りとは何のかかわりもない。国家はある無意識な、かつ自由勝手な仕方で、それらから出てくる。家族と市民社会は暗い、生の下地として現われ、ここから国家の火が点(とも)り出る。国家材料という場合には、国家の取り扱う仕事、つまり家族と市民社会が──これらが国家の部分をなし、国家としての国家にかかわりをもつかぎり──理解されているのである。
この展開は二重の点で目に立つ。
1、家族と市民社会は国家の概念圏、それも国家の有限性の圏、国家の有限性と解される。国家とは、それ自身をこれらの圏に割るもの、これらの圏を前提するものであって、しかも国家がそうするのは、「それら両圏の理念性から出て対自的に無限な、現実的精神であらんがため」である。「それは己れを割るのであるが、これは……がためである。」それは「そのため、これらの圏にそれの現実性の材料を割り当て、しかもこの割り当ては……に媒介されて現われるように行われる。」言うところの「現実的理念」(無限な、現実的な精神としての精神)なるものは、あたかもある特定の原理にしたがい、そして特定の意図のために行動しでもするかのように描かれる。それはそれ自身を有限な諸圏に割り、それがそうするのは、「自身のうちへ戻ってくるためであり、対自的であらんがためであり」、しかもそれがそうするのは、それこそがまさに現実的な在り方にほかならぬからである。

★この個所で論理的汎神論的神秘主義が非常に歴然と現われる。
現実的な関係は、「国家材料の割り当ては個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによって媒介されている」ということである。この現実的関係が思弁によって現われとか現象とかいう言葉で言い表わされる。★ある特定の境遇、ある特定の個人的自由、ある特定の職分の選択、こういった特定の現実的媒介は、現実的理念がそれ自身を相手に行なうような媒介、しかも舞台裏でおこなわれるような媒介、の現われであるにすぎない。★現実はそのもの自体としてではなく、なにか別の現実として言い表わされる。通常の経験はそれ固有の精神をではなくて、なにかそれとは無縁の精神を掟にもち、これに対して現実的理念はそれ自身から展開された現実をではなくて、通常の経験を定在<※2>にもつ。
理念は主体化され、そして家族と市民社会との国家にたいする現実的な関係は理念の内的な、想像上のはたらきと解される。★家族と市民社会は国家の前提であり、それらはもともとアクティブなものなのであるが、思弁の中であべこべにされる。ところで理念が主体化されると、その場合には、現実的な諸主体であるところの市民社会、家族、「境遇とか個人的自由とか等々」は理念の、非現実的な、他のものを意味する、客体的な諸契機となる。
「個人にあっては境遇とか個人的自由とか自己の職分の自身での選択とかによる」国家材料の割り当ては真実のこと、必然なこと、本来それはそれとして理由のあることとして端的に述べられるということはない。境遇や個人的自由がそのようなものとして理性的なもの<必然的なもの>と称されるということはない。が、それにしてもやはり別の面でそれらは理性的なものとなる。ただしこの場合、それらは見かけ上の媒介と称されるというだけである。つまりそれらは現にあるがままのあり方に放置されながらも、同時に理念の一つの規定、理念の一つの成果、一つの産物という意義を受け取るという形でそうなるにすぎない。この区別は内容のうちに存するのではなくて、見方のうちに、あるいは言い表わし方のうちにある。二重の歴史、すなわち秘儀的なそれと公開的なそれとがある。内容は公開的な部分のうちにある。秘儀的な部分の関心はいつでも、論理的概念の歴史を国家のうちに認めるという関心である。しかしながら本来の展開が行われるのは、公開的な面においてなのである。

★合理的にはヘーゲルの文章は次のことを言っているにすぎないであろう。すなわち、
家族と市民社会は国家の諸部分である。国家材料は「境遇とか個人的自由とか職分の自身での選択とかによって」これらの部分に配分されている。公民は家族成員と市民社会の成員である。
「現実的理念、精神──このものは、それの概念の二つの理念的な圏、すなわち家族と市民社会に己れ自身を割って、己れ自身を有限的な在り方にする──」──このように、国家の家族と市民社会への分割は理念的、すなわち必然的であり、国家の本質に属する。★家族と市民社会は国家の現実的な部分、意思の現実的、精神的現存態であり、両者は国家の定在様式である。家族と市民社会はそれ自身を国家となす。それらは原動力となって他を推し動かすものである。@
これに反してヘーゲルによれば、家族と市民社会は現実的理念によって働きを受けている。それらを国家に統合するのは、それら自身の生<なま>の成り行きなのではなくて、理念の生の成り行きがそれらを己れからふるい分けたのであり、しかもそれらはこの理念の有限性なのである。それらはそれらの定在を、それら自身の精神とは別な一つの精神に負っており、ある第三者によって定立された規定なのであり、いかなる自己規定であるのでもない。事実またそれらが「有限性」として、規定されるのもこの故である。それらの定在の目的はこの定在そのものにあるのではなくて、理念がこれらの前提を自身から切り離すのは、「それらの理念性から出て対自的に無限な、現実的精神であらんがため」である。ということは、★政治的国家は家族という自然的土台と市民社会という人工的土台なしにはあり得ないということであり、それらは国家にとって一つの欠くべからざる条件なのであるが、しかし<ヘーゲルにあっては>条件が条件づけられたものとして、規定するものが規定されたものとして、産出するものがそれの産物の産物として定立される。@
現実的理念がその身を貶めて家族および市民社会の「有限性」へ入りこむのは、ただこの有限性の揚棄を通じて国家の無限性を享受し産出せんがためにほかならぬ。現実的理念は「そのため」(国家の目的を成就するために)「これらの圏に、このそれの有限的現実性」(この? どんな? これらの圏は何と言ってもそれの「有限的現実性」、それの「材料」にほかならないのである)「の材料、すなわち衆人としての諸個人を割り当て」(国家の材料はここでは「諸個人、衆人」であり、「彼らから国家は成立している」のであるが、この国家の成立はここでは理念の業<わざ>と称され、理念がそれ自身の材料でもって行うところの「配分」であると言われる。★事実においては、国家は家族成員として、また市民社会の成員として現存しているような衆人から出てくる。思弁はこの事実を理念の業と称し、大衆の理念とは言わずに、かえってある主体的な、事実そのものとは別な理念の業と称する)「しかもこの割り当ては」(さきにはただ家族と市民社会の両圏への諸個人の割り当てのことが云々されているだけである)「個人にあっては境遇とか個人的自由とか等々によって媒介されて現われるように行われる。」@
★ご覧のとおり経験的現実があるがままに受け入れられ、この現実がまた理性的だとも称されるのであるが、しかしそれはそれ固有の理性のおかげで理性的であるのではなくて、それが理性的なのは、経験的事実はその経験的な現存においてはそれ自身とは何か別な意義を有するからである。出発点となる事実はかかる事実そのものとは解されず、かえって神秘的な成果と解される。現実的なものは現象となるが、しかし理念はこの現象以外のどんな内容をも持ちはしない。のみならずまた理念は、「対自的に無限な、現実的精神であらん」とする論理的目的以外のいかなる目的をも持ちはしない。★この節のうちに法哲学、またヘーゲル哲学一般の全秘密が蔵されている。」(国民文庫版、「ヘーゲル法哲学批判序説」に所収、P6~)

国家は諸個人からなりたっており、この諸個人は家族成員としてまた同時に市民社会の成員として存在している。だから国家を理解するためには、諸個人が市民社会のなかでもつ関係、その媒介のされ方を理解することから始めなければならない、とこうマルクスは語っているようにチューターには思われます。ただ残念ながら「国民国家」の意義等については不勉強で多くは語れません。
下に、いわゆる哲学用語のいくつかの説明を挙げておきます。これまた難解でしょうが。

≪※1 ヘーゲル、「法の哲学」より。なお、即自、対自、即自かつ対自というヘーゲル用語については、広辞苑では以下のように説明されています。「即自、対自、即自かつ対自、はヘーゲル弁証法の根本的概念で、事物の発展段階を示す語。即自はそれ自身の存在に即した未発展の段階、対自は即自の状態から発展し否定契機として自己の対立物が現われる段階、即自かつ対自は、その対立を止揚して統一を回復した一段階高まった状態。この3段階は定立・反定立・総合(正・反・合)に対応する」 なお、下記の日本大百科全書によれば、「『正立<定立>・反立<反定立>・総合』を略して「正・反・合」と呼ぶ。たとえば『存在・無・生成』において、生成は存在(正)と無(反)の対立を克服し、高め、その両契機を保存する。すなわち止揚する「合」の段階である。この概念は本来ヘーゲルのテキストには存在しないもので、フィヒテの概念をヘーゲル哲学の説明に援用したものにすぎない……」。むしろヘーゲル自身は、「止揚 揚棄とも訳される。否定・保存・高揚という三義を含む。ヘーゲルはこの三義を三位一体と見なし、弁証法の根本要素とした」とある。≫

≪※2 日本大百科全書「ヘーゲル哲学の基本概念」によれば、定有、定在、定存在ともに「[規定された存在、質をもつ存在]の意。……ヘーゲルでは[一定の具体的な実在物]のこと……。定有は質を身につけている。すなわち、他の物との差異、性質上の限界、制限を自分の性質として持っている。定有は、限界を身の周辺につけているだけではなくて、限界を自分の核心に体している。しかし限界という規定はその定有の否定である。ゆえに定有とは、自己の否定を自己のなかに含む存在である。また、定有は本性の現われ、示現、権化、托身、受肉である。たとえば<ヘーゲルにおいては>、私の所有物は私の所有権の定有である。国家は自由の定有である。」また、市民社会とは「自由な市場経済活動の営まれる分業化された社会を、家族からも国家からも明確に区別して述語化したのはヘーゲルの歴史的功績である。マルクスの場合には、同じ言葉が[ブルジョア社会]と訳され、歴史の一段階としてとらえられるが、ヘーゲルでは、あらゆる歴史社会の構造として[市民社会]が組み込まれている。……」
また、「契機」についてはこう触れられているので、参考までに紹介しておくと、「多面的な要素から構成される実在の一側面。たとえば「消費」は商品交換の契機である。消費という要素だけでは交換は成り立たないが、消費という契機なしにも交換は成り立たない。もともとは力学の「モーメント」の概念から取られた概念で、たとえば、梃子や竿秤では、重力を支える力の分力が竿の長さで表現される。この時の実在の全体性に対して、契機の一面性・抽象性を『観念性』と呼ぶ。有限なもの、一面的なものの<実在の全体性にたいする>観念性を認識するのが『観念論』の立場である<とヘーゲルは理解する??>」≫

チューターが参院選に立候補するため5、6、7月の「読む会」は休会とさせていただきますので、今回は(説明)部分には入らないことにします。ご了承ください。

2019年4月24日

「読む会」だより3月用

「読む会」だより(19年3月用) 文責IZ

(前回の報告)
2月の「読む会」では、「抽象的労働」について、これまでのまとめになるような二つの質問が出されました。
ひとつは、労働のもつ(無差別な)抽象的人間労働としての側面が、資本主義社会において発見され認識されるようになったということであったが、資本主義社会以前の労働においても抽象的人間労働としての側面はあったということかという質問でした。
チューターは、およそ次のように答えました。第2節で「すべての労働は、……同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する」と言われているように、資本主義社会以前においても、すべての労働(具体的有用労働)が抽象的人間労働としての側面・属性をもつ──すなわちどれをとっても“人間の”労働であり、その一部分である──と言えます。しかしここで問題になるのは、発展した商品生産と社会的な分業をもつ資本主義社会においては、この無差別な人間労働としての側面こそが、商品の価値として、支出された労働が社会的労働と認められるための条件になるというところに歴史的な特徴があるということです。
以前の社会、たとえば封建制では、そうではありません。農民による年間に何日かの領主の土地での耕作とか年貢米の生産のための労働といった、種々の使用価値を生み出す具体的な有用労働の特定の姿そのものが社会的労働であるための(言いかえればそこでの社会関係の)条件でした。資本主義社会でも、直接的生産者である労働者が、その支配者である資本家を養うためにも労働を行なわねばならないという点では同じことです。しかしながらここでの社会的な労働は、単に支配者を養うためばかりではなく労働者自らが生活していくためにも、諸個人が行う具体的有用労働の姿ではあり得ず、商品の価値を生みだす無差別な人間労働でなければなりません。
というのは、社会の富が「巨大な商品の塊」(『資本論』の冒頭)として存在する社会においては、諸個人の労働は労働そのものとしてではなくて、商品に対象化された労働としてのみ他の労働と関係しうるのですし、種々別々な商品に対象化された労働が社会的な労働として相互に関係するためには、異種の商品を生み出す具体的有用労働としてではなく、他の商品に支出された労働と共通な、無差別な人間労働としてだけ、したがってまた量的にだけ異なるものとして相互に関係できるからです。商品の価値の実体である抽象的人間労働は、直接に感覚的な存在をもたないとはいえ、商品を生産するために支出された労働時間(社会的に必要な)として現実的なものであり、商品はこのことを共通な価格をもつことで表現しているのです。
マルクスは、別記の※参考(初版より)にあるように、「“社会的であること”の標準は、それぞれの生産様式に特有な諸関係の性質から借りられるべき」だと語って、ある労働が社会的なものであるための条件は、それぞれの社会に独自な歴史的なものだと語っています。
資本主義社会においては、抽象的人間労働であるということが社会的労働であるための条件ですが、抽象的労働であるということ(すべての具体的労働がそういう側面をもつということ)と、一定の社会においてどのような労働が人々を結びつける社会的労働であるのかということとは区別して考えるべきと考えられます。

