「読む会」だより5月用

「読む会」だより(18年5月用) 文責IZ

(4月の報告)
4月の「読む会」は15日に行われました。(前回の報告)の部分では、最後の方で紹介した第1節での「実際に交換価値<等価物……レポータ>の働きをするためには、商品はその自然の姿を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。たとえ商品にとってこの化体が、……もっとつらいことであろうとも」(全集版、P136)のなかにある、「もっとつらい」とはどういうことか、という質問が出されました。
チューターは、引用が長くなるので、その前の……部分を省略してしまったので、分かりづらくなって、申し訳ない。そこには「ヘーゲルの『概念』にとっての必然から自由への移行や、ザリガニにとっての殻破りや、教父ヒエロニムスにとっての原罪の脱却よりも、」とある。要するに、商品にとって、価格というそれがもっているただ想像されただけの金(あるいはすでに関連付けられている金)から、現実の金へと転化(すなわち“化体”ないし“脱却”)することは、たんにヘーゲルが自分の頭のなかで行なう必然から自由への概念の“離脱”とか、自然の成長過程として行われるザリガニの旧来の殻から新しい殻への“化体”などよりも、もっとつらいことだろう。というのは、もしもその商品の生産のために費やされた労働が、他人によって社会的に必要な労働と認められなければ、それは“価値”として認められないのであり、したがってその価格を実現して現実の金に“脱却”できない(あるいはできたとしても量的に異なっている)という、自分自身ではどうすることもできない社会的な事情を抱えているのだから、というような意味だろう。それを彼特有の皮肉をもって言っている。と答えて、了承されました。

そこの記述でチューターが強調していることは、価格もまた、価値の表現としては客観的な内容をもっており、恣意的なものではないということでした。また価格が“観念的なもの”であるということは、商品の価格が商品生産者の意識や想像のなかにあるという意味ではまったくないということです。それは商品世界の中で、すでに、すべての商品が貨幣・金によってその価値を相対的に表現し、“一定量の金が”その商品と交換可能であるという姿で──すなわち価格という姿で──自らの価値(社会的必要労働量)を共通に表示するという関係をもっている、あるいはそうしたものとしてすでに社会的に関連付けられているという意味において、“観念的なもの”だということでした。
価格はたしかに“物”である「商品」がもつものであって、人間がつまり商品生産(所持)者やその意識がもつものではありません。しかし価格は、商品自体がもっている物質的な性質とは無関係であって、この意味でも商品の価格は“物質的なもの”ではありません。価格は“物”(商品)がもつものとして現われているとはいえ、価値の表現方式なのであり、諸個人の労働の社会的な同質性を(“物質的に”ではなくて)“観念的に”表示しているのです。
商品は、その価格が実現されると「ただ想像されただけの金から現実の金に転化」されますが、それは抽象的に“観念的なもの”が“現実的なもの”に移行するというようなヘーゲル的な意味ではまったくありません。それは、第2節の冒頭の商品の形態転換のところ(たより17年9月用など)で述べられてきたように、価値としての、つまり無差別な社会的な労働の対象化としての商品の「形態」の転換、すなわちその生産されたままの特殊な使用価値をもった姿から、貨幣という共通な人間労働が対象化された姿に転換されたうえで、別の特殊な使用価値をもつ商品に置き換わることで商品としてのまた価値としての姿を失なうという、商品生産のもとで社会的な素材転換が行われるための方式なのです。商品は、使用価値であると同時に価値でもあるという矛盾を、価値の形態としての貨幣を生みだし、それへの形態転換を媒介することによって、解決していくのです。そしてだからこそ、商品は生まれた時からその使用価値としての姿のほかに、価値として貨幣(価値の形態)との転換の必要を、価格という姿でもつのです。
(ただし、たとえば1本のボールペン=100円という価格においては、左辺の商品が右辺の一定量の金と任意に交換可能だということを表示しているのではなくて、右辺の一定量の金のほうが、左辺の任意の商品と交換可能であるという姿で、他の商品と共通にその価値を表現しているということに注意が必要です。)

(説明)の部分では、「貨幣の魔術」、つまり金はその金という物体、その自然属性によって他の商品と任意に交換可能のように見えるが、しかしそれは金が貨幣として社会的に認められた結果であり、すべての商品が共通の金でその価値を表現したからこそである、ということは
分かった。しかし、貨幣による商品流通の媒介はいわば当たり前のことで、「“いっそう発展した”貨幣の魔術」というようには言えないのではないか、という質問が出されました。
チューターは、マルクス自身は「b 貨幣の流通」のなかで“いっそう発展した”貨幣の魔術というようなことは言っておらず、いわばチューターの独断でこう書いた。時間も迫っているので次回のたよりで補足させてほしい、ということになり、ここで補足しておきます。

前回引用したなかでも、次の部分をもう一度読んでいただきたいと思います。
・「それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態転換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介される“ように見え”@
この貨幣がそれ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移していく“ように見える”のである。……貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。」(全集版、P152)
ここで述べられていますのは、①別の商品による商品の取り替え(つまり商品流通あるいは社会的素材転換)は、流通手段としての貨幣の機能の“ように見える”が、実際には諸商品の形態転換のからみ合いによって媒介されている。②貨幣が運動することで商品を流通させる“ように見える”が、実際に運動するのは商品であり、貨幣流通は商品流通の結果でありその表現でしかない。という二つのことです。
①についてはマルクス自身がa項の終わりで「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつ」(同、P151)と述べたのではないか、という疑問が上がると思います。商品の形態転換、W─G─Wをもっとも抽象的に語れば、貨幣Gは商品Wの流通の媒介者であることに間違いはありません。しかし、前回、前々回と久留間の図を参考にして触れてきましたように、それは直接的生産物交換W(リンネル)─W’(聖書)とはまったく違った、複雑な姿をもっているのです。
たとえばW2(リンネル)のW3(聖書)への素材転換、すなわちW2(リンネル)─G─W3(聖書)をもう少し詳しく見てゆけば、それはリンネル所持者にとっては、W2(リンネル)─Gすなわち「リンネルの売り」という前半の過程と、G─W3(聖書)つまり「聖書の買い」という後半の過程が結びついたものであり、より詳しく書けば、W2(リンネル)─G…G─W3(聖書)です。しかし、このリンネルの形態転換の過程の前半部分であるW2─Gつまりリンネル所持者にとっての「リンネルの売り」は、別の商品W1(小麦)の形態転換であるW1(小麦)─G─W2(リンネル)の後半の過程、つまり小麦所持者の「リンネルの買い」と結びついてはじめて成立します。さらに、リンネルの形態転換の後半部分であるG─W3(聖書)は、また別の商品W3(聖書)の形態転換であるW3─G─W4の前半の過程、つまり「聖書の売り」であるW2(リンネル)─Gと結びついてはじめて成立するのです。
そしてこうした過程の全体である商品流通のいわば“主役”は商品Wであって貨幣Gではなく、貨幣Gはすべての商品の価値の形態として、それらの商品の素材転換を“媒介”する役割を果たしているだけなのです。商品の貨幣への転換、そしてまた貨幣の商品への転換は、商品自体の形態の転換なのであって(すなわち使用価値の形態から価値の形態へ、また逆に価値の形態から使用価値の形態への)、商品と別の商品である貨幣との素材交換、物々交換ではない、ということが重要です。
こうしたことを見ていくと、②のように「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる」と述べられていることを、“いっそう発展した”「貨幣の魔術」と語ってもあながち間違いではないとチューターは思うのですが、いかがでしょうか。

なお、前回の引用では省略しましたが、そのすぐ後で、貨幣の流通手段の機能についてマルクスはこう指摘しています。
・「他方、貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。」(同、P153)

(説明)第2節 流通手段 b 貨幣の流通 の2回目

(2)流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、商品の価格総額と貨幣の流通速度によって決まるのであって、貨幣量によって価格やその総額が決まるのではない──いわゆる貨幣数量説の誤りについて

マルクスはb項「貨幣の流通」のなかで次のように問題を提起します。
・「どの商品も、流通への第一歩で、その第一の形態変換で<すなわちその所持者にとっては非使用価値である或る商品の売りW─Gは、同時にすでに別の商品を売って得たGの所持者の使用価値としての買いであるのだから(久留間の図で言えば左下から右上に上がって脱落するWの流れのように)……レポータ>、流通から脱落し、そこには絶えず新たな商品がはいってくる。これに反して、貨幣は流通手段としてはいつでも流通部面に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。そこで、この部面はつねにどれだけの貨幣を吸収するか、という問題が生ずる。」(同、P153)

そしてこう答えています。
・「商品は、その価格において、すでに決定された想像された貨幣量に等置されている。ところで、ここで考察されている直接的流通形態<信用などを考慮外に置いた、商品と商品との直接の……レポータ>は、商品と貨幣とをつねに肉体的に向いあわせ、一方を売りの極に、他方を買いの反対極におくのだから、商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表わされている金総額を実在的に表わすだけである。したがって、これら二つの総額が等しいということは自明である。とはいえ、われわれが知っているように、商品の価値が変わらない場合には、商品の価格は金(貨幣材料)そのものの価値といっしょに変動し、金の価値が下がればそれに比例して上がり、金の価値が上がればそれに比例して下がる。こうして諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。」(同、P154)
・「流通過程の或る与えられた期間については、(商品の価格総額)/(同名の貨幣片の流通回数)=流通手段として機能する貨幣の量 となる」(同、P157)

そしてさらにこう触れていわゆる貨幣数量説を批判しています。
・「流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則は、次のようにも表現することができる。すなわち、諸商品の価値総額とその変態の平均速度が与えられていれば、流通する貨幣または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって定まる、と。これとは逆に商品価格は流通手段の量によって規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定される、という幻想は、その最初の代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通過程にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて、そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ、というばかげた仮説に根差しているのである。」(同、P160)

商品の流通があるかぎり、つまり商品の素材転換が滞りなく行われるためには、一定量の流通手段の量が客観的に必要であることは、価格が商品の価値の表現として決してたんなる主観的なものではないということが理解できれば、きわめて当然のことのように思われます。
価格とは、支出された社会的必要労働量として客観的に存在する商品の価値を、貨幣で相対的にあるいは観念的に表現したものでした。だから社会的に必要な流通手段の量は、貨幣として実現されるべき商品の価格総額によって決まることは至極当然なのです。
これにたいしていわゆる近代経済学の人たちは、価値の概念をもつことができず、貨幣が商品の価値の形態であることを理解しません。そのために、商品と貨幣との転換を、商品自体の形態転換と見ることができず、たんなる商品と別の商品との交換、物々交換と同一視します。彼らは「商品は価格をもたずに、また貨幣は価値をもたずに流通にはいる」と勝手に思い込みます。だから流通のなかでも、貨幣量が2倍になれば商品価格も2倍に騰貴し、反対に貨幣量が半分になれば価格も半分になるといった非現実的な幻想にふけることができるのです。

2018年5月20日

「読む会だより」4月用

「読む会」だより(18年4月用) 文責IZ

(3月の報告)
3月の「読む会」は18日に行われました。(前回の報告)の部分では、まず「W─G─Wの説明はそれなりに分かったが、美術品や工芸品など希少性のあるものはどうなのか」という質問が出ました。チューターは、以前にも触れたが、労働を投入しても生産物の数量が増えないようなものに関しては、需要や競争によって“価格”が決まるというようなことはずっと後のほうで問題にされることになる。しかし、基本的に問題になるのは普通の商品であり、いわゆる生活必需品という範囲でここでは考えていただきたい、と述べました。
また関連して、「仮想通貨や金融商品で巨利を得たというようなことが言われているが、こうした場合のGはWとW’との転換を媒介するといったことではないのではないか」という質問も出されました。チューターは、そうした場合のGは貨幣というよりむしろ商品や資本として取り扱われているだろうし、普通の商品ではないそうした金融商品では正常ではないことが当たり前のように起こってくるということはある。そしてそれらのことの、なにがどう正常でないのかを知るためにも、まずもって商品流通の基本的な姿を理解することが必要だろう。価値増殖については、次の第4章の資本のところ、つまりG─G’のところで基本的な観点やメカニズムが与えられます、と述べました。
また、「価値を実現するということは、商品が貨幣に置き換わった後に別の商品に置き換わることによって、消費の過程に入るということか」という質問が出されました。チューターは、一商品をとってみれば、そういう理解で間違っているということではないだろうが、価値の問題というのは、基本的に社会的な生産と消費の問題だということを押さえておかないとまずいのではないか、と述べました。というのも価値は、労働が社会的に管理されるのではなくて、私的な労働の生産物を商品として交換し、社会的労働が“物”の姿で現れる場合の、労働の特殊な性格であり社会的な生産のメカニズムだからです。

(説明)のところでは、最後のところで「それ(価値の価格としての表現)は、生産物をたんなる使用価値としてではなくて、同時に無差別な人間労働の対象化として相互に関係させることで社会の物質代謝をしなければならない社会において、私的な生産物がもたねばならない必然的な方式なのです。」と触れた点について、「“必然的な方式”とか言われると、分かってきたつもりであったものが、かえって分からなくなってしまう」という意見が出されました。
チューターとしては、必然性というようなたんなる言葉で説明したつもりになるのではなくて、できるだけその内容を伝えるように努力しているつもりです。ここで「必然的な方式」と使っているのは、価格表現(共通な金による諸商品の価値表現)というのは商品交換を通じて行われる社会的な生産にとって、不可欠で不可避な“仕組み(方法)”だ、という意味です。