また、「法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関連は不可解になるのである。」という意味がまだ分かりにくい、という意見が出されました。
前回この文章のすぐ前の部分を引用し忘れていましたので合わせて引用しておくと次のようです。
・「価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。@
たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。@
この取り違えは不可避である。というのは、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無差別な人間労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が別種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてのみのことだからである。
この転倒によっては、ただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。(以下に上記の文が続く)」(初版、国民文庫、P142)

前回も触れましたように、通常ならば、抽象的一般的なものは、具体的なもの、感覚的現実的なものの一般的な共通な属性として認められます。たとえば上着に含まれている裁縫労働には、それがあれやこれやの人間の労働のなかの一つであるという他の労働と共通な一般的な属性がありますが、このことには特段の不可思議さは見当たらないでしょう。このことをマルクスは「もし私が、ローマ法とドイツ法は両方とも法である<法という一般的属性をもつ>、と言うならば、それは自明なことである。」とその個所で語っています。
しかしながら、商品の価値関係およびそこでの価値表現においては、たとえば20エレのリンネル=1着の上着をとりあげてみると、二つの商品リンネルと上着は、同じ価値でありながらも、一方のリンネルはその価値を表現するものであり、他方の上着は相手のリンネルのために価値表現の材料になるものであるという役割分担のもとで、リンネルの価値が上着で表現されることになります。この場合、後者の上着(つまり他商品リンネル価値表現の材料になる等価形態に置かれる商品)においては、それに含まれる裁縫労働という労働は、裁縫という一つの特殊な具体的労働としてリンネルに含まれる紡績労働に関係するのではなくて、両者に共通な、人間労働の一実現形態としてのみリンネルと関係することになります(そうでなければ両者には共通なものがなく、共通なものがなければ両者は関係しえないのですから)。だから、その価値を表現するリンネルにとっては、リンネルによってその等価物(究極的には貨幣)とされる上着に含まれる裁縫労働は、それが人間労働でもあるという一般的属性をもつ具体的有用労働として認められるのではなくて、「人間労働であるということが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけ」という“転倒した”関係をもつことになります。つまりリンネルは、それと等しいとして対置される上着に含まれる裁縫労働を、自分に含まれる紡績労働と同じ、人間労働の一つの実現形態としてのみ認め、それが対象化された上着(究極的には貨幣)を、裁縫労働という具体的な労働が対象化された特定の使用価値としてではなくて、無差別な人間労働が対象化された塊=価値として取扱うことによって、自分を価値として表現しているのです。
具体的な労働をただ抽象的な人間労働の一実現形態としてのみ認めるというこの事象は、ただ商品相互による価値表現という関係のなかでだけのことですし、具体的な労働とそれがもつ人間労働としての抽象的な属性という両者の対立は、二つの同じものの単なる役割分担によってひき起こされるものです。しかし等価形態がある商品に固定化されるにしたがって、その商品が人間労働の塊=価値として認められることは、なにかその特定の商品がもつ自然属性と関連したもののように見え、したがって商品の価値表現は理解が困難なものになります。また等価物に置かれる商品(究極的には貨幣)にあっては、裁縫労働といった具体的な有用労働が同時に抽象的な人間労働の一部でもあるという一般的な属性をもつということが、裁縫労働は紡績労働にとっては具体的な労働としてではなくて、抽象的な労働の一つの実現形態としてのみ認められるという対立的で転倒した形で現われ、具体的有用労働とその一般的属性としての抽象的人間労働との関連がねじ曲げられるために、両者の関係が不可解なものになり、抽象的なものがなにか具体的なものから独立して具体的なものと並んで存在したり、あるいはなにか具体的なものを生みだしていくかのようなヘーゲル的な神秘化に迷い込むことにもなります。

(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」「a 貨幣蓄蔵」の2回目
2)金属流通の経済における貨幣蓄蔵の機能の一つに、一国に現実に流通する貨幣量をいつでも流通部面での飽和度に適合させるための、貨幣の流出流入の水路になるという機能がある。

貨幣蓄蔵については、現代においては金属貨幣の流通がなくなっているという事情のほかには、さほど難解な部分はないとおもわれますので、いくつかの引用だけで次の「b 支払い手段」に進みたいと思います。

・「使用価値としての商品は、ある特殊な欲望を満足させ、素材的な富の一つの特殊な要素をなしている。ところが、商品の価値は、素材的な富のすべての要素にたいするその商品の引力の程度を表わし、したがってその商品の所有者の社会的な富の大きさを表わしている。@
未開の単純な商品所持者にとっては、また西ヨーロッパの農民にとってさえも、価値は価値形態から不可分なものであり、したがって金銀蓄蔵の増加は価値の増加である。……」
・「金を、貨幣として、したがって貨幣蓄蔵の要素として、固持するためは、流通することを、または購買手段として享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。それだから、貨幣蓄蔵者は黄金呪物のために自分の肉体の欲望を犠牲にするのである。……」
・「蓄蔵貨幣の直接的な形態と並んで、その美的な形態、金銀商品の所有がある。それは、ブルジョア社会の富とともに増大する。……こうして、一方では、金銀の絶えず拡大される市場が、金銀の貨幣機能にはかかわりなく形成され、他方では、貨幣の潜在的な供給源が形成されて、それが、ことに社会的な荒天気には、流出するのである。」
・「貨幣蓄蔵は金属流通の経済ではいろいろな機能を果たす。まず第一の機能は、金銀鋳貨の流通条件から生ずる。すでに見たように、商品流通が規模や価格や速度において絶えず変動するのにつれて、貨幣の流通量も休みなく満ち引きする。だから、貨幣流通量は、収縮し膨張することができなければならない。あるときは貨幣<金銀>が鋳貨として引き寄せられ、あるときは鋳貨が貨幣<金銀>としてはじき出されなければならない。現実に流通する貨幣量がいつでも流通部面の飽和度に適合しているようにするためには、一国にある金銀量は、現に鋳貨機能を果たしている金銀量よりも大きくなければならない。この条件は、貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。蓄蔵貨幣貯水池は流通する貨幣の流入流出の水路として同時に役だつのであり、したがって、流通する貨幣がその流通水路からあふれることはないのである。」

※参考(「初版」での、第2版での一般的価値形態に相当する部分よりの引用)
・「1着の上着   =20エレのリンネル
u量のコーヒー =20エレのリンネル
v量の茶    =20エレのリンネル
等々
……
労働の直接的に社会的な物質化としては、リンネル、すなわち一般的な等価物は、直接的に社会的な労働の物質化であるが、他方、自分の価値をリンネルで示している他の諸商品は、直接的には社会的でない諸労働の諸物質化である。
実際にすべての使用価値が商品であるのは、ただ、それらが互いに独立な諸私的労働の諸生産物であるからにほかならない。私的労働、といっても、分業の自然発生的な体制の、独立化されているとはいえ特殊な諸分肢として、素材的には互いに依存しあっている私的労働である。それらの労働がこうして社会的に関係しあっているのは、まさにそれらの相違、それらの特殊な有用性によってのことである。それだからこそ、これらの労働は質的に違った諸使用価値を生産するのである。もしそうでないならば、これらの労働は相互にとっての商品にはならないであろう。他面では、このような違った有用な質だけではまだ諸生産物を諸商品にしはしない。もしある農民家族がそれ自身の消費のために上着とリンネルと小麦とを生産するとすれば、これらの物はその家族にはその家族労働のいろいろに違った生産物として相対してはいるが、しかしそれら自身が互いに諸商品として相対してはいない。もし労働が直接的に社会的な、すなわち共同の、労働であるとすれば、諸生産物は、それらの生産者にとっては共同生産物という直接的に社会的な性格をとるであろうが、しかし相互にとっての商品という性格はとらないであろう。とはいえ、われわれはここではさらに進んで、諸商品に含まれていて互いに独立している諸私的労働の社会的な形態がなににあるのか、ということを探求する必要はない。この形態はすでに商品の分析から明らかになっていた。@
諸私的労働の社会的な形態とは、同じ労働としてのそれらの相互の関係である。つまり、千差万別のいろいろな労働の同等性はただそれらの不等性の捨象においてのみ存在しうるのだから、それらの社会的な形態は、人間労働一般としての、人間労働力の支出としての、それらの相互の関係であって、このような人間労働力の支出は、すべての人間労働が、その内容やその作業様式がどうであろうとも、実際にそういうものなのである。どの社会的な労働形態においても別々な諸個人の労働はやはり人間労働として互いに関係させられているのであるが、ここではこの関係そのものが諸労働の独自に社会的な形態として認められるのである。ところが、これらの私的労働のどれもがその現物形態においては抽象的な人間労働のこの独自に社会的な形態をもってはいないのであって、それは、ちょうど、商品がその現物形態においては単なる労働凝固体という、すなわち価値という、社会的な形態をもってはいないのと同じことである。しかし、ある一つの商品の、ここではリンネルの、現物形態が、すべての他の商品がそれら自身の価値の現象形態としてのリンネルに関係するがゆえに、一般的な等価形態になる、ということによって、リンネル織りもまた抽象的な人間労働の一般的な実現形態に、すなわち直接的に社会的な形態にある労働に、なるのである。@
●「社会的であること」の標準は、それぞれの生産様式に特有な諸関係の性質から借りられるべきであって、それに無縁な諸観念から借りられるべきではないのである。先に明らかにされたように、商品は、生来、一般的な交換可能性の直接的な形態を排除しているのであって、したがってまた一般的な等価形態をただ対立的にのみ発展させることができるのであるが、これと同じことは諸商品のなかに含まれている諸私的労働にも当てはまるのである。これらの私的労働は直接的には社会的ではない労働なのだから、第一に、社会的な形態は、現実の有用な諸労働の諸現物形態とは違った、それらには無縁な、抽象的な形態であり、また第二に、すべての種類の私的労働はその社会的な性格をただ対立的にのみ、すなわち、それらがすべて一つの除外的な種類の私的労働に、ここではリンネル織りに、等置されることによって、得るのである。これによってこの除外的な労働は抽象的な人間労働の直接的で一般的な現象形態となり、したがって直接的に社会的な形態における労働となるのである。したがってまた、その労働は、やはり直接的に、社会的に認められて一般的に交換されうる生産物となって現われもするのである。
あたかも一商品の等価形態が、他の諸商品の諸関係の反射であるのではなくて、その商品自身の物的な性質から生ずるかのような外観は、個別的な等価物の一般的な等価物への発展につれて固まってくる。なぜならば、価値形態の対立的な諸契機は互いに関係する諸商品にとってもはや均等には発展しないからであり、一般的な等価形態にある一つの商品をすべての他の商品からまったく別なものとして区別するからであり、そして最後に、その商品のこのような形態は、実際にはもはや、なんらかの個別的な他の一商品の関係の産物ではないからである。
」(初版、国民文庫版、P73前後)

2019年4月24日

「読む会だより」2月用

「読む会」だより(19年2月用) 文責IZ

(前回の報告)
1月の「読む会」では引き続き「抽象的労働」についていくつかの質問や意見が出ました。
はじめに、「たより1月用」で紹介した1章4節の引用のうち「謎のような性格」とは何を指しているのかという質問が出ました。
チューターは、これははじめの方にある「商品の神秘的な性格」と言われていることと同じで、引用した部分のすぐ前の4節の冒頭にある『一つの感覚的であると同時に超感覚的であるもの』という意味だろうと述べました。
重要な点ですのでもう少し詳しく引用しておきますと、以下のようです。
・「商品が使用価値であるかぎりでは、その諸属性によって人間の諸欲望を満足させるものだという観点から見ても、あるいはまた人間労働の生産物としてはじめてこれらの属性を得るものだという観点から見ても、商品には少しも神秘的なところはない。人間が自分の活動によって自然素材の形態を人間にとって有用な仕方で変化させるということは、わかりきったことである。例えば材木で机をつくれば、材木の形は変えられる。それにもかかわらず、机はやはり材木であり、ありふれた感覚的なものである。@
ところが、机が商品として現れるやいなや、それは『一つの感覚的であると同時に超感覚的であるもの』になってしまうのである。机は、自分の足で床の上に立っているだけではなく、他のすべての商品にたいして頭で立っており、そしてその木頭からは、机が自分かってに踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げるのである。」(全集版、P96)
商品の使用価値(たとえば平面の台とそれを支える脚からなる机が、物を置いたり書き物をするのに便利だというような、その有用な物としての性質)は、ひとつの自然属性として感覚的に明らかです。しかしその価値のほうは、その生産のために支出された労働の、人間労働としての同質な性格に基づいた、社会的必要労働量としての労働の大きさの表現です。だから、こちらの方は机自身の自然属性として感覚的に把握できるようなものではなくてひとつの社会属性なのですし、それが価格として貨幣を媒介にして相対的に表現される場合においても、それは机自身の自然属性とは無関係な、机のみならず他のあらゆる商品がもつ社会的属性として商品世界との関係においてその大きさが表現されるものです。
商品としての机が「他のすべての商品にたいして頭で立っている」というのは、このような意味だと思われます。
ところが、一商品が貨幣として認められるようになると、貨幣(金)は「価値を表現する」諸関係から自立して、それ自身が価値という独立した“社会的な”自然属性をもった“物”として現れてきます。なぜならすべての商品が、その価値を物としての貨幣(金)と比較してその大きさを表現するのですから、価値とは何かを把握することができなければ、貨幣(金)そのものが価値であるように見えるほかないのです。