なおその前の部分で触れたように、価格は、価値と同じく、商品自身がもっているものであって、生産者つまり諸個人がその頭のなかに意識としてもっているものではないことが、重要に思われます。その生産のために支出された社会的な労働量として、商品の価値は現実的なものですが、それと同様に、商品の価格も貨幣・金の量という物的な姿で表現されていても、価値の表現としては客観的な内容を持つものであって、生産者が恣意的に決め得るようなものではないのです。
誤解されてはならないのは、価格が“観念的なもの”であるのは、それを人間が決め得るからなのではなくて、すべての商品が貨幣・金でその価値(支出労働量)を表現するという関係を“すでに”もっており、そこでは一定量の金がその商品と交換可能だという交換可能性(等価性)で商品がその価値を表現しているからにすぎません。
第1節「価値の尺度」の最後のほうでマルクスは次のように述べています。
・「相対的価値形態一般がそうであるように、価格は、ある商品例えば1トンの鉄の価値を、一定量の等価物例えば1オンスの金が鉄と直接に交換されうるということによって表現するのであるが、けっして、逆に鉄のほうが金と直接に交換されうるということによって表現するのではない。だから、実際に交換価値<等価物……レポータ>の働きをするためには、商品はその自然の姿を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。たとえ商品にとってこの化体が……もっとつらいことであろうとも。商品は、その実在の姿、たとえば、鉄という姿のほかに、価格において観念的な価値姿態または想像された金姿態をもつことはできるが、しかし、現実に鉄であると同時に現実に金であることはできない。商品に価格を与えるためには、想像された金を商品に等置すればよい。商品がその所持者のために一般的等価物の役を果たそうとするならば、それは金と取り替えられなければならない。」(全集版、P136)

(説明)第2節 流通手段 b 貨幣の流通 の1回目

(1)流通のなかで“貨幣の魔術”はいっそう発展する、すなわち「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる。」

前回、久留間氏の流通の概念図を説明した折にも触れましたが、商品Wは、諸商品と価値で結ばれている流通界から、人間の欲望と使用価値で結ばれる消費界へと最終的には脱落していきます。他方、貨幣Gのほうは、商品Wの価値の形態として商品が消費界へと脱落するのを手助けしながら、商品の購入者(買い手)の手からその生産者(売り手)の手へと次々に移動することで、流通界のなかに留まり続けます。
「a 商品の変態」の項で見てきたように、貨幣Gの流通運動は、商品自身の形態転換の結果であり、貨幣Gへの形態転換を通じた商品流通(社会的物質代謝)の表現でしかありません。しかしそこでは逆に、貨幣こそが動かぬ商品を運動させる力(いわゆる“購買力”)をもつように見えるのであり、“貨幣の魔術”はいっそう発展した姿をもちます。
しかし、ある人が貨幣を手にすることができるのは、ただその人が商品を販売した結果にほかならないということだけから言っても、貨幣自身に購買力があるなどという理論は眉つばものです。商品交換W─W’はその全面的な発展の必要性から、WとGとに商品は二重化し、商品交換は直接的にではなくてW─GとG─W’との二つの過程に分裂して行われることになります。だからもしW’を買う“購買力”といったものがあるとするならば、それは商品に共通な価値の形態としてのGがもつものではなくて、当初のWこそが価値として、社会的労働の支出として持つと言わなければなりません。

さて以前、第2章「交換過程」の末尾で、マルクスは“貨幣の魔術”についてこう述べていました。
・「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動<諸商品の価値表現の関係……レポータ>は、運動そのものの結果<価値形態としての貨幣……レポータ>では消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない。諸商品は、なにもすることなしに、自分自身の完成した価値姿態を、自分のそとに自分と並んで存在する一つの商品体として、眼前に見いだすのである。これらの物、金銀は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間労働の直接的化身である。ここに貨幣の魔術がある。」(全集版、P124)
商品世界の価値形態として、あるいは一般的等価物として、一商品・金が貨幣であると認められるという社会的な過程は、金の自然属性とは無縁です。だから商品がその価値を共通に一商品・金で表現する結果として、金が価値形態として、貨幣として認められるという過程は、金が貨幣として認められた後になっても金物体に痕跡が残るわけではありません。だから、金が貨幣として認められたならば、金という物体、金という使用価値は、その自然形態(特殊な使用価値の姿)のままで同時に他のどんな商品とも交換可能な、あらゆる人間労働の直接的化身すなわち価値そのものとして通用します。ある商品が貨幣として認められるという自然属性とは無縁な規定が、逆にあたかも金の自然属性から生まれるかのように見えるこのようなメカニズムを、マルクスは“貨幣の魔術”と呼んだのでした。

さて、「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつ」(全集版、P151)と述べてa項を終えたのち、マルクスは「b 貨幣の流通」のなかで、いっそう発展した“貨幣の魔術”とそのメカニズムについて述べています。(久留間氏の概念図を参考にすると分かりやすいと思います。)
・「……それゆえ、商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣がある商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んで行くこと、または貨幣の流通である。」(全集版、P151)

・「貨幣の流通は、<G⇔Wの場所転換という……レポータ>同じ過程の不断の単調な繰り返しを示している。商品はいつでも売手の側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。」(全集版、P151)
ここで注意願いたいのは、「貨幣は商品の価格を実現することによって」、「購買手段として機能する」と言われていることです。商品流通がW─GとG─Wという二つの過程に分離しているということはすでに前提されています。そのうえで、前半のW─Gの過程で「貨幣は商品の価格を実現」することによって、すなわち前半部分で貨幣の姿に形態転換しているからこそ、今度は後半の過程で「購買手段として機能する」としか言われていないということです。ここでは、商品流通W─G─Wの後半部分だけを全体から切り離して、商品を売ることなしにすでに貨幣をもっているとか、あるいはその貨幣は購買手段なのだから購買力をもっているとか、そうしたことはいっさい言われていないということです。

・「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程をくりかえす。@
このような<購買手段として買い手から売り手へと移動するという>貨幣運動の一面的な形態が<W─GとG─Wという相対立する二つの過程を含む>商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。<W─GとG─Wという二つの過程に分裂した過程を、商品の価値形態としてのGが媒介するという>商品流通そのものの性質が<あたかもGが商品の交換を生みだすかのような>反対の外観を生みだすのである。@
商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる。その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める。流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける。それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。@
それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移していくように見えるのである。@
貨幣は、たえず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品をたえず<消費部面へと……レポータ>流通部面から遠ざけていく。それゆえ、<別の商品との場所転換という……レポータ>貨幣運動はただ<商品の形態転換を通じた……レポータ>商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。」(全集版、P152)