抽象的労働については、「抽象的と言われるが、すべてのものは具体的なものではないのか」という質問が出ました。
この間何回か、チューターは『資本論』初版の付録のⅠ(3)「β 等価形態の第二の特性 具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる」にある言葉を引用して抽象的ということの意味について説明してきたので、まずそこの部分を引用しておきます。
・「もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関連は不可解になるのである。」(初版、国民文庫版、P143)
ローマ法でもドイツ法でも、法というかぎりでは人間の規範を規制するといった一般的な内容をもっていることでしょう。個々には具体的な違いはあるとしても、そうした同一な一般的な内容を持つものを、私たちは頭のなかで抽象してたとえば法という形で固定するのだと思います。これは法といった社会的なものに限らず、自然物の分類等でもそうするのだと思います。
問題は、確かにそうした抽象は人間の頭のなかで行われるのですが、しかしながら人間が抽象を行なうことができるのは、客観的な外的世界のなかにそうした抽象を可能とさせる同一性と区別が、つまり関連性や法則性が存在するからに他ならないということだと思います。「抽象的なもの」は“物質”として存在するというわけではなくて、“物”に限らず種々の具体的な事柄のなかに、その共通な属性として存在するのではないでしょうか。
マルクスはこの初版の引用のすぐ前の部分で、価値表現以外の場合には、抽象的一般的なものは具体的なものの属性として認められるとして、こう語っています。
・「価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。@
たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。@
この取り違えは不可避である。というのは、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無差別な人間労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が別種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてのみのことだからである。」(同、P142)

関連して、『資本論』の時代から労働内容は変化しており、今後AIなどが発展すると、いわゆる工場労働といったものはなくなると思われる。そんななかで抽象的人間労働というのが存在しうるのか、という疑問も出されました。
確かにいわゆる生産的労働の比重は下がっています。しかし社会生活を支える根底が生産的労働であること、そして生産的労働においては、各種の具体的労働は、社会的労働の一部分として抽象的労働としての側面を同時にもつことに変わりはない、とチューターは考えます。

なお、質問のあったスミスの見解の概要については、資本論辞典(青木)のなかのスミスの項での説明をコピーしておきましたので、参考願います。

(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」「a 貨幣蓄蔵」の1回目

1)商品変態の連続的な循環と貨幣の無休の流通が中断されると、貨幣は物質代謝の単なる媒介物から社会的富の獲得という自己目的となり、流通手段としての鋳貨から蓄蔵貨幣へと固化する。それとともに貨幣は商品流通の単なる媒介者から、私的に所有することが可能な“物”がもつ社会的富の力として現われる。

その金(または銀)としての“肉体”をもって社会的富を代表する、「貨幣としての貨幣」の第一の形態として挙げられるのが「a 貨幣蓄蔵」です。その冒頭部分にはこうあります。

・「二つの反対の商品変態<W─GとG─W>の連続的な循環、または売りと買いとの流動的な転換は、貨幣の無休の流通、または流通の永久自動機関としての貨幣の機能に現われる。変態列が中断され、売りが、それに続く買いによって補われなければ、貨幣は不動化され、または、ボアギュベールの言うところでは可動物から不動物に、鋳貨から貨幣に、転化する。
商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物、商品の転化した姿態または商品の金蛹を固持する必要と情熱とが発展する。商品は、商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態と取り替えるために、売られるようになる。この形態変換<W─G>は、物質代謝の単なる媒介から自己目的になる。<別の商品と取り替えられることのない価値肉体としての金(または銀)という>商品の離脱した姿は、商品の絶対的に譲渡可能な姿またはただ瞬間的な貨幣形態として機能することを妨げられる。こうして、貨幣は蓄蔵貨幣に化石化し、商品の売り手は貨幣蓄蔵者になるのである。」(全集版、P170)

そして、「貨幣としての貨幣」である貨幣蓄蔵とともに、貨幣の力が増大してそれは「奴僕から主人になる」(『経済学批判』)ことをマルクスは次のように説明します。

・「商品を交換価値として、または交換価値を商品として固持する可能性とともに、黄金欲が目ざめてくる。商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が増大する。……
貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。……。貨幣では商品のいっさいの質的な相異が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相異を消し去るのである。しかし、貨幣はそれ自身商品であり、だれの私有物にでもなれる外的な物である。こうして、<どのような商品とも一定量において交換可能であるという>社会的な力が個人の個人的な力になるのである。それだからこそ、古代社会は貨幣をその経済的および道徳的秩序の破壊者として非難するのである。……」(同、P172)

2019年2月10日

「読む会」だより1月用

「読む会」だより(19年1月用) 文責IZ

(前回の報告)
12月の「読む会」は16日に開催されました。(なお1月以降しばらくの間、「読む会」は第2日曜日の午後1時半からとさせていただきます。)

ここしばらく問題となっている抽象的人間労働にたいする見田の見解については、商品についてのいわばまとめが述べてある第4節のうち、次の部分をもう一度参照していただければと思います。
・「だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てはこないのである。それはまた価値規定の内容からも出てこない。なぜならば、第一に、いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量についていえば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった。といっても、発展段階の相異によって一様ではないが。最後に、人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになるのである。
それでは、労働生産物が商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生ずるのか? 明らかにこの形態そのものからである。いろいろな人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量という形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働の前述の社会的規定がそのなかで実証されるところの彼らの諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。」(全集版、P96)

無論ここではロビンソンのような孤立した架空の人間ではなくて、発展した分業の中にある現実的な近代的な人間が問題です。そこでは実際に相異なる諸労働の生産物が交換され、一定の比率で価値としては同等なものとされるのですから、それまでに述べられてきたように、価値の内容は労働の具体的有用的形態とは区別される抽象的人間労働としての同等性ということになるほかありません。そして、このことは労働がどれをとっても人間有機体の諸機能であるという「生理学上の真理」からも明らかだろうと、ここではその“根拠が”(“理由”ではなくて)述べられているにすぎないのです。

「読む会」の中でも価値とは何か、抽象的労働とはどのようなものかが分かりにくいという意見が何度も出されています。
商品の価値(交換価値)とその「実体」である抽象的人間労働との区別──つまり現象形態とその本来の内容との違い──を別にすれば、ここで「労働の量は感覚的にも労働の質とは区別されうる」と述べられているところは、商品の価値やその価値実体である抽象的人間労働(価値形成労働とも呼ばれます)の理解に役立つのではないかと思われます。
もちろんある商品の生産のために支出された社会的に必要な労働の大きさは、個人的な労働の場合と違ってその大きさが直接に測られるわけではありません。しかしながらロビンソンの場合と同じように、ある社会的な使用価値の一定量を生みだすためには、社会の総労働のうちからいくらかの大きさの労働が、つまり総支出労働時間のうちから一定の労働時間が支出されるということは明らかです。この場合の商品は、ある有用な物としてではなくて、社会が支出した“労働時間の塊”として評価されているのであり、それが商品の価値なのです。そして重要なことは、こうした“労働時間の塊”としての商品の価値は、架空のものではなくて[、発展した商品生産社会である資本主義社会においては商品のもつ社会的な属性として]実際に存在しているということです。だからこそ商品は千差万別の使用価値をもつにもかかわらず、すべて「価格」をもつことで自らの価値存在を表現しているのですし、すべての商品が社会的労働時間の塊としては、すなわち抽象的な無差別な労働の結晶としては、同質であり量だけ違うのだと語っているのです。(商品の価格は、価値の表現としては、けっして生産者が勝手につけることの出来るようなものではありません。)
言うまでもなく、商品であろうとなんであろうと“物”が、その自然属性が、その生産のために人間が支出した労働時間そのものを表現することなどありえません。しかしながら、商品は一般的等価物を生みだし、この一般的等価物(貨幣)のもつ一般的交換可能性を媒介にして、“物”の姿をもって相対的に支出労働時間を表現する方法を獲得するのです。そしてこの時はじめて商品は使用価値であると同時に交換価値でもあるという二重の姿を実際に獲得するのです。

またチューターが、抽象的人間労働の側面は、将来、生産物=商品の“価値”という形をとることなく、社会的労働の眼にみえる内容として発展するのではないかと述べた点にかんしては、むしろ“価値”ではなくて「分配」の問題ではないか(労働分配率が低すぎる)という意見が出されました。

(説明)の部分では、引用した『経済学批判要綱』の終わりにある「交換価値と交換価値に対応する社会の生産様式とに含まれている基本的矛盾」とは何か、という質問が出ましたが時間切れとなり、次回の宿題ということになりました。
生産物の使用価値ではなくて交換価値が問題となるためには、まず私的な生産と発展した分業社会が前提されているということが重要です。そこでは自分のための消費が問題となるのではなくて他人のための使用価値が、したがって交換価値が問題になります。この場合の交換価値は、今回も触れたように、商品のもつ使用価値=投下された個々の労働の「質」ではなくて、分業のもとで投下された人間労働一般の支出として同等な労働の「量」であり、“労働時間の塊”として見られた商品なのです。商品社会の富は、素材そのものがもつ使用価値ではなくて、その交換価値すなわちその生産に支出された労働量と同等なものとして存在するあらゆる商品であり、商品一般だという理解が重要に思われます。だからこそ、商品一般を代表するものとしての貨幣が、貨幣商品が生まれることになるのです。
分業に基づく社会では、私的に生産された生産物に含まれる相異なる有用的な労働が、同時にそれとはまったく矛盾する社会的に同等な抽象的な労働でもなければなりません、これが基本的な矛盾です。それは、商品が自らを使用価値であるとともに価値でもあるものとして表現するために、自らを商品と貨幣商品とに分裂させるということでもあります。

また、その前に「たより」の(説明)の部分の最後は飛躍しているのではないかという意見が出され、チューターもよくなかったと反省して、元の文章を以下のように訂正することになりました。
「抽象的人間労働としての諸労働の同等性が、商品生産の基礎のもとでは、対象化された商品の価値として、さらには金銀という物として現われます。その結果は、[人間の外部に存在する自立的な“物”としての金銀が、人間の社会的な労働を支配するということでしょう。]」
☆訂正前の原文は、[社会的労働が人間によって制御されるのではなくて、逆に人間の外部に存在する物が、貨幣としての金銀が、自立的な運動を開始する(資本の形成に向けて)ということでしょう。]でした。

今回の(説明)は、前回の3節の冒頭部分が『経済学批判』ではどのように述べられているかの紹介だけになります。申しわけありません。

(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」の1回目 のつづき

1)「貨幣としての貨幣」を理解することの困難について のつづき

第3節の冒頭部分は、『経済学批判』では次のようになっています。
・「……こうして、商品が、その価格でもって、一般的等価物ないし抽象的富である金を代表しているとすれば、金は、その使用価値でもって、あらゆる商品の使用価値を代表しているのである。したがって金は、素材的な富の物質的代表物なのである。それは《すべてのものの要約》(ボアギュベール)であり、社会的富の総括である。同時にまたそれは、形態からいえば一般的労働の直接の化身であり、内容からいえばすべての現実的労働の精髄である。それは個体としての一般的富である。流通の媒介者としての姿では、金は、ありとあらゆる侮辱をこうむり、けずりとられ、そしてただの象徴的な紙きれになるまでうすくされさえした。だが貨幣としては、これにその金色(こんじき)の栄光がかえしあたえられる。それは奴僕から主人になる。それはただの下働きから諸商品の神となるのである。」(全集版、P169)

要するに、貨幣の第一の機能である価値尺度の機能においては、貨幣は観念として計算貨幣として存在すればいい。また第二の機能である流通手段の機能においては代理によてその機能を果たすことができる。しかし続いて述べられるような蓄蔵貨幣、支払い手段、世界貨幣といった機能においてはそうはいかず、現実的な「肉体をもった」金(上記の言葉では「個体としての一般的富」)としての貨幣でなくては果たせないものである。それが貨幣の第三の機能である「貨幣としての貨幣」なのだと、第3節の冒頭部分では言われているのです。

2019年1月13日

「読む会」だより12月用

「読む会」だより(18年12月用) 文責IZ

(前回の報告)
11月の「読む会」は都合により第2日曜日の11日に変更となり、ご迷惑をおかけしました。
前回は冒頭、「しばらく話題になっている宇野弘藏のことを、佐藤優(元外交官)なども高く評価しているようですね」という参加者からの発言がありました。
価値とは何かが把握できて、はじめて労働力の価値とはどのようなものかが分かるのは至極当たり前のことであって、労働力の価値によってはじめて価値が規定されるといった宇野学派の理屈は逆立ちしています。そうした理屈が持ち出されるのは、むしろ政治的な動機によるものと言うべきでしょう。というのも、労働力の価値の規定よりも価値の規定のほうが根底だと言うならば、ここからは労働が価値という物の姿をとることを止めさせよ!という社会主義的・革命的な要求が出てきます。しかし逆に、価値の規定よりも労働力の規定のほうが根底だというならば、そこからは労働力の価値を価値どおりに支払えという無力な半ブルジョア的な要求しか出てこないからです。チューターにはそうとしか思えません。