まことこうした目に映ったままの“貨幣の魔術”に目を奪われているのが、現代の経済学者たちではないのでしょうか。

2018年4月16日

「読む会」だより3月用

「読む会」だより(18年3月用) 文責IZ

(前回の報告)
2月18日に行われた「読む会」では、新しく二人の方が参加されました。チューターは、はじめて『資本論』を読もうとすると、まずもって二つのことが分かりにくいだろうからと、以下のように触れました。
一つは、価値(経済的な価値)とは、普通に言われるような使用価値(種々な有用性)のことではない、ということです。価値とは、自分は他人のための生産物を作る一方で、すべての人が自分の生活を他人の生産物で成り立たせるという商品生産社会において現われる、労働の無差別な(社会的に同等な)性格なのです。しかしそれは生産物の性格として反映されます。そしてその大きさは生産のために支出された社会的に必要な労働時間で測られます。生産物の使用価値の方は種々に異なるものですが、その価値の方はただ大きさだけが違うということをとっても、価値と使用価値とは全く別のものなのです。
二つ目は、価値は価格として表現されているけれども、価値と(その現象形態としての)価格とは別のものだということです。価値は、社会的に必要なものとして支出された労働時間であり、商品は実際にそうした労働時間の結晶です。しかし社会的必要労働時間から出発して労働を組織するのではなくて、個々バラバラな私的な生産から出発し、商品の交換を通じて生活を成り立たせる商品生産社会にあっては、すべての商品と交換可能だという一般的等価物(貨幣)の性格として、労働の社会的労働としての同質性が現れるほかないということです。だから、ある商品の価値は1/10労働時間というように直接に表現されるのではなくて、100円だの1ドルだのという価格として、すなわち一定量の金という共通な“物”の大きさとして相対的に表現されることになります。商品にとってその価格は、金という使用価値(“物”)の大きさであり、その一定量との等価の表現です。しかしこの場合の金は、諸商品にとっては、その金という使用価値の性質や大きさを表示するためのものなのではなくて、自分たちの価値をすなわちそれらの社会的労働の対象化としての同質性やその大きさを共通に表現するための材料(価値の形態)としてのみ取り扱われているのです。
これらのことはすぐには呑み込めないかもしれませんが、何回でも説明しますので、分からないことはどんどん質問なり意見なりを出してもらえるとうれしいです。

(前回の報告)の部分では、まずチューターから、3番目の段落の最後の文章「言いかえれば、商品は、……と答えました」という部分は、あまり正しくないので削除させてほしいという発言がありました。
ここでは「現代は大量生産の時代なのだから、労働量が等置されるというマルクスの考えでは答えられないのではないのか」という質問が出されました。チューターは、例えばかつて万年筆は高価だったが、ボールペンの時代になってとても安価になった。これは大量生産が可能になることによって、筆記具という使用価値においてその社会的必要労働量が減少したからということで説明できるのではないだろうか、と答えました。関連して、「労働価値説というのは、人間の存在の根幹としてはあるのではないか」という意見が出されました。
また「社会的必要労働が貨幣なり価格なりで示されるというのはどういうことか」という質問が出されました。この点については、はじめの部分で補足してまとめさせてもらいました。

さらに「商品の価値は、それが売れて、価格が貨幣に置き換わることで証明されるということか」という質問が出されました。チューターは、自分の説明もよくなかったかもしれないが、なにか“売れる”ということの理解に誤解があるように思う。商品の「価値の実現」、実証ということは、それが社会的必要労働の一部として無差別な労働であるということが実証されるということだから、それは別の“商品”と交換され、置き換わることで実証され実現されるということだろう。
他方、商品が「価格をもつ」ということは、この商品の交換(素材転換)が、貨幣という価値形態の媒介を経て売りと買いの二つの過程に分裂し、W─G─Wの形で行われるということである。(ただし、ここでのGは商品・金ではなくて、全商品の価値の物質的存在としての金のこと。)そして、この過程の前半部分のW─Gが売りであり、後半部分のG─Wが買いである。しかし、たとえばリンネル生産者にとってのこの前半の売り・W(リンネル)─G(貨幣)は別の小麦生産者の後半部分の買い・G(貨幣)─W(リンネル)と結びついているからややこしくなる。このWとGの保持者という二つの極から同じ行為を逆方向から見る限りでは、売りは買いであり、買いは売りである。
しかしある商品Wにとっては、売り・W─GはW─G─Wの前半部分であり過程の一部分にすぎず、それは「価格の実現」、すなわち価値形態としての一定量の貨幣への転換にすぎない。だから売り、すなわちある商品の貨幣への転換は、その価値が実証され別の商品に置き換わったということではなくて、ただその前段階としての価格が実現されたということ、他の任意の商品に置き換わり得る形態を得たということにすぎない。なお、“売り”ではなくて、“売れる”という表現には何か貨幣=儲けというイメージがあるが、儲けについては第4章の資本のところで述べられるが、ここでは問題にされてはいない。と答えました。

(説明)の部分では、久留間の図に関連して、「Gは同じ大きさのように書かれているが、そこには流通費があるから同じ大きさではないのではないか」という質問が出されました。チューターは、後に『資本論』でも運送費や倉庫費用などを流通費用として考察する部分が出てくるが、ここは流通の概念図ということなので、省略してよいのではないかと答えました。
マルクスの最後の引用の部分では、①「互いに補いあっているために内的には独立していないもの」というのは、社会的な生産と消費ということだろう、②「物の人化」とは、生産物が自然的には持つことのない社会的性質である価値をもつということだろう、③「人の物化」というのは、人々の社会的労働が商品の価値として現れるということだろう、④「商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取る」というのは、すぐ後に出てくる信用その他のことだろう、とチューターが補足しました。

(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の5回目

(3)まとめ──商品流通(商品交換 W─G─W)と直接的生産物交換(物々交換 W─W)とは、その形式が違うばかりではなくて、実質的にも違っている。

生産物の価値としての形態転換(貨幣)を媒介としている商品交換(流通)と、生産物の使用価値としての直接的転換である物々交換とは、前者が生産物が商品としてあらかじめ共通な「価格」をもっているということによって本質的に区別されます。
価値が価格で表示されるということは、“すでに”商品世界が排他的な一商品である金を一般的等価物(貨幣)とすることで、相互に価値として関連しあっているということを、前提しているのです。この場合、商品の価値関係のなかにあっては、一般的等価物(貨幣)は価値の物質的存在として、価値物体すなわち価値そのものとして、諸商品に認められることになります。だから諸商品は、この一般的等価物(貨幣)の物質的大きさによって、その価値(無差別で同質な労働という実体)の大きさを共通に表示するということが可能となるのです。言いかえれば、その大きさ(すなわち価格)の範囲では無差別に転換可能であることを、観念的な一定量の金として相互に表示しあうことができるのです。

前回も触れたように、ある商品が自らの価値姿態である貨幣へといったん形態転換することを、ある商品が別の商品・金と交換されることだと見違えることは、商品交換と物々交換とを同一視することになります。しかし、それでは商品に独自な価格も、商品交換の独自の部面である流通も見失うことになるのです。

マルクスはa「商品の変態」の項の終わりのほうで、これらの点について次のように指摘しています。
・「商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている。事態の経過をほんのちょっと振り返ってみよう。リンネル織職は無条件にリンネルを聖書と、自分の商品を他人の商品と、取り替えた。しかし、この現象はただ彼にとって真実であるだけである。冷たいもの<本>よりも熱いもの<酒>をこのむ聖書の売り手は、聖書とひきかえにリンネルを手に入れようとは考えもしなかったし、リンネル織職も小麦が自分のリンネルと交換されたことなどは知らないのである。Bの商品がAの商品に替わるのであるが、しかしAとBとが互いに彼らの商品を交換するのではない。実際には、AとBとが彼らどうしのあいだで互いに買い合うことも起こりうるが、しかし、このような特殊な関係はけっして商品流通の一般的な諸関係によって制約されているのではない。
@商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的制限を破って人間労働の物質代謝を発展させるのが見られる。他方では、当事者たちによっては制御されない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。織職がリンネルを売ることができるのは、農民がすでに小麦を売っている<Gに転換している>からこそであり、酒好きが聖書を売ることができるのは、織職がリンネルをすでに売っているからこそであり、ウィスキー屋が蒸留酒を売ることができるのは、別の人が永遠の命の水<酒>をすでに売っているからこそである、等々。
それだから、流通過程はまた、直接的生産物交換のように使用価値の場所変換または持ち手変換によって消えてしまうものでもない。貨幣は、<別の商品に置き替えられることで>最後には一つの商品の変態列から脱落するからといって、それで消えてしまうのではない。それは、いつでも、商品があけた流通場所に沈殿する。たとえばリンネルの総変態、リンネル─貨幣─聖書では、まずリンネルが<小麦生産農民がそれを消費するために買うことによって>流通から脱落し、貨幣が<リンネル織職の手の中という>その場所を占め、次には聖書が<リンネルを貨幣に転換したリンネル織職によってそれを消費するために買われることで>流通から脱落し、貨幣がその場所<聖書所持者の手の中>を占める。商品による商品の取り換えは、同時に第三の手に貨幣商品をとまらせる。流通は絶えず貨幣を発汗している。」(全初版、P148)

商品の価格は、その生産者(人)がもっているものでもなければ、その生産者が自分の労働時間や彼の恣意によって勝手に決め得るものでもありません(口をもたない商品に替わって、その生産者が値札をつけるといった手助けをすることはあっても)。価格は、実際に“物”としての商品がもっているものだということが重要でしょう。
価格は、観念のうえで“すでに”商品がもっている金としての大きさ(全商品にとっての価値の物質的存在としての)のことです。というのは、商品の価格として表示されているものは、一般的等価物である金で表示された、その商品に含まれている無差別な人間労働としての労働、すなわち価値だからです。だからこそ、商品の価格は恣意的なものではなくて、その生産のためにすでに支出された社会的必要労働の大きさの表示として現実的なものであり、また商品はそうしたものとしてすでに生まれた時から関連しあっていることを、共通な価格をもっているということで表現しているのです。
他方、商品は、直接には使用価値としての現物形態しかもっていません。だから自らを価格としてまず表現し、その価格が実現され一般的等価物である金に置き換わることで、他の商品と交換可能な形態を得ます。それは、生産物を単なる使用価値としてではなくて、同時に無差別な人間労働の対象化として相互に関係させることで社会の物質代謝をしなければならない社会において、私的な生産物がもたねばならない必然的な方式なのです。

2018年3月21日

「読む会」だより2月用

「読む会」だより(18年2月用) 文責IZ

(前回の報告)
1月21日に行われた「読む会」では、はじめにチューターから、「たより1月用」の最後にある久留間の『貨幣論』からの引用は、(前回の報告)の部分の2段落目に移して、「価格または価値尺度機能について、久留間は」という形で説明したい、と訂正がありました(HP上では変更済み)。

(前回の報告)の部分では、久留間の引用部分を含めてとくに意見は出ませんでした。
しかし久留間が第2の文章で強調しているように、商品の「価値の価格としての表示が」可能になるのは、「あらゆる商品が……金を貨幣に(それの自然形態がそのまま価値<社会的必要労働……レポータ>の定在として一般的に妥当するものに)した」からだ、ということは重要な指摘と思われます。このことは第一の文章で言えば、「貨幣=金で諸商品が自己の価値を表わす」ということ、すなわち商品がその価値を「価格」で表現するという後半の過程は、あらかじめ「諸商品が金を貨幣<価値の形態>にする」という社会的な規定が前提されているからだということです。
金(貨幣)が価値の定在となるという社会的な規定の媒介によってはじめて、商品の価値(社会的必要労働としての無差別性)は「価格」として、金という“物”の大きさとして表示されうるのです。そして商品世界が貨幣を生みだした結果としてはじめて、商品交換(W─W)は販売(W─G)と購買(G─W)とに分裂することが可能になり、またそのことによって、直接的生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を超えた商品の全面的な交換と、社会的な生産と消費とを媒介する独立した場としての「市場」ないし「流通」が形成されうるのです。

(説明)部分の(1)「まさに見るべきもの」とは何か──商品の「変態(形態変換)」と貨幣の役割 への追加部分では、いくつか質問が出ました。
まずは、W─G─Wと言われるが、Gは時々の需要の変化などによってその量は変化するのではないか、という質問でした。チューターは、たしかに量的な変化はあるとしても、生活必需品などは一定期間の平均をとればある一定の範囲であろう。だがなによりもここでの問題は、商品自身の「形態の変換」の問題であって、一般商品と貨幣商品との「交換」の問題ではないということが重要だろう。すなわち商品が、その使用価値としての自然的な形態を脱ぎ捨てて、金(貨幣)に置き換わるということは、その商品がある別の使用価値を持った金と「交換」されるということではない。商品は、使用価値であると同時に価値であるという、あるいは具体的有用労働の対象化でもあると同時に抽象的人間労働の対象化であるという二重の存在なのでした。商品は、その特殊な使用価値としての姿を脱ぎ捨てて、価値の定在であると社会的に認められた「価値の形態」としての金に「形態転換」することではじめて、自分はたんなる使用価値ではなくて価値をもった商品であり、つまり社会的必要労働の対象化として他の商品と同質であることを証明できるのです。言いかえれば商品は、価格によって観念的に表示されていただけの価値(社会的必要労働の対象化)としての存在を、金(貨幣)の姿に現実に置き換わることによって実証していかなくてはならないということが、ここでは重要なことではないかと答えました。

この点については、前回の「たより1月用」の説明(2)で引用しておきました、マルクスの以下の言葉が参考になると思います。
・「一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。すぐ目につく現象は、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンド・スターリングとの、持ち手変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。だが、なにと商品は交換されるのか? それ自身の一般的な価値姿態とである。そして、金はなにと? その使用価値の一つの特殊な姿態とである。なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか? 2ポンドというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれる。@
それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化である。この一つの過程<W⇔G……レポータ>が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言いかえれば、売りは買いであり、W─Gは同時にG─Wである。」(全集版、P144)

関連して、流通に貨幣がどんどん入ってくるような場合はどうなるのか、商品の価値は変わらなくても価格は変わるのではないか、という質問が出ました。チューターは、少し後の問題になるが、まず貨幣と通貨(価値標章)の場合では違うということに注意してほしい。金本位で金属貨幣が流通する場合には、必要な通貨(金)の量は基本的に商品の価格総額で決まり、それに過不足があれば流通外から金が流出入することになるので、価格は価値を代表しうる。他方、現代のように通貨(価値標章)が流通を支配する場合には、通貨が多くなれば(それが代表する価値が相対的に減少するがゆえに)価格が上がるといった、いわゆる貨幣数量説がなりたつような現象が起こる、と説明しました。