次に、10月に紹介した見田の見解について、チューターから以下のように評価を変えたいという報告がありました。
「商品生産社会にあっては、個々人の労働が社会性をもつのは、商品の価値として対象化されて一定の割合でたがいに等置され、交換しうるものであるかぎりであり、つまりそれらの抽象的労働としての同等性においてである」という見解はまったくその通りと思われます。しかし「有用的諸労働がいかに異なっていようとも、それらは人間的有機体の諸機能であるということ、およびかかる機能はいずれも、……本質的には人間の脳髄・神経・筋肉・感官などの支出であるということは、一つの生理学的真理である」というマルクスの文章を引いて、「価値の概念に到達するためには、その自然的な実体たる抽象的人間労働を自然的実体としてとらえることがその第一の条件であって、これを社会的、歴史的なものだとすれば価値なるものは得体の知れぬものとなる」と述べることは、労働のもつ抽象的人間労働という社会的な(したがってまた歴史的な)性質を、労働のもつ自然的な性質に(したがってまた有用的労働へと)還元することであり、正しくないと思われる。労働のもつ抽象的人間労働としての同質な側面は、1章3節でマルクスがアリストテレスの例で語っているように商品生産の発達とともに認識され得たものであり、それは人間労働力の発展とともに社会的労働の内容として発展すると考えるべきと思われます。

この報告に対しては、「例えばロビンソンの例をとっても、彼の労働は社会的なものではないとはいえ、彼のさまざまな有用的労働が、彼のもつ同じ労働力の支出の一部分でもあるという抽象的人間労働の側面をもっていることは永遠に変わることのない事実であろう。しかしそうではあってもそういうことを彼自身が認識して行なっているかどうかで違いがあるのではないか」という意見がまず出されました。
チューターは、とても参考になる意見でありがたい。ロビンソンの例をとっても、彼の生産的活動=労働は、その目的や対象となる自然物が異なるのに応じて有用的労働としては質的差異をもち、それぞれに姿かたちは変わらざるを得ない。しかしそれらの労働は、いずれも彼の労働力の総支出のうちの一部分としては量的差異しかもたないという抽象的人間労働の側面を同時にもっているだろう。この同じロビンソンの労働力の支出としての同質性は、社会的な労働とは違って個人的な活動としての統一性に基づくのですが、にもかかわらず、それは種々の労働の有用性とは異なるロビンソンの労働力の支出の一部分としての同質性を持ち、だから時間で計りうることになります。
このように労働のもつ有用的側面・性質と抽象的側面・性質とは「労働の二面性」として同じではありえないのですから、見田のように「生理学的真理」から直接に「抽象的人間労働そのものの自然的性質」といったものを引き出すことは、抽象的人間労働を自然的性質へ、結局は有用的労働に還元することになってしまいます。
抽象的人間労働が「生理学的真理」であるかどうかが問題なのではなくて、見田自身が語っているように、商品生産のなかでは労働の無差別な同質性という抽象的側面が発展し、労働の有用性ではなくてその無差別な側面こそが社会的労働の主要な形態となるということが重要に思われます。
『資本論』1章2節でわざわざ「商品に表わされる」労働の二重性と言われているように、価値が抽象的人間労働としての同等性であると人々が認識できるようになったのは、商品生産のつまり資本主義の発展の成果です。そして諸個人が、各自の労働を社会の総労働の一部分として自覚的に支出する(つまり生産物=商品の“価値”という形をとることなく、直接に社会的必要生産物にたいして総労働時間の配分が行われる)というのが、社会主義の内容だろう、とチューターは述べました。
これに対して別の参加者からは、労働の抽象的人間労働としての性質は資本主義に独特ではなくて将来の社会主義にも残るということか、という質問が出されました。
チューターは、人々の生活を支える生産的労働の総体を、社会の成員全員が意識的に分配し、また平等な労働時間を支出しあいながら担うという形で、抽象的人間労働は社会的労働の眼にみえる内容として発展するのではないか(個々の生産物の生産にはそれぞれ異なった有用的労働が必要なことに変わりはないが)、だからそこでは「実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表わす」(第1章4節、全集版P106)、と指摘されているのではないかと述べました。
(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」の1回目

1)「貨幣としての貨幣」を理解することの困難について

第3節は次のようなパラグラフで始まります。
・「価値尺度として機能し、したがってまた自分の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品は、貨幣である。それゆえ、金(または銀)は貨幣である。@
金が貨幣として機能するのは、一方では、その金の(または銀の)肉体のままで、したがって貨幣商品として、現われなければならない場合、すなわち価値尺度のように単に観念的にでもなく流通手段の場合のように代理可能にでもなく現われなければならない場合であり、@
他方では、その機能が金自身によって行われるか代理物によって行われるかにかかわりなく、その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値としての他のすべての商品に対立させて固定する場合である。」(全集版、P169)

それがどうしたとおっしゃる方もおられるかもしれませんが、『経済学批判要綱』の中では、(1)尺度としての貨幣、(2)交換手段としての貨幣と区別して、第3節で触れられる貨幣については「貨幣としての貨幣」(『要綱』、大月版P971)と呼び、そして「貨幣をその第三規定で把握することの困難」について以下のように触れています。
・「貨幣としての完全な規定性での貨幣を把握するにさいしての特別の困難──経済学は、<使用価値と交換価値という二つの規定のうち……レポータ>その規定の一つを他の規定のためにわすれ、一方の規定がくつがえされれば他の規定に訴えるというやり方で、この困難をのがれようとつとめる──は、一つの社会関係が、すなわち個人相互間の一定の<同等な……レポータ>関係が、ここでは金属として、石として、すなわち彼らの外部にある純粋に有体な物として、つまりそのものとして自然のうちに見いだされ、また、もはやその自然的存在から区別されうる何らの形態規定もそれに残されていない物として、現われることにある。@
金および銀は、それ自体貨幣ではない。自然が貨幣を生産しないことは、為替相場や銀行業者を生産しないのと同様である。ペルーやメキシコでは、金銀が装飾品として存在し、完成した生産組織がそこに見いだされるとはいえ、金銀は貨幣としては役だっていなかった。貨幣であるということは、金銀の自然的性質ではなく、したがって物理学者、化学者等にはそういうものとしては全然知られていなかった。@
だが貨幣は、直接に金銀である。尺度としてみれば、貨幣はなお<商品の価値表現における……レポータ>形態規定が主となっているが、この貨幣が外的にもその刻印で現われている鋳貨としてみれば、いっそうそうである。だが第三規定においては、すなわち尺度であり鋳貨であるということが貨幣の<固有の……レポータ>機能として現われるにすぎない完成状態においては、あらゆる形態規定は消滅している。すなわちその金属的存在と直接に一致している。そこでは、貨幣であるという規定がたんに社会的過程の結果であるというふうには全然みえない。貨幣があるのである。このことは、貨幣の直接的使用価値<その自然的属性……レポータ>が、生きている個人にとっては少しもこれらの役割とは関係せず、また一般に純粋な交換価値の権化としての貨幣においては、交換価値とは異なる使用価値への連想は、まったく消え去っているだけに、いっそうむずかしい。だからここでは交換価値と交換価値に対応する社会の生産様式とにふくまれている基本的矛盾が、完全な純粋性においてたちあらわれる。」(同、P159)

抽象的人間労働としての諸労働の同等性が、商品生産の基礎のもとでは、対象化された商品の価値として、さらには金銀という物として現われます。その結果は、[人間の外部に存在する自立的な“物”としての金銀が、人間の社会的な労働を支配するということでしょう。]

社会的労働が人間によって制御されるのではなくて、逆に人間の外部に存在する物が、貨幣としての金銀が、自立的な運動を開始する(資本の形成に向けて)ということでしょう。

2018年12月18日

「読む会だより」11月用

「読む会」だより(18年11月用) 文責IZ

・今月はチューターの都合により、定例の第3日曜日ではなくて、第2日曜日に開催を変更させていただきました。あらかじめ予定を組んでおられる方が多く、参加者が少ないので、今回の「たより」は、前回、前々回の報告と補足だけにさせていただきます。申し訳ありません。

(前回、前々回の報告と補足)

・9月の「読む会」には、岩波新書(再版)の「マルクスの哲学」を今読んでいるという94歳のSさんが参加して下さいました。(戦前の学生時代に、隠れてマルクスの本を読んだりした貴重なお話を聞かせていただきました。)

10月の「たより」のなかで、「商品は、自らが一般的抽象的労働の対象化であるということを直接その自然の姿で表現する代わりに、一般的等価物である貨幣を価値そのものと見なし、一定量の貨幣がその商品と等価であり、交換可能だということ、つまり『価格』をもつということによって表現する」と述べた点について、Sさんから「普遍的な労働が貨幣になるということか」という質問が出ました。チューターは、普遍的なつまり抽象的な労働が貨幣になるというよりも、価値としての抽象的な労働が貨幣として表わされ、そのことによってすべての商品に含まれる相異なる労働が、抽象的労働としての(すなわち価値としての)共通な姿をもち、そのことによって使用価値であるとともに価値であるという二重な姿をもつ、ということだろうと答えました。

また、「初版・付録」からの引用に関連して、具体的労働と区別される抽象的労働というのがよく分からないという質問も出されました。チューターは、抽象的労働の理解は重要なので、次回、見田石介が『資本論の方法』で述べているところを参考として紹介してみたい。ただ、どこかで見田は「一般的なものも存在する」とか語っているが、今回「初版・付録」で引用しているところにも触れてあるように、一般的なものの存在の仕方は自然的なものの存在の仕方とは異なっているようにチューターは考えているが、と述べました。

・10月の「読む会」では、9月の話に沿って、見田石介の『資本論の方法』と関連文書のなかの2か所をとって紹介しました。
ここでは、「個人労働の社会性を“保証する”」ということは、どういうことか、という質問などが出ました。チューターは、見田以外の人が「保証する」いう言葉を使っているかどうかは知らないが、社会的な労働として“認められる”という程度の意味ではないか、と答えました。
「たより」の最後に触れましたように、直接には私的な生産を基礎にしている商品生産社会にあっては、個々人の労働が社会性をもつのは──従来の社会とは異なって──、商品の価値として対象化されて一定の割合でたがいに等置され、交換しうるものであるかぎりであり、つまりそれらの労働の抽象的労働としての同等性においてである、という見田の指摘はその通りと思います。

しかし、紹介した見田の文章は、読み返してみますとやはりいろいろ大きな問題があります。とりわけ問題となっている抽象的労働の理解には、むしろ誤解を与えたのではないかと反省しています。幾つか思い当るところを指摘しておきます。
はじめの「論理歴史説」の批判の部分に、まず決定的な問題が出てきます。
見田は引用の2番目のパラグラフ中ほどで、「しかもこの労働の二面性は、たんに客観的にそうであったばかりでなく、過去においては主観的にも人間に意識され、強い関心をもたれ、それに従って人間社会の総労働が各生産分野に配分されてきた。……だが、私的生産という条件のもとでは、したがって人間がもはや社会的総労働を意識的に配分できなくなった条件のもとでは、この自然的な抽象的労働の対象化は、……社会的実体──価値に転化する」と述べています。
しかし商品生産が発展する以前の時代に、「社会的総労働が意識的に配分されてきた」とはいっても、それは具体的労働そのもの(年貢米をつくる農業労働といった)が社会的労働の姿をとっているからこそ、具体的労働の姿そのもので行なわれたのであって、決してそれは抽象的人間労働の姿として、すなわち労働時間一般として行なわれたのではありません。第1章第4節でのマルクスの指摘を、見田は何か読み間違いをしているとしか思えません。

さらに見田は、「第一に、有用的諸労働または生産的諸活動がいかに相異なっていようとも、それらは人間的有機体の諸機能であるということ、および、かかる機能はいずれも、この内容や形式がどうであろうとも、本質的には人間の脳髄・神経・筋肉・感官などの支出であるということは、一つの生理学的真理である。」というマルクスの指摘をとってきて、それを「抽象的人間労働そのものの自然的性質」であると言います。
しかし、見田はマルクスが以下のように語っていることを忘れています。
・「ところが教授大先生にあっては、人間の自然にたいする関係は、はじめから実践的な関係ではなく、つまり行為によって基礎づけられた関係ではなくて理論的関係であ<る>」(「ワーグナー評注」全集版、P362)
・「しかし、商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読み取ることができなかったのであって、それは、ギリシャの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働の不等性を自然的基礎としていたからである。……しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。」(第1章、第3節、全集版P81)
マルクスが「生理学的真理」と述べているのは、人間労働力“一般”の支出というのがたんなる観念ではなくて、現実的・自然的基礎をもっているということにすぎないとチューターは考えます。労働の抽象的労働としての側面は、人間労働力の発展とともに社会的労働の内容として発展すると捉えるべきであって、それを「抽象的人間労働そのものの自然的性質」としてしまうのは非実践的な(あるいは非社会的な)、理論的な関係に抽象的労働を貶めることではないのでしょうか。

・今回は説明部分はありません。次回の説明は、第3章、第3節「貨幣」からの予定です。

2018年11月15日

「読む会」だより10月用

「読む会」だより(18年10月用) 文責IZ

今回は、地域のお祭りと重なったために出席できないという連絡を受けました。
そこで、今回は、前回議論になった「抽象的な労働」についての見田石介(前回は、旧姓の甘粕しか思い出せませんでしたが)の所説を2、3紹介することで、理解を深めたいと思います。労働の二面性とりわけその抽象的労働としての側面は、価値の理解、したがってまた貨幣や資本の理解にとって極めて重要な事柄ですので。(なお、前回チューターは見田の見解についての疑問を述べましたが、うろ覚えだったためかどうか、少なくとも今回あげている部分は的確な指摘であるように思います。 なお、@と改行後のブランク、<>内の補足はレポータのもの、傍点は“”に置き替えています。)

(1、『論理=歴史説とマルクスの方法』(大月、著作集3巻)、第4節「論理=歴史説による分析の否定 1」より)

「こうした誤った自然的なものへの嫌悪は、抽象的労働の場合にも同じように現われる。すなわち価値を、その内容、その実体をなす抽象的労働から理解すること、つまり抽象的労働から価値への移行は、この立場では発展でなければならぬから、抽象的労働は価値という社会的、歴史的なものに発展しうるようなやはり社会的なもの、ブルジョア的なものでなければならない、と言わざるをえないし、また事実そう主張される。なるほど抽象的な労働がそうしたものであれば、価値に発展することもできよう。しかしこれもいまみた使用価値の場合と同じことであって、同語反復であり、分析の拒否である。というのもそうした社会的な性質をもった抽象的労働は何であるかといえば、それはとりも直さず価値だからである。価値とはそうしたもののことである。だからそれは価値は価値になる、という無意味なことを言っているか、もしくはマルクスが価値を分析したのをもう一度表象としての価値にもどしてしまうことかである。

人間の労働が一定の使用価値をもたらす合目的的な活動としては具体的労働であり、筋肉、神経の支出としては抽象的労働であるという事実は、労働がいかなる歴史的生産様式のもとにあり、いかなる社会的形態をとろうと、永遠に変わることのない自然的な事実である。過去の社会において、あるいは将来の社会において、労働が一面において具体的労働であるにしても、他面においてこうした抽象的労働でなくなるような事態があったわけでも、あるわけでもない。そうしたものはおよそ労働とはいえないからである。しかもこの労働の二面性は、たんに客観的にそうであったばかりでなく、過去においては主観的にも人間に意識され、強い関心をもたれ、それに従って人間社会の総労働が各生産分野に配分されてきた。そうでなければ人間社会はおよそ発展しえなかったであろう。だが私的生産という条件のものでは、したがって人間がもはや社会的総労働を意識的に配分できなくなった条件のもとでは、この自然的な抽象的労働の対象化は、一見、奇妙にも、だが当然ながら、社会的実体──価値に転化する。なるほど価値は社会的なもの、しかも一定の歴史的な社会的なものである。が、その実体そのもの、その内容は、どこまでも自然的な生理学的なものである。マルクスは商品の物神性を分析しているところで、この価値の内容、実体そのものについてつぎのように言っている。

『第一に、有用的諸労働または生産的諸活動がいかに相異なっていようとも、それらは人間的有機体の諸機能であるということ、および、かかる機能はいずれも、この内容や形式がどうであろうとも、本質的には人間の脳髄・神経・筋肉・感官などの支出であるということは、一つの生理学的真理である。第二に、価値の大いさの規定の基礎をなすもの、すなわち右の支出の時間的継続、または労働の量についていえば、この量は、感覚的にも労働の質から区別されうるものである。どんな状態のもとでも人間は、発展諸段階の相異するにつれて同じ度合いにではなかったが、──生活手段の生産に要費する労働時間に関心をもたねばならなかった。最後に、人々が何らかの様式で相互のために労働しあうや否や、彼らの労働もまた、一つの社会的形態を受け取るのである。』(『資本論』……)

この抽象的労働そのものの自然的性質をどうして否定しえようか。価値なるものをたんに社会的形態としてとらえるだけではまだ不十分であって、自然的、永遠的な抽象的労働の対象化が社会的形態をとったものとして、その実体の側面とその社会的形態の側面の二つをとらえてはじめてそれは完全に規定される。この自然的な抽象的労働の側面を否定してしまっては、価値の実質も、その大きさを規定するものもわからず、物神性もわからず、その歴史性もわからないのは、商品における使用価値の分析の場合と同じことである。

多くの人々は抽象的労働そのものの社会性と歴史性とを証明しようとして、マルクスが『序説』においてこれを近代的なカテゴリーだとしたことを理由としてもち出しているが、マルクスがそれを近代的といったのはたんにブルジョア社会において労働が単純化し普遍化し、かつ労働の自由な移動によって、抽象的一般的労働が眼にみえるものとなり、経済学者によって労働一般がカテゴリーとして固定されるにいたった事実を言っているだけで、抽象的労働そのものがブルジョア的な社会的カテゴリーであると言ったのではない。それはちょうど酸素や炭素が近代社会においてはじめて分離され、直接に認識しうるものになったとしても、酸素や炭素そのものが社会的、近代的なカテゴリーとならないのと同じことである。抽象的労働は近代社会においてすでに眼にみえるものになったとすれば、将来の社会においては、人間の能力も職業もいよいよ固定化されなくなり、それ<抽象的労働>がいよいよ感覚されうるものとなることは明らかであるが、その場合、われわれは抽象的労働そのものを社会主義的なものと言わないだろう<それは総労働の社会的配分とは別のことだから……レポータ>。それと同じことである。@
価値の概念に到達するためには、その自然的な実体たる抽象的人間労働を自然的実体としてとらえることがその第一の条件であって、これを社会的、歴史的なものだとすれば、価値なるものは得体の知れぬものとなる。マルクスが商品の分析を自然的な労働の二重性にまでさかのぼってやったこともまるで無意味になるのである。」(著作集3巻、P93~)

(2、『資本論の方法』(大月、著作集4巻)、2章2節第1項「抽象的労働と社会的労働」より)

わたしはマルクスの商品の分析をみて、それがまず使用価値と価値とを純粋に分離するものであり、この場合の使用価値は、一分子の社会的なものをも含まない、したがって歴史的に規定されるものでもない、ただの使用価値であることをみたが、ここでは価値そのものの分析をすこし立ち入って考察してみよう。
マルクスは商品を使用価値と価値とに分析したというのは、つまり価値そのものをも分析したことであるが、ここでも大切なことは、抽象的労働そのものは労働の永遠の側面であって、それにとっては価値という形態をとることはどうでもよいものであり、それはすこしも価値を含蓄しないし、価値に移行する必然性をもつものでない、ということである。
抽象的労働から価値への上昇が単純な総合過程であるのは、ちょうど使用価値から商品への上昇がそうであるのと同じであること、このことをはっきりとみることである。
マルクスは「労働の二重性」において、紡ぐことと織ることとが、同一人の仕事であったような過去の社会においても、またそれが個人の固定的な職業となったブルジョア社会においても、労働はどんな場合でも、一面ではその形態にかかわりのない神経、脳、手足、感官の支出としての抽象的一般的労働であり、他の一面では紡ぎや機織りとしての具体的有用労働であることを明らかにして、この二つの労働について、次のように総括している。
『すべての労働は、一面では、生理学的な意味での人間的労働力の支出であって、この同等な人間的労働または抽象的人間的労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間的労働力の支出であって、この具体的有用的労働という属性において、それは使用価値を生産する。』(『資本論』……)
このように、労働一般は、抽象的労働と具体的労働との二面をもっているが、私的生産という条件のもとでは、この抽象的労働が対象化し物化して価値となる。価値とはそうしたものだ、というのがマルクスの明らかにしていることである。
このことは、マルクスが「商品の物神性」で商品の物神性が価値規定の“内容”からくるものでないことを明らかにしている個所をみると、いっそうはっきりとわかる。マルクスはそこで価値の諸規定の内容についてつぎのように言っている。
『種々の有用的労働または生産的労働がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能であるということ、そしてこのような機能は、その内容と形態がどうであろうと、すべて本質的には人間の脳、神経、筋肉、感官などの支出であるということは、一つの生理学的真理である。第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわちそれらの支出の継続時間、また労働の量についていえば、労働の量は感覚的にも労働の質から区別されうるものである。どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった。と言っても発展段階の相異によって一様ではないが。最後に、人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになるのである。』(『資本論』、……)
すなわちマルクスは価値を分析して、その実体、内容を明らかにしているが、この実体、内容、はまずすこしも歴史的なものでなく、労働そのものの永遠の属性、その抽象的人間的労働としての一側面であり、またその価値の量を規定するものも、やはりどんな社会においても、人間の関心事であったところのその労働の分量、すなわち生産力のそれぞれの発展水準のちがいによってちがいがあるにしても、穀物や糸や布やをつくるのに社会的に平均的に必要とされる労働の継続時間にほかならぬことを示しているのである。これもやはりすこしも商品社会に特有のものではない。
ところが、こうした労働の抽象的労働としての側面が同質、同等なものであり、したがって個々人の労働がこの側面から見れば互いに取り替えうるものであるということは、これまでの社会ではすこしもその個々人の労働の社会性──一方が他方のために他方が一方のために労働しているという──をなすものではなかった。
無意識的、習慣的にしろ、個々人の労働がはじめから社会的分業の必然的な一環として規定されていた社会では、個々人の労働の具体性がすでにその社会性を表わし、それを保証するものであった。
だが直接には私的で、したがって無政府的な商品生産社会では、個々人は何らかの使用価値をつくっているというだけでは、その労働の社会性をすこしも保証するものでない。
ここでは同時に、個々人の労働は抽象的労働として他の個人の労働と同質、同等のものであり、一定の割合ではたがいに等置され、交換しうるものだ、という点ではじめて、その個人労働の社会性が保証される。したがって抽象的労働というそれ自身としては生理学的な事実、たんなる自然的事実が、ここでは一つの社会関係をあらわすもの、一つの社会的実体となる。
したがって、価値は永遠の抽象的労働がとる一つの歴史的な形態であるが、また、やはり永遠の社会的労働の一つの歴史的形態でもある。これがマルクスが、価値規定の内容として、『最後に、人間が何らかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働も社会的な形態をもつことになる』とのべていることの理由である。
マルクスが、このように労働一般の属性、その永遠の生理学的な真理から価値へ上昇するとともに、他方ではまた社会的労働という社会的な事実ではあるがやはり永遠の真理であるという意味では一つの自然法則から、価値に上昇しているのである。
価値放送を説明したマルクスのクーゲルマンあての手紙のうちにこのことがよく示されている。
『どの国民も、一年とは言わず二、三週間でも労働をやめれば死んでしまうであろうということは、どんな子供でも知っています。また、種々の欲望量に対応する生産物量が社会的総労働の種々の量的に規定された量を必要とするということも、知っています。この、一定の割合での社会的労働の分割の必要は、けっして社会的生産の特定の形態によってなくされうるものではなく、ただその現象様式を変えうるだけだということは、自明です。
自然法則は一般に廃棄されるものではない。歴史的に種々に異なる諸状態のもとで変化しうるのは、、かの諸法則が貫かれる形態だけです。そして、社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態において、このような一定の割合での労働の分割が貫徹される形態、それがまさにこのような生産物の交換価値なのです。』(「資本論にかんする手紙」……)
この、社会的労働一般、社会の総労働が社会の総欲望に照応して一定の割合で分割されねばならないということのうちにも、それが価値という形態をとらねばならぬということはすこしも含蓄されていない。それは価値へ移行する必然性をすこしももっていない。この移行がやはり単純な総合過程であることも明らかである。
このことはまったく当然のことであって、もしここでマルクスの分析したものが、ただの抽象的労働、ただの社会的労働でなく、価値的な、価値に制約された、あるいはブルジョア的なブルジョア、資本に制約された抽象的労働や社会的労働であるとすれば、それは分析でもなんでもないだろう。すくなくともわれわれはそうした価値的あるいはブルジョア的な抽象的労働、社会的労働とはどんなものかとさらにたずねる必要がある。そしてこれに合理的に答えるには、結局、ただの抽象的労働、ただの社会的労働、抽象的労働一般、社会的労働にまで到達しないわけにはいかない。
歴史的なものとしての価値はいっさいの価値的なものの範囲から出て、非価値的な非歴史的な第三者としてのその内容、実体に行きつくことで、はじめて理解されるのである。」(著作集4巻、P94~)