このあと説明の(2)には入らずに、第2節の流通手段の部分はマルクスが非常に分かりやすく述べているところなので、チューターがいくつか補足を加えながら、a「商品の変態」のはじめの部分を全集版にそって実際に読んでいきました。今回も、説明(2)のあと、時間があればもう数ページを読んでいきたいと思います。
なお、(2)の内容は以前のものから訂正しました。

(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の4回目

(2)売り(W─G)は同時に買い(G─W)であり、また買いは同時に売りである。しかし実際には、この売りと買いとは、ある商品の形態転換(たとえば小麦を売った貨幣でリンネルを買う)の第二変態(G─W)であるリンネルの買いと、別の商品の形態転換(たとえばリンネルを売った貨幣で聖書を買う)の第一変態(W─G)であるリンネルの売りとが同時に現れているにすぎない。商品流通は、単なる商品と貨幣(あるいは商品所有者と貨幣所有者)との交換ではなくて、諸商品の形態転換が相互に絡まった、もっとも単純な姿でも4つの極と3人の商品所持者を前提する複雑な過程である。

商品所持者としての個人的な観点からのみ商品の交換を見ていたのでは、商品流通の全体は見えません。その典型的な例が、流通が商品と貨幣との「交換」のように見えるというという点です。マルクスはこう触れています。

・「いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た2枚の金貨は、1クォーターの小麦の転化された姿であると仮定しよう。リンネルの売り、W─Gは、同時に、その買い、G─Wである。しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始まったものである。@
W─G(リンネル─貨幣)、この、W─G─W(リンネル─貨幣─聖書)の第一の段階は、同時にG─W(貨幣─リンネル)であり、すなわちもう一つの運動W─G─W(小麦─貨幣─リンネル)の最後の段階である。一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である。」(全集版、P145)

商品流通とは、まさにこのような諸商品の変態がからみあった総体です。それは生産物の引き渡しとそれとひきかえの生産物の受け渡しとが直接的同一性をもっている直接的生産物交換(物々交換)とはまったく異なって、貨幣を媒介とする流通によって両者(生産物の引き渡しと受け取り)が販売(売り)と購買(買い)とに分裂させられていることを特徴としているのです。
マルクスはa項の終わりにこう述べています。

・「どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。@
それの意味するところが、現実に行われた売りの数が現実に行われた買いの数に等しい、というのであれば、それはつまらない同義反復である。しかし、それは、売り手は自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行動としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術のるつぼに投げ込まれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の生涯の一時期を、なすということを含んでいる。商品の第一の変態は同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現れるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっている。別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。しかし、だれも、自分が売ったからといって、すぐに買わなければならないということはない。@
流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それとひきかえに他人の労働生産物を受け取ることの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。@
独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同様にまた、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動するということをも意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる──恐慌というものによって。商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立──この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からはまだまったく存在しない一大範囲を必要とするのである。
商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる。」(全集版、P149)

2018年2月18日

「読む会だより」1月用

「読む会」だより(18年1月用) 文責IZ

(前回の報告)
12月の「読む会」は、多くの方が都合で参加できませんでしたので(あらかじめの連絡ありがとうございました)、(説明)の部分は読むだけで済ませました。この部分は、若干の訂正と追加を行って今回行ないます。(★が訂正または追加部分、●印は口頭説明を予定している所です。つぎはぎ的で申し訳ありません。)

12月17日に行われた「読む会」では、(前回の報告)の部分にたいして、「価値の決まり方と、価格の決まり方とでは違うのか? マルクスも利子や地代が価値に含まれると言っていたような記憶があるのだが」という質問が出されました。
これに対してチューターは、まず後者の質問については、以前、価値分解説と価値構成説の説明の時に簡単に触れたように、商品の価値が賃金と利潤および地代からなると説明したのはスミスであり、またその説を継承しているいわゆる近代経済学派である。マルクスはむしろ反対に剰余価値が利潤、利子、地代としてそれぞれの階級に分解するといういわゆる価値分解説を唱えているので、何かの記憶違いでしょうと説明しました。
また、前者の質問については、価値はその商品の生産のために費やされた社会的必要労働時間として現実的な内容をもっています。しかし私的生産物の交換を基礎とする社会では、それを直接計測できないがゆえに、それは労働時間としてではなくて価格として、つまり一定量の金(貨幣商品)として表現されるほかありません。つまり、価値は価格として“現象する”のですが、これは両者の決まり方が違うというのとは別の事柄だと思われます。ただ、商品の価値が価格として表現される場合、商品自身の価値の大きさの変化と、価値の大きさの表現材料である金(貨幣商品)の価値の大きさの変化という二つの要因が入ってくるということはあります、と答えました。

価格または貨幣の価値尺度機能の理解のためには、久留間鮫造著『貨幣論』での以下のような、指摘が参考になると思われます。
「諸商品が金を貨幣にする過程と、貨幣=金で諸商品が自己の価値を表わす過程とを、区別しなければならない……価値尺度についてのマルクスの考え方──価値の価格としての表示における金の役割を価値尺度機能だと考え、それを金の貨幣としての第一の機能だと考えるマルクスの考え方──」(P173)
「価値の価格としての表示を可能にする貨幣=金の媒介的機能こそ、価値尺度の質的な面だ……それ<商品の価格>が誰によって、あるいはなにによって決定されるにしても、また、その価格が価値を表示するものとして高すぎようが低すぎようが、それは価格であることに変わりはない。なぜなら、それは、貨幣としての金の形態における価値の表現だからである。そして、商品の販売ということは、それを前提にして──価格を前提にして──はじめて考えられることである。なぜなら販売は価格の実現であり、価格の実現は必然的に価格を前提するからである。●販売されたさいの価格がどのようにして決定されようが、またその価格が価値を表現するものとして低すぎようが高すぎようが、それが実現されて現実の金になれば、その金の量的限界の範囲内では、どんな商品でも買えるものになる。金はけっして、本来的にそういうものなのではない。金がそういうものになったのは、あらゆる商品がそれらの価値をもっぱら金で表現することによって、金を貨幣に──それの自然形態がそのまま価値の定在として一般的に妥当するものに──したからであり、商品の価値がこのような貨幣としての金で、価格として表現されることになったからである。この、●価値の価格としての表示は、貨幣としての金の媒介によってはじめて可能なのであり、この媒介的な機能において、貨幣金は価値の尺度なのである。これこそが、価格の、したがってまた価値尺度としての貨幣の機能の、質的な面であり、根本である。」(P178)