長くなりましたので、引用はこの二つにとどめます。
見田が強調しているように、人間の労働が、人間の筋肉、神経の支出としては抽象的労働であるということは、いかなる社会的形態にあっても変わることのない“自然的な”事実だという点には、耳を傾ける必要があると思われます。
直接には私的な生産を基礎にしている商品生産社会にあっては、個々人の労働が社会性をもつのは──従来の社会とは異なって──、商品の価値として対象化されて一定の割合でたがいに等置され、交換しうるものであるかぎりであり、つまりそれらの労働の抽象的労働としての同等性においてです。ここでは、諸個人の労働が社会的な労働になるためには、それらの具体的な労働自身とは正反対の、同等な抽象的労働という姿をもたねばなりません。
商品生産社会にあっては、労働は、抽象的労働であるからこそ社会的労働として認められるのですが、社会的労働であることと抽象的労働であることとは別の事柄です。商品は、たしかに自らを社会的労働の対象化として表現しなければなりませんが、そのための条件が自らを抽象的労働の対象化として表現するということなのです。商品はこのことを、自らを商品と貨幣とに二重化し、価値を価格で表現するという方法でおこなっているのです。

2018年10月22日

「読む会だより」9月用

「読む会」だより(18年9月用) 文責IZ

(前回の報告と補足)
ここしばらく豪雨災害とその後の異常な暑さで「読む会」もなかなか進みませんでした。チューターの理解不足もあって価格の理解をめぐって立往生の状態ですが、今回で一応の解決をつけて、とりあえず前に進みたいと思います。
19日に行われた8月の「読む会」では、前回の関連で出された労働力の価値の問題をめぐって、「価値だの使用価値だの交換価値だの価格だの、あれこれあって混乱してしまう」という意見も出されました。価格の理解は思うほどには簡単ではないということだと思います。

前回、資料に挙げた久留間は、別の本(『マルクス経済学レキシコン』)のなかで、「14、商品の価値は、価格としての定在においてはじめて、実現されなければならないものとして現れる」という項目を立てて、3つの例文を引いています。とりわけ一番目に引用してあるマルクスの『経済学批判要綱』の部分は、価格の理解にとって重要と思われますので、長いものですが紹介しておきます。(<>内、@後の改行、●はレポータのもの)

・「商品は交換価値として規定されているものである。交換価値としては、商品は、一定の割合で(それに含まれている労働時間に応じて)他のすべての価値(商品)にたいする等価物である。しかし商品は、直接的にはそれのこうした規定性とは一致していない。交換価値としては、商品は、それの自然的定在における自分自身とは異なっている。商品をそうした交換価値として措定する<取り出す>ためには、ある媒介が必要である。だからこそ、交換価値は貨幣のかたちで、なにか別のものとして商品に対立するのである。@
貨幣として措定された商品が、はじめて、純粋な交換価値としての商品である。言い換えれば、純粋な交換価値としての商品は貨幣である。●しかし同時に、いまでは貨幣は、商品の外部に、またそれとならんで存在している。つまり商品の交換価値は、すべての商品の交換価値は、商品から独立した、ある特有の材料のかたちで・ある独自な商品のかたちで・自立化した存在を獲得したのである。……@
貨幣で表現された、すなわち貨幣に等置された交換価値は、価格である。貨幣が諸交換価値に対立する自立的なものとして措定されたのちに、今度は諸交換価値が、主体としてのそれら<諸交換価値=諸商品>に対立している貨幣、という規定性で措定されるのである。…
貨幣という規定性で措定されている交換価値が価格である。価格では交換価値は一定分量の貨幣として表現されている。価格では貨幣は、第一に、すべての交換価値の統一性として現れ、第二に、それらのそれぞれが特定の数だけ含んでいる単位として現れる。その結果、貨幣との比較によってそれらの量的規定性、それら相互の量的比率が表現されているのである。つまりここでは貨幣は、諸交換価値の尺度として措定されており、<商品の>諸価格は貨幣で計られた諸交換価値として措定されている。貨幣が価格の尺度であり、したがって交換価値が貨幣で互いに比較されるということは、おのずから明らかとなる規定である。@
しかしここでの展開のためにそれよりも重要なことは、価格では交換価値が<実在物である>貨幣と比較されるのだ、ということである。●貨幣が、商品から自立した分離された交換価値として措定されたのちに、こんどは個々の商品が、特殊的な交換価値が、貨幣にふたたび等置される。すなわち一定分量の貨幣に等置され、貨幣として表現され、貨幣に翻訳されるのである。@
諸商品は、<その価格において>貨幣に等置されていることによって、概念から見れば交換価値としてすでにそうであったように、ふたたび相互に関連させられており、その結果それらは、一定の比率で合致しあい比較しあうのである。特殊的な交換価値である商品は、自立化された交換価値である貨幣という規定性のもとに、表現され、包摂され、措定される。このことがどのようにして行われるか(すなわち、量的に規定されている交換価値と一定量の貨幣とのあいだの量的関係がどのようにして見いだされるか)は、上述のとおりである。@
しかし、●貨幣が商品の外部に自立的な存在をもつことによって、商品の価格は、貨幣にたいする諸交換価値ないし諸商品の外的な連関として現れる。●商品がそれの社会的実体から見れば交換価値であったのとは異なり、商品は価格ではない。この規定性は商品と直接に合致するものではなくて、それと<自立化された交換価値である>貨幣との比較によって媒介されているのである。@
●商品は交換価値であるが、それは一つの価格をもつのである。@
前者<交換価値>は商品との直接的統一のなかにあったのであり、商品の直接的規定性であった。●この規定性と商品とが、同じく直接に、分裂し、その結果一方には商品が、他方には(貨幣のかたちで)それの交換価値がある、というようになった。@
だが、●いまや商品は価格において、一方では自分の外部にあるものとしての貨幣に連関し、第二に、観念的にはそれ自身が貨幣として措定されている、というのは、貨幣は商品とは別の実在性をもっているからである。価格は商品の<社会的な>一属性であり、この規定においては、商品は貨幣として表象されるのである。それはもはや、商品の直接的な規定性ではなくて、それの反省された規定性である。●現実の貨幣とならんで、いまや商品は、観念的に措定された貨幣として存在しているのである。」

ここで言われていることは、第一に、使用価値(具体的有用労働の対象化)であると同時に価値(一般的抽象的労働量=社会的必要労働量の対象化)でもある商品は、その価値を表現するために同じ商品世界の内部で二極化(商品一般と貨幣商品とへの分極化)を行なうということ。第二にその結果、そこでは純粋な価値として貨幣商品が措定されると同時に、今度は諸商品がその貨幣と関連することで自らを価格をもつものとして、つまり観念的な貨幣として措定されるということ。つまり商品は、自らが一般的抽象的労働の対象化でもあるということを直接その自然の姿で表現する代わりに、一般的等価物である貨幣(金)を価値そのものと見なし、一定量の貨幣(金)がその商品と等価であり交換可能だということ、つまり「価格をもつ」ということによって表現するということ。しかし第三に、商品が価値として機能するためには、だから実際に貨幣という別の実在物に転換されねばならないこと、と思われます。

ここで重要な事柄は、商品の分裂の結果、純粋な価値と見なされる貨幣が、商品の「外部に」、商品と「ならんで」、自立的な存在をもつことになるということでしょう。
マルクスは『資本論 初版』の「付録」の「β 等価形態の第二の特性。具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる」のなかで、「価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。……この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とはともに法である、というならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関連は不可解になるのである。」(国民文庫版、P142)と語っています。
ここでは純粋な価値と見なされる貨幣が、商品の外部に商品と並んで自立的に存在をもつが故に、商品の価値は価格として、すなわち商品に内在するものとしてではなくて、商品の外部にある貨幣にたいする関係として表現され現れます。商品が価格をもつということは、商品がその自然形態とは別に、現実の貨幣とならんで、観念的に措定された貨幣として二重に存在するということでもあります。
この商品内部での商品と貨幣との分裂、あるいは商品の価値の価格としての表現のなかでは、商品がすでにその生産のために支出された労働量として価値をもっているということが、商品の価格が「実現され」て貨幣に置き換わることとして現われます。したがって価値をもっていることがなにか商品にとって“物”としての性格であり、また貨幣との置き換えによって“事後的”に証明されるものであるかに現れるのです。しかしながら、商品がその使用価値としての姿のほかに、価格という観念的に措定された貨幣の姿をもつということは、商品が“もともと”価値であるということを、商品相互による対立的な関係で表示する方法でしかないのです。
商品の「価格が実現」され、貨幣に置き換われば、商品はその「価値を実現」し、他の商品と置き換わることが可能な形態を持ちます。しかしそれは商品がその貨幣との形態転換運動(W─G─W)を通じて、それに内在する使用価値と価値との矛盾を解決し展開するためのひとつの準備段階なのです。
以前、第3章1節で問題になった、末尾にある「それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている」というマルクスの言葉も、こうした観点から読まれるべきと思われます。

以下の説明部分は「たより7月用」と同じです。
(説明)第3章 第2節 c「鋳貨 価値章標」の1回目

(1)商品の価値としての表示が瞬間的な契機でしかない場合、すなわち金の機能が、商品流通を媒介するための鋳貨または流通手段の機能に解消される場合には、金は無価値な章標によって置き換えられ、紙幣という機能的な存在を受け取ることができる。

c項の冒頭でマルクスはこう語ります。
・「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。」(全集版、P163)
少しとっつきにくい文章でしょうから、『経済学批判』での説明を紹介しておきます。
・「金は、流通手段として機能するさいには、独特な身なりをとり、鋳貨となる。金はその通流を技術上の障碍によってさまたげられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。貨幣の計算名であるポンド、シリング等々で表現された金の重量部分を含んでいることをその刻印と形状で示す金片、これが鋳貨である。」(岩波文庫版、P136)
要するに、鋳貨とは、貨幣が金地金としてではなく、何円、何ドルという貨幣名をもつ金貨として登場することで、価格が一定の呼称で表わされた金の重量で表現されるということです。このこと自体は流通のためのいわば技術上の必要から生まれることであって、理解はそう難しいものではないと思われます(第1節で見たように、貨幣がもつ、価値尺度機能と価格の度量標準という二つの機能を区別できれば、ですが)。
ですから、「地金の状態にある金と、鋳貨としての金とのちがいは、金の鋳貨名と金の重量名との違いにすぎない」(『経済学批判』、同上)のであり、「金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができる」(全集版、P163)のです。

ところで流通過程には、鋳貨をその象徴に転化させるという自然発生的な傾向があるとマルクスは言います。
・「流通しているうちに、金鋳貨は、あるものはより多く、あるものはより少なく磨滅する。金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが、その分離過程を開始する。同名の金鋳貨でも、重量が違うために、価値の違うものになる。流通手段としての金は価格の度量標準としての金から離れ、したがってまた、それによって価格を実現される諸商品の現実の等価物ではなくなる。18世紀までの中世および近代の鋳貨史は、このような混乱の歴史をなしている。鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、金属喪失が一個の金貨を通用不能にし廃貨とするその程度についての最も近代的な法律によっても承認されているところである。」
例えば、かつての1円の鋳貨なら金2分(ふん)=0.75グラムの重量をもたねばならないのに、実際上0.7グラムしかなくなってしまうという事情です。
こうした事情は銀貨や銅貨といった補助鋳貨においては一層顕著ですし、補助通貨自体が
・「貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料からなっている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる」(全集版、P164)のです。

このようにして
・「それら<補助鋳貨……レポータ>の鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。すなわち、およそ価値というものにはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に変わって鋳貨として<すなわち紙幣として……レポータ>機能することができる。」(同、P165)ことになります。
この場合、
・「流通部面が<商品の価格総額を実現するための流通手段=鋳貨として……レポータ>吸収しうる金量は、たしかに、ある平均水準の上下にたえず動揺している。とはいえ、与えられた一国における流通手段の量は、経験的に確認される一定の最低量より下にはけっして下がらない。……それだからこそ、この最小量は紙製の象徴によって置き換えることができるのである。」(同、167)

しかしそれにしても、なぜ金属貨幣流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能なのでしょうか。マルクスは「なぜ金はそれ自身のたんなる無価値な章標によって代理されることができるのか?」と自問し、こう答えています。
・「すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりのことである。……金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通している間だけのことである。……この最小量の金は、<商品価格を実現するために……レポータ>つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。@
だから、その運動は、ただ商品転態W─G─Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのだる。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。@
それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけていく過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の<流通手段としての……レポータ>機能的定在が貨幣の<金という……レポータ>物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。……@
ただこの流通部面のなかで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである。」(同、168)

こうして金属貨幣の流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能になるのですが、価値章標による金属貨幣の代理は、資本主義の現実をいっそう複雑で理解困難なものにしていくことになります。

2018年9月17日

「読む会だより」8月用

「読む会」だより(18年8月用) 文責IZ

(7月の報告)
7月の「読む会」は15日に行われました。
(前回の報告)の部分では、最後から2番目の段落(「価値の形態Gを媒介にした……」)の最後に「商品が運動しているように“現われる”」とあるが、“見える”ということでよいのではないか、とくに違いがあるのか、という質問が出ました。
『資本論』での該当する個所(全集版では、P151~152)の最後が「それゆえ、……逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ“現われる”のである」となっていることもあってそう書いています。単なる外観ではなくて現実的な内容を伴う場合に、“見える”と区別して“現われる”と述べられるようだが、ここでは特に区別しなくてもよいのではないかとチューターは答えました。