(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の3回目

はじめに、前回落としていました商品の形態転換についてのマルクスのまとめの部分を引用しておきます。(分業の意味について書かれた部分(全集版ではP143)なども重要ですが、ここでは★読むだけにします。)
ある商品Aが他の商品Bと直接に交換されるということは、それぞれが独立した使用価値としての姿をもっているためにすでに触れたような大きな矛盾をもちます。この矛盾を解決するために貨幣が成立し、商品は価格をもつ──その価値を価格として共通に表示する──ことによって他商品と同等な価値としての姿をもちます。このことによって、商品の交換は、販売(Wa─G)と購買(G─Wb)という二つの相対的に自立した過程に分裂して遂行されるようになります。分かりやすく言えば、商品所持者は、自分の商品を直接に自分の欲する他の商品と交換するのではなくて、まず貨幣(★すなわちその商品の価値の形態である)にたいして交換し、この媒介(★すなわち形態転換)を経て、次にこの貨幣を自分の欲する任意の商品と交換することになります。そこで、

・「こうして商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態──商品の貨幣への転化と貨幣から商品へのその再転化とにおいて行なわれるのである。商品変態の諸契機は、同時に、商品所持者の諸取引──売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣と商品との交換、そして両行為の統一、すなわち買うために売る、である。
……
こういうわけで、商品の交換過程は次のような形態変換をなして行われる。
商品─貨幣─商品  W─G─W
その素材的内容から見れば、この運動はW─W、商品と商品との交換であり、社会的労働の物質代謝であって、その結果では<貨幣すなわち価値の形態を媒介とした二つの項の統一という……レポータ>過程そのものは消えてしまっている。」(全集版、P140)

(2)売り(W─G)は同時に買い(G─W)であり、また買いは同時に売りである

商品所持者としての個人的な観点からのみ商品の交換を見ていたのでは、商品流通の全体は見えません。その典型的な例が売りは同時に買いであり、買いは同時に売りであるという点です。
マルクスは、「W─G、商品の第一変態または売り」の説明の中でこう触れています。
・「一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。すぐ目につく現象は、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンド・スターリングとの、持ち手変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。●だが、なにと商品は交換されるのか? それ自身の一般的な価値姿態とである。そして、金はなにと? その使用価値の一つの特殊な姿態とである。●なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか? 2ポンドというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれる。その価値姿態にあっては@
●それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化である。この一つの過程<W⇔G……レポータ>が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言いかえれば、売りは買いであり、W─Gは同時にG─Wである。」(全集版、P144)

・「金の生産源での金と商品との交換を別とすれば、どの商品所持者の手にあっても、金は、彼が手放した商品の離脱した<岩波文庫訳では「脱皮した」>姿であり、売りの、または第一の商品変態W─Gの、産物である。金が観念的な貨幣または価値尺度になったのは、すべての商品が自分たちの価値を金で計り、こうして、金を自分たちの使用姿態の想像された反対物にし、自分たちの価値姿態にしたからである。金が実在の貨幣になるのは、諸商品が自分たちの全面的譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した、または転化された使用姿態にし、したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからである。<貨幣という……レポータ>その価値姿態にあっては、商品は、その自然発生的な使用価値の、またそれを生みだしてくれる特殊な有用労働の、あらゆる痕跡を捨て去って、無差別な人間労働の一様な社会的物質化に蛹化(ようか)する。それだから、貨幣を見ても、それに転化した商品がどんな種類のものであるかはわからないのである。その貨幣形態にあっては、<商品は……レポータ>どれもこれもまったく同じに見える。だから、貨幣は糞尿であるかもしれない。といっても、糞尿は貨幣ではないが。@
いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た2枚の金貨は、1クォーターの小麦の転化された姿であると仮定しよう。●リンネルの売り、W─Gは、同時に、その買い、G─Wである。しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。●リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始まったものである。@
W─G(リンネル─貨幣)、この、W─G─W(リンネル─貨幣─聖書)の第一の段階は、同時にG─W(貨幣─リンネル)であり、すなわちもう一つの運動W─G─W(小麦─貨幣─リンネル)の最後の段階である。●一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である。」(全集版、P145)

★2番目の●(「なぜ金は……」)の所では、「2ポンドというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである」と指摘されています。商品が「価格」をもつということ、あるいは同じことですが貨幣が「価値尺度機能」をもつということは、諸商品が商品世界の一部として価値表現の関係のなかに入っているということを、そしてまたそのなかで貨幣商品・金がその現物(使用価値)のままで、価値の形態(社会的労働時間の代表物)として認められるということを意味しているのです。

商品流通とは、まさにこのような諸商品の変態がからみあった総体なのです。
(参考として、久留間鮫造の『恐慌論研究』(大月)所収の「物価と通貨と需要」の中にある、「商品の変態と貨幣の通流」の図を添付しておきます。)

2018年1月21日

「読む会」だより12月用

「読む会」だより(17年12月用) 文責IZ

(前回の報告)
11月19日に行われた「読む会」では、(前回の報告)の部分でまず、「価値が労働時間で測られるというのがやはりよく分からない、個人的な差異もあれば、空気といった労働が支出されていないものでも価値があるのだから」という意見が出されました。
空気のように労働が支出されていないにもかかわらず有用な物は、“使用価値”ではあっても価値(社会的に必要な労働支出の表現)ではなく、また商品でもありません。(これらのことは『資本論』の冒頭の第1章の1節「商品の二つ要素 使用価値と価値」の部分で述べられていますので、参照ください。『経済学批判』では、パン屋が作ったパンは価値を持つが、出来上がったパンが空から降ってきても、そのパンは使用価値を持ってはいても価値を持ってはいない、とマルクスは説明しています。)

このことは、当日お話してお分かりいただけたかと思いますが、貨幣の機能を理解するためには、大まかに言って二つの事柄の理解が重要かと思われます。
一つは、商品は、使用価値であるばかりではなくて、価値すなわち「労働時間の塊」でもあるということです。
これは、労働の二面性(第1章第2節「商品に表わされる労働の二面性」)と呼ばれます。すべての労働は、一面では具体的な有用労働であり、素材に働きかけ、生産物の使用価値を生み出します(たとえば布を裁縫して服を作るように)。このことは誰にでもよく分かります。
しかし労働がいつでも一定の社会のなかで行われる以上、すべての労働は、他面では、社会的な性格を持ちます。商品社会にあってはそれは、社会的に同等で区別ない、その意味で抽象的な労働ということになります。しかし商品に含まれる労働が、一面では抽象的労働であるということは、分かりにくいものです。というのも、発展した商品生産社会である資本主義社会にあっては、労働は私的な諸労働に分割されていることが前提されていますし、そのうえに、この労働の社会的な性格は、労働自身の性格としてではなくて、その生産“物”がもつ性格として、すなわち商品の価値として現れるからです。(歴史的な社会構成体における、それぞれに固有な労働の社会的な性格については、第1章4節「商品の呪物的性格とその秘密」を参照ください。)
商品を、抽象的な労働、あるいは社会的に同等な必要労働の結果としてみるならば、商品は「<社会的に必要な……レポータ>労働時間の塊」であり、それ自身価値(社会的必要労働時間の対象化)なのです。そして商品の使用価値とは異なって、商品の価値は、その素材や自然的属性とは全く無縁であって、支出労働時間の表現にすぎません。
商品は──人間個々人の意思とは関わりなく──、自らを価値として表現し、価値として他商品と関係することによって、社会の物質代謝を“商品流通”という姿で行なうのですが、ここで重要な働きをするのが貨幣です。(貨幣の機能を述べることは、すなわち商品流通を述べることになるので、第3章は「貨幣または商品流通」というタイトルになっています。)