関連してチューターは、この段落では、貨幣が商品の価格を次々と実現することで、その持ち手を変えながら通流するから、商品の形態転換が貨幣によって行われているように見えると説明しているが、説明が“方向違い”かもしれないので次回考えて来たいと述べました。
チューターはそこで、なにか商品の価格を実現する運動の“結果”が貨幣の運動であるかに書いていますが、そうではなくて、それもまた一つの外観にすぎないということだと思います。商品の観念的な価値(価格)の実現が、他方での貨幣の観念的な使用価値の実現と結びついていること、あるいは商品の形態運動(転換)ということについての、チューターの一面的な理解があったように思います。
詳しくは別記の参考資料(久留間鮫造、『貨幣論』後篇、「マルクスの価値尺度論」)を参考にして頂きたいのですが、久留間は宇野弘蔵の「商品は自ら運動しうるわけではない」という主張を批判して、「商品が、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を展開すべきものとして措定されているのだ、ということの認識が肝要だ」という見出しをつけています。チューターが説明するには荷が重いのですが、要約すると次のようなことだと思います。
商品に内在している使用価値と価値との対立──すなわち私的で特殊な労働が、社会的効力をもつためには、その直接の対立物である抽象的一般的労働として表わされなければならないという矛盾──は、商品自身が商品と貨幣とに二重化することによって、商品と貨幣との外的対立として表示されることになる。それは言いかえれば、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を、商品自身が展開するような存在を与えられる(措定される)ということである。
なぜなら商品が商品と貨幣とに二重化されると、それぞれが商品としては共に使用価値であるとともに価値であるにもかかわらず、その役割が両極化される。つまり商品は実在的には使用価値であり、その価値存在はただ観念的に価格において現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在的な価値姿態としてそれに対立する金に、関係させる。つまり、使用価値と価値との矛盾が内包されたままでは商品は相互に関連することはできないが、商品が二重化され、商品と貨幣との両極として区別され対立するものとして生みだされることになると、商品は相互に共通な価格をもつものとして関連し運動しうるものになる。逆に、金という素材は、ただ価値の物質化として、貨幣として意味を持つだけである。それゆえに貨幣は実在的には価値である。その使用価値は、もはや、ただ観念的に相対的価値諸表現の列のなかに現われるにすぎなくなる。
このように商品の二重化によって、実在的には使用価値でありながらも観念的には価値として貨幣に関連するものとされる商品極にあっては、それはその価格を実現することによって貨幣に転換されるべきもの(W─Gの運動をするもの)としてのポテンシャルをもつ。他方で実在的には価値でありながらも観念的に諸商品と関連するものとされる貨幣極にあっては、それはその観念的な使用価値を実現して諸商品に転換されるべきもの(G─Wの運動をするもの)としてのポテンシャルをもつ。そして両極がこのような反対のポテンシャルをもつからこそ、両極化された使用価値と価値との矛盾は、W─G─Wという形態運動(転換)を展開することになる。
おおよそこのようなことだと思います。チューターは、商品の側の観念的な価格の実現という面だけを見て、それが貨幣の側の観念的な使用価値の実現と対をなしているという面を見落としている点で、前回の説明は一面的だったと思います。「商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる」(P152)のは、商品が「その流通の前半で貨幣と場所を取り替え」、「それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる」ことで流通の場からは目に見えなくなるからであり、また商品に代わって「その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占め」、「流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける」からであり、「それとともに、<流通における>運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる」からにほかなりません。
貨幣は購買手段として「商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと」移るという同じ運動をくりかえします。しかしこのような貨幣の“購買手段”としての機能は、W─G─W’という商品の形態転換の運動が、前半のW─Gにおいても後半のG─Wにおいても「貨幣とそのつど別な商品との場所変換を含んでいる」からであって、貨幣の購買機能が商品の形態転換をひき起こすというわけではないのです。

前回の(説明)の部分では、柄谷氏のコラムについての評価について再度いろいろと意見が出されました。「交換を強いるのは物神の力」という氏の主張に反論した林氏の文章をコピーで出しておきます。
もう一つ議論となった、氏の労働者商品の評価については、同じく林氏による反論を『商品の意味するもの』の中から2か所あげておきます。

「労働力も商品である以上、その価値規定は一般の商品と同じである──つまり、その再生産に必要な社会的労働こそが、労働力商品の価値となる。
しかし労働力の“再生産”に必要なものは、直接には社会的労働ではなくて、労働者が消費する生活資料にほかならない。資本主義社会ではこれらの消費手段は商品である。従って、労働力の価値は、一定額の生活手段の価値に還元され、かくして(こうしていわば回り道をして)労働力の価値規定もなされるのである。
見られるように、労働力の価値規定は、一般商品の価値規定──価値法則、と呼んでもいい──を前提にし、それを“媒介”にして間接的になされるのであって、一般商品のように“直接に”なされるのではない。これは、労働力が人間の生産的活動の諸結果なのではなく、むしろ反対にその“主体”、前提なのだから、当然といえば当然である。(もちろんある意味では、労働力も人間の生産的活動の結果、その成果ともいえるのだが)。
周知のように、宇野学派は労働力商品のこの特殊性を理解していない。むしろ彼らはあべこべに、労働力商品の価値規定が一般商品の価値規定の前提であるかの愚論──まず労働力商品の価値規定がなされ、それが一般商品の価値規定として“波及”していく等々──を“真正科学”の名で語っている。詳しくは展開できないが、ここでは、こうした見解がスミス的な、マルサス的たわごとである、とだけ言っておく(宇野はこの点では、自分の見解はスミスと同じだと公言してはばからない)。
労働力商品の価値規定が、労働者の消費する生活手段の価値規定として媒介的であるということは、当然、この価値規定に、一つの量的な特殊性を──質的な特殊性のほかに──つけ加える。……」(著作集1、P125)

「宇野派は労働力商品についてもおしゃべりをくりかえし、「本来商品でない労働力までもが商品化するのが資本主義の根本矛盾だと言ってきた。
労働力商品が「本来商品ではない」というなら、宇野派は事実上、「本来の商品」を、つまり“労働価値説”によって本質的に規定される一般商品を前提しているわけだ。彼らは、一般商品と労働力商品とを区別した──これは大変にすばらしいことである。
しかし他方、宇野派はずっと、一定の価格をもつものが即商品である、と言ってきた。彼らは、ヴェーム・バヴェルクらとともにマルクスの労働価値説を攻撃して、商品の価値規定を「最初から」やるから、他の商品の規定ができなくなる。単に価格(すべての商品に共通なある量!)を持つものを商品として、つまり「流通形態」として規定しておけば、マルクスもバヴェルクらに批判されないですんだろうに、とおっしゃっている。
もし一般商品と労働力商品(さらには土地などの“商品”)を区別しようとするなら、労働価値説に立脚する以外ないことは明らかである。
宇野派は、一方で、価格をもつものはすべて商品だ、とおっしゃる。他方では、一般商品と労働力商品を区別せよとおっしゃる。これは偉大なる矛盾ではないでしょうか!
……宇野にとってこの言い方がペテンであり自己矛盾そのものであるのは今見たとおりだが、そのことはさておくにしても、ヨリ本質的に反省してみれば、一般商品もまた「本来商品ではない」のだ(それとも宇野学派は、生産物は「本来商品だ」とでも妄想しているのか?)
人間の労働生産物は私的所有と分業の社会では“商品”となり、“商品”としてあらわれる。この社会では人々は直接に社会的存在でなく私的生産者であり、孤立した存在である。こうした人々の社会的な結びつきは、ただ自らの私的な生産物を“商品”として交換することによってのみ可能となる。人々は直接に社会的労働を“交換”しえないので、生産物を交換することで、媒介的にそれをなす。これがかの有名な“交換価値”(市場経済!)であり、その秘密なのだ。
資本主義が克服されれば、労働生産物が「本来商品でない」ことは白日の下にさらけ出されるだろう。……」(同、P126)

今回は、いくつか資料もあり、夏バテということで(説明)の部分にははいりません。了承願います。
(資料を別添します)

資料2 久留間鮫造『貨幣論』(大月)、後篇「マルクスの価値尺度論」より

13){〈商品は自ら運動しうるわけではない〉という点からするマルクス批判について}

{宇野氏は、商品は自ら運動しうるわけではない、貨幣によって運動させられるのだ、と言う}
B それでは次の問題に移ります。宇野教授は、58頁でこう言っています。
〈マルクスは、「交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化を、すなわち諸商品がそれらの内在的な使用価値と価値との対立をそこで表示する外的対立を生ぜしめる」(岩波文庫1、200頁)と言い、「諸商品のかかる対立的な諸【P265】形態は、諸商品の交換過程の現実的運動形態である」(同上)とも言っているが、これはなお商品の側からの規定にすぎない。「諸商品の現実的運動諸形態」といっても、商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである。商品の、商品と貨幣とへの二重化は、商品の側からは観念的なる貨幣形態を与えうるだけであって、この対立もそれだけでは現実的に解決される運動を展開するわけではない。〉
この、「商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである」、という主張についてはどうお考えでしょうか?

{「諸商品の対立的な諸形態」についてのマルクスの叙述は「商品の側からの規定にすぎない」のか?}
久留間 その前にまず、「マルクスは……『諸商品のかかる対立的な諸形態は、諸商品の交換過程の現実的運動形態である』とも言っているが、これはなお商品の側からの規定にすぎない」とある、これが問題です。どういうつもりで、それを「商品の側からの規定にすぎない」と言うのか、ぼくにはちょっと分かりかねるのです。マルクスが「諸商品の“かかる”対立的諸形態」と言っているのは、そのすぐ前に彼が述べていることを受けていることは言うまでもない。では、どういうことを彼はそのすぐ前に述べているかというと、こういうことを言っているのです。

{マルクスは明白に「貨幣の側からの規定」をも与えている}
交換過程は貨幣を生み出すことによって、「商品と貨幣とへの商品の二重化」を生ぜしめる。そうすると、商品に内在する使用価値と価値との対立が、商品と貨幣との外的な対立として現れることになる。ところでこの場合、商品および貨幣は、もはや商品でなくなるのではなく、やはり商品であり、使用価値と価値との統一なのだが、この区【P266】別の統一は、商品および貨幣の両極に逆に現われ、それによって同時に、商品と貨幣との相互関係を表わすことになる。大体こういう意味のことを述べた後に、マルクスは、この最後の点<商品と貨幣との相互関係>を具体的に説明して、次のように言っているのです。
〈商品は実在的には使用価値であり、その価値存在はただ観念的に価格において現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在的な価値姿態としての対立する金に関係させる。逆に、金材料は、<それが独自に持つ使用価値としてではなく>ただ価値の物質化として、貨幣として、意味をもつだけである。それゆえ、貨幣は実在的には交換価値である。その<貨幣としての>使用価値は、もはや、ただ観念的に相対的価値諸表現の列のなかに現われるにすぎない。(『資本論』Ⅰ、119頁、「方法Ⅱ」、〔305〕〉
ここでマルクスは、一見明白なように、「商品の側からの規定」だけではなくそれに対応するものとしての貨幣の側からの規定をも与えているのです。「その逆に、金材料は、云々」という後半の叙述がそれです。そしてそれを受けて、「諸商品のかかる対立的な諸形態は、諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、と言っているのです。(……省略……)
ところが宇野君はこれを読んで、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」と言う。一体どういう読み方をするとそういう解釈ができるのか、ぼくにはどうも不思議でたまらないのです。

【P267】{「諸商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」ということの意味}
念のために、もう一度くり返して説明すると、「諸商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、とマルクスが言っているのは、今も言ったように、商品に内在する使用価値と価値との対立が商品と貨幣との対立として外化することになると、商品の方は、実在的には使用価値であって、それの価値は価格の形態で、一定量の金として表示されることになるが、この表示はなお観念的にすぎない。すなわち、商品は価値としては一定量の金であるといっても、商品が本来の使用価値の形態にあるかぎりは、それはまだ現実の金にはなっていない。だから、価格の形態において、商品は、価値として現実に作用するためには、本来の使用価値の形態を譲渡することによって現実の金にならねばならぬものとして──すなわちW─Gの運動を展開すべきものとして──措定されていることになる。@
その反対に金の方は、価値の体化物すなわち貨幣としてのみ意味をもっている。だからそれは、実在的に交換価値、すなわちいかなる他商品とも交換可能なものである<久留間は交換価値についてこう言う>。と同時に、そういうもの<すなわち交換価値ないし貨幣>としての金の使用価値は物価表を逆に読む形──いわゆる「貨幣商品の特殊的相対的価値形態」──で表示されることになる。だがこの表示はなお観念的にすぎない。だからこの形態において、貨幣としての金の使用価値はこれから実現されねばならぬものとして──すなわちG─Wの運動を展開すべきものとして──措定されていることになる。@
このようにして商品は、商品と貨幣とに二重化し、それに内在する使用価値と価値との対立が商品と貨幣との外的対立として表示されるようになると、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を、展開すべきものとして措定されることになり<注意!!>、商品の交換過程は、これらの対立的な形態を通して運動することになる。マルクスが「諸【P268】商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、と言っているのは、このことを言っているのです。

{宇野氏は、商品から独立した貨幣の規定が別にあるとでも考えているのだろうか?}
ところが、宇野君はこれをつかまえて、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」と言うのだが、なぜこれが「商品の側からの規定にすぎない」のか、ぼくにはどうもそのわけが分からない。もちろん、貨幣にしても商品の価値の自立化したものであり、商品の転化した形態にほかならない。だから、今言ったような貨幣の側からの規定にしても、やはり商品の規定にほかならないということ、ひいてはまた、G─Wにしても商品自身の運動──商品の第二の姿態変換──にほかならないということは、確かな事実です。だがもし、だからそれは「なお商品の側からの規定にすぎない」と言うのだとすれば、それはとりもなおさず、上に述べた以外の・もともと商品から独立した・貨幣の規定が別にあるものと考え、それをマルクスは説いていないといって批難していることになる。しかし宇野君にしても、まさかそういう途方もないことを考えているものとは思えない。とすると、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」いう宇野君の批難は、「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」というマルクスの言葉の意味を全然理解していないことから来ているものと考えるほかはないことになる。

{「商品は自ら運動しうるわけではない」というのは無理解の上に安住した放言だ}
なお宇野君は上に続いて、「『諸商品の〔交換過程の〕現実的運動〔諸〕形態』“といっても”、商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである」、とも言っている。そしてこれが、さきほどB君が問【P269】題にしようとした点なのですが、これもまたぼくには、同じ無理解の上に安住した放言としか思えない。

{商品が、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を展開すべきものとして措定されているのだ、ということの理解が肝要だ}
なるほど、貨幣の側からのG─W(購買)なしには商品のW─Gの運動(販売)は行われないということは、確かに事実に相違ないが、しかし同時にまた、商品の側からのW─Gなしには貨幣のG─Wの運動は行なわれえない、ということも事実です。両者は相互に条件づけあう関係にあるので、一方だけが他方の条件をなすわけではないのです。だがいずれにしても、これはもともと、運動が行なわれるためのいわば外的な条件の問題にすぎない。われわれは、運動を問題にする場合、そういう外的条件を問題にする前に、運動そのものがなにによって必然とするかを問題にする必要がある。一般に、あるものが運動するのは、それが矛盾をもっていて、そのままの状態に留まりえないからです。さきにぼくが引用した──宇野君の引用では省略されていてぼくが補足した──個所で、マルクスはまさにこの観点から、商品が商品の形態にあってはW─Gの運動を・反対に貨幣の形態にあってはG─Wの運動を・展開すべきものとして措定されているところの、その形態について述べているのです。そしてそれを受けて、「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」と言っているのです。
なお、念のために注意しておくが、ここ<諸商品のかかる対立的諸形態は……の部分>でマルクスが言っていることは、商品変態論の冒頭で彼が言っていることに対応しているのです。そこで彼はこういうふうに言っている。「すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾し互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を取り除きはしないが、これらの矛盾が運動しうる形態をつくりだす。これは、一般に現実的な矛盾が解決さ【P270】れる方法である」(『資本論』Ⅰ、118頁、「方法Ⅱ」〔305〕)。──「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」と言うとき、マルクスは、この冒頭<第2節第4パラ>にいわゆる「これらの矛盾が運動しうる形態」の実際のあり方について述べているのです。

{究極的には、交換過程論の意義を理解しないことから、見当はずれの批難が生じている}
ぼくは、今日最初に話したさいに、マルクスの商品変態論に対する宇野君の異論は、究極的には、マルクスの交換過程論の意義を理解していないことから来ているということ、そのために、交換過程論につながる商品変態論の重要な意義を理解しえないことになって、検討はずれの批難を加えることになったのだということを述べたのですが、今の、「『諸商品の〔交換過程の〕現実的〔諸〕形態』といっても、商品は自ら運動しうるわけではない」というのも、まさにその一例にほかならないと思うのです。
<以上 『参考資料』の項目に全文を掲載しています>

2018年8月20日

「読む会」だより7月用

「読む会」だより(18年7月用) 文責IZ

(6月の報告)
6月の「読む会」は17日に行われました。
(前回の報告)の部分での「価格が“観念的なもの”である」という点には、あまり意見が出ませんでした。チューターにもこだわりがあるせいか、説明が長くなってむしろ分かりづらかったのではないかと反省しています。
チューターの言いたかったことは、価格とは、第一に、“商品の”価値表現の方法であり、それは「異種の諸商品の等価表現」ないし異種の使用価値(物質的属性)の“等置”として行われています。だから、商品の価格は物質的なものではなくて“観念的なもの”だということです。商品が価格をもつという現象は、現実の社会現象であって、商品生産者等の観念が作り上げるといったものではありません。
そして価格とは第二に、発展した価値表現として、すべての商品が一般的等価物としての金のみを右辺に置く形で表現された価値の表現であるということです。この場合、すべての商品にとって右辺の金は、金という物質としてではなくて、社会的に同等な、抽象的人間労働の結晶としてのみ取り扱われます。このことによって、すべての商品は、共通にその価値の大きさを金の大きさとして表現できることになります。価格は、商品の価値を抽象的人間労働の結晶と見なされた金の大きさで示すものです。商品の価値を、金の一定量として表示する商品の価格は、その商品自身に固有な物質的属性とは区別された商品に共通な社会的属性の表現(抽象的人間労働の結晶)として“抽象的なもの”なのです。
商品交換が発展して一般的等価物が成立するようになると、諸商品の価値はそれと交換可能な一般的等価物の一定量として、その使用価値と分離されることになりますが、物々交換においては、生産物の価値はその使用価値と完全には分離されていないのです。

また、商品流通が貨幣運動の結果のように見えるという点についても、魔術と言えるかといった形で問題にしてしまいよくなかったと反省しています。
重要な事柄は、久留間の説明図で言えば、リンネル生産者の手の中にあったGが聖書生産者の手へと右下方向に移動したのは、リンネル生産者が聖書を買った(G─W3)結果であり、リンネルW2の形態転換として見れば、聖書W3がリンネルを売って得たGと置き換わって右上に移動した結果です。このことは社会的な素材転換W2─W3が行われたということであり、このなかでGは、すべての商品にとっての価値の形態として、特定の使用価値の姿をもつリンネルW2が別の姿をもつ聖書W3へと置き換わるのを媒介したということです。
GがリンネルW2が聖書W3に置き換わるのを媒介しうるのは、ただリンネル生産者がリンネルを小麦生産者に売っていた(W2─G)からであり、また聖書生産者がすでに聖書を生産していたからにほかなりません。しかしながら、個々の商品生産者にとっては、リンネルW2が欲求どおりに聖書W3に置き換わるのは、Gのもつ“購買力”で聖書W3を買ったからのように見えます。しかしそれは実際には、すでにリンネルが販売されて価値の形態Gをとっているからにすぎません。金Gはすべての商品によって価値の形態であると認められているからこそ、商品は販売されてGの姿に置き換わっているならば任意の別の商品に置き換わる(購買する)ことができるのです。
このように商品の使用価値の形態と価値の形態との形態転換、W─GまたはG─Wは、いつも貨幣の持ち手(位置)の転換すなわち貨幣通流として現れます。しかし、リンネルW2─G─聖書W3という一商品リンネルの形態転換の過程はそこで完結するのに対して、それを媒介した貨幣の持ち手の転換である貨幣通流のほうは、そこで完結するのではありません。新たな貨幣所有者となった聖書生産者の手の中で、聖書が姿を変えたGは聖書が火酒に転換されるためにこそ存在するのです。商品流通の絶え間ない更新は、消費された使用価値に替わる新しい使用価値が、商品としてつねに生産されなければならないということでしかありませんが、商品流通を媒介する貨幣はいつまでも流通のなかにとどまり続けなければならないのです。
そこで『経済学批判』での言葉を借りれば、「商品はつねに貨幣とは反対方向に1歩だけ進むにすぎないのに対して、貨幣のほうはいつも商品といれかわりに第2歩を進めて、商品がAといった場所でBというためであるが、そうなると、全運動は貨幣から出発するように見えるのである。だがそれにもかかわらず、販売のさいに貨幣をその位置からひきよせ、したがってまた貨幣を、ちょうど購買のさいに商品が貨幣によって流通させられるのと同じように、流通させるのは商品である。さらにまた貨幣は、つねに購買手段という同じ関連で商品にあいたいするのであるが、購買手段としては、ただ商品の価格を実現することによって、商品を運動させるにすぎないから、流通の全運動は、……貨幣が商品の価格を実現することによって、商品と位置をかえるように見える。……貨幣は、商品の価格を実現することによって商品を流通させているように見える。……」(岩波文庫版、P126)
価値の形態Gを媒介にした商品の形態転換W─G─Wは、商品流通のなかでは、あたかも貨幣が商品の価格を次々と実現し、その持ち手をかえながら通流していくことによって、商品が運動しているように現れるのです。

(説明)の部分にたいしてもあまり質問・意見は出ませんでしたが、朝日新聞のコラム(柄谷行人、カール・マルクス)についていくつか意見が出されました。持参してくださった参加者は「資本主義経済は宗教的な世界だ」という部分に共感したということでしたが、資本主義の欠陥は労働力商品を増やすことも減らすこともできないことにある等々というのはどうかという意見などが出ました。「交換を強いるのは物神の力」だとタイトルにありますが、むしろ逆で、生産物の私的な交換から物神の力が生まれる、とマルクスは言っているように思われます。

今回から、c「鋳貨 価値章標」の項目に入ります。短いものですが、現代の“通貨”である中央銀行券の理解などのためにも重要なところです。

(説明)第3章 第2節 c「鋳貨 価値章標」の1回目

(1)商品の価値としての表示が瞬間的な契機でしかない場合、すなわち金の機能が、商品流通を媒介するための鋳貨または流通手段の機能に解消される場合には、金は無価値な章標によって置き換えられ、紙幣という機能的な存在を受け取ることができる。

c項の冒頭でマルクスはこう語ります。
・「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。」(全集版、P163)
少しとっつきにくい文章でしょうから、『経済学批判』での説明を紹介しておきます。
・「金は、流通手段として機能するさいには、独特な身なりをとり、鋳貨となる。金はその通流を技術上の障碍によってさまたげられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。貨幣の計算名であるポンド、シリング等々で表現された金の重量部分を含んでいることをその刻印と形状で示す金片、これが鋳貨である。」(岩波文庫版、P136)
要するに、鋳貨とは、貨幣が金地金としてではなく、何円、何ドルという貨幣名をもつ金貨として登場することで、価格が一定の呼称で表わされた金の重量で表現されるということです。このこと自体は流通のためのいわば技術上の必要から生まれることであって、理解はそう難しいものではないと思われます(第1節で見たように、貨幣がもつ、価値尺度機能と価格の度量標準という二つの機能を区別できれば、ですが)。
ですから、「地金の状態にある金と、鋳貨としての金とのちがいは、金の鋳貨名と金の重量名との違いにすぎない」(『経済学批判』、同上)のであり、「金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができる」(全集版、P163)のです。

ところで流通過程には、鋳貨をその象徴に転化させるという自然発生的な傾向があるとマルクスは言います。
・「流通しているうちに、金鋳貨は、あるものはより多く、あるものはより少なく磨滅する。金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが、その分離過程を開始する。同名の金鋳貨でも、重量が違うために、価値の違うものになる。流通手段としての金は価格の度量標準としての金から離れ、したがってまた、それによって価格を実現される諸商品の現実の等価物ではなくなる。18世紀までの中世および近代の鋳貨史は、このような混乱の歴史をなしている。鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、金属喪失が一個の金貨を通用不能にし廃貨とするその程度についての最も近代的な法律によっても承認されているところである。」
例えば、かつての1円の鋳貨なら金2分(ふん)=0.75グラムの重量をもたねばならないのに、実際上0.7グラムしかなくなってしまうという事情です。
こうした事情は銀貨や銅貨といった補助鋳貨においては一層顕著ですし、補助通貨自体が
・「貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料からなっている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる」(全集版、P164)のです。

このようにして
・「それら<補助鋳貨……レポータ>の鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。すなわち、およそ価値というものにはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に変わって鋳貨として<すなわち紙幣として……レポータ>機能することができる。」(同、P165)ことになります。
この場合、
・「流通部面が<商品の価格総額を実現するための流通手段=鋳貨として……レポータ>吸収しうる金量は、たしかに、ある平均水準の上下にたえず動揺している。とはいえ、与えられた一国における流通手段の量は、経験的に確認される一定の最低量より下にはけっして下がらない。……それだからこそ、この最小量は紙製の象徴によって置き換えることができるのである。」(同、167)

しかしそれにしても、なぜ金属貨幣流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能なのでしょうか。マルクスは「なぜ金はそれ自身のたんなる無価値な章標によって代理されることができるのか?」と自問し、こう答えています。
・「すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりのことである。……金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通している間だけのことである。……この最小量の金は、<商品価格を実現するために……レポータ>つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。@
だから、その運動は、ただ商品転態W─G─Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのだる。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。@
それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけていく過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の<流通手段としての……レポータ>機能的定在が貨幣の<金という……レポータ>物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。……@
ただこの流通部面のなかで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである。」(同、168)

こうして金属貨幣の流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能になるのですが、価値章標による金属貨幣の代理は、資本主義の現実をいっそう複雑で理解困難なものにしていくことになります。

2018年7月17日