もう一つは、貨幣は、商品自身の二重化によって、すなわち商品相互の価値表現の役割の分化によって生まれたということです。これは言いかえれば、一般的等価物であり価値の独立な形態として認められるという貨幣の性格は、その貨幣商品自身の自然属性(使用価値)に基づくものではなくて、様々な使用価値を持つ商品が相互に共通な社会的支出労働時間(すなわち価値)として関係しあうための社会的な必要性から生まれたということです。
(貨幣もまた商品であるという点からいえば、貨幣の価値もまたその生産に支出された必要労働時間で決まります。だから商品の貨幣との交換・転換は、たんなる等価交換なのであって、それによって商品の価値が決まるというわけではない、ということも明らかでしょう。)
貨幣の価値尺度機能によって、諸商品は、相対的にではありますが──つまり貨幣・金を生産する労働時間との比率としてですが──、共通な社会的必要労働時間として、相互に、全面的に関係しあえることになります。反面、商品世界から排除されたこの貨幣商品は、欲望の一般的対象となることによって、個人的な欲望の制約から解放され、あるいは同じことですが独立した使用価値としての制約から解放されることになります。こうして商品世界は、貨幣を仲介物とすることによって、商品交換を、人間の個人的な欲望の制約から解放すると同時に、社会的必要労働時間に対応した交換を実現することで、全面的な社会的物質代謝を築き上げているのです。
前回触れたように、ある商品(W)の貨幣(G)への転換、さらにその貨幣(G)から別の商品(W’)への転換ということは、商品と貨幣という“二つの使用価値”の間での別々の行為なのではなくて、貨幣を価値の形態とすることで行われる、当該の“一つ商品の価値”の形態転換(W─G─W’)なのであり、この一連の行為のなかでの二つの項をなしているのです。
このことが理解いただければ、前回お話ししましたように、たとえば商品から貨幣への転換(W─G)ということは、「貨幣で買う」こと、つまり一商品が他の一商品としての金と交換されるということではありません。それは、一商品が「価格」としてすでに観念的に存在していた自分自身の価値の姿に現実に転化することなのであり、この意味で商品自身の「形態転換」にほかならないのです。

また関連した質問として、「商品の価値が価格として現れるとはどういうことか、例えばある農家がコメとイモを作っているとして、コメが高い価格で売れればコメの方により多くの労働時間を割くといったことか」という質問も出されました。
チューターは、個々の農家としてではなくて社会全体としてコメのために支出される労働が多ければ、コメの価値は大きくしたがってその価格が高くなるということは言えるだろう。しかし、コメの価値が価格として現れるということは、そういうことではなくて、コメの必要労働量としての価値が、イモやその他の商品と同じくいくばくかの金量で共通に表示されるということだ、と答えました。大したことではないように思われるかもしれませんが、このことは生産物が個人的な欲望の制約から解放され、商品として全面的に交換されるために必要不可欠な条件なのです。

(説明)部分にはあまり意見や質問は出ませんでしたが、当日急用で参加できなかった方から、「第2節(1)のはじめの引用で『商品の交換過程での矛盾』と言われているが、交換過程での使用価値と価値との矛盾というのがよく分からない」という質問がメールで寄せられました。
商品に含まれる使用価値と価値との矛盾というのは、商品は、孤立的に見た場合、一方でその“現物”としては(それがもつ自然属性としては)独立した使用価値であり、他の商品とそれぞれに質を異にしていなければなりません。他方で商品は、価値としては、つまり社会的に同等な“必要労働の塊”としては、相互に同質──量は異なるとしても──でなければなりません。一方では他の商品と異質でなければならないのに他方では同質でなければならないということ、つまり使用価値であると同時に価値であること、これが「商品の矛盾」です。
しかし商品は他の商品と関係し、交換されあうからこそ商品です。他の商品との関係(交換過程)のなかでは、ある商品と別のある商品とは、ともに使用価値であると同時に価値である商品として関係しなければなりません。そこでこの関係のなかでは、先ほどの「商品の矛盾」は、より具体的な矛盾として現われることになります。つまり商品はその所有者にとっては非使用価値なのですから、一方では「使用価値として実現されうる前に」すなわち実際に使用価値として他人に譲渡される前に、「価値として実現されなければならない」すなわち交換可能なものでなければなりません。他方では、それが他人に譲渡されうる、つまり価値として実現されうるためには、商品は、他人にとってそれが実際に使用価値であることを証明していなければなりません。つまり「自分を価値として実現しうる前に」、「自分を使用価値として実証しなければならない」ということになります。商品は、一方では交換の結果としてはじめて、それが他人のための使用価値であり社会的必要労働時間の対象化、すなわち価値であったことが実証されるほかないのに、他方では交換される以前からそれが他人のための使用価値であり価値であることが前提されていなければならない、という矛盾(「交換過程の矛盾」)として商品の矛盾は表面化するのです。この矛盾は、ある商品所有者が自分の商品を他の商品と無条件に交換可能な価値として押し通そうとしても、他の商品所有者もまた同じように自分の商品だけを価値として押し通そうとするために、商品交換が一般に行き詰まるという現実的な矛盾として現れるほかありません。
この交換過程の矛盾を解決して商品交換を全面的に行うために、商品は、いったんそれ自身の使用価値の姿を脱ぎ捨てて、他の商品と共通な価値の形態=貨幣の姿に置き換わるという過程(媒介・仲介された)を経ることになります。商品が共通な「価格」をもつということは、排除された一商品を、商品世界が価値の形態=貨幣と認め、商品生産社会における社会的物質代謝を全面的に行なうための手順の始まり──観念的等置──なのです。

(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の3回目

はじめに、前回おとしていました商品の形態転換についてのマルクスのまとめの部分を引用しておきます。(分業の意味について書かれた部分(全集版ではP143)なども重要ですが、ここでは省略します。)
ある商品Aが他の商品Bと直接に交換されるということは、それぞれが独立した使用価値としての姿をもっているためにすでに触れたような大きな矛盾をもちます。この矛盾を解決するために貨幣が成立し、商品は価格をもつ──その価値を価格として共通に表示する──ことによって他商品と同等な価値としての姿をもちます。このことによって、商品の交換は、販売(Wa─G)と購買(G─Wb)という二つの相対的に自立した過程に分裂して遂行されるようになります。分かりやすく言えば、商品所有者は、自分の商品を直接に自分の欲する他の商品と交換するのではなくて、まず貨幣にたいして交換し、この媒介を経て、次にこの貨幣を自分の欲する任意の商品と交換することになります。そこで、

・「こうして商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態──商品の貨幣への転化と貨幣から商品へのその再転化とにおいて行なわれるのである。商品変態の諸契機は、同時に、商品所持者の諸取引──売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣と商品との交換、そして両行為の統一、すなわち買うために売る、である。
……
こういうわけで、商品の交換過程は次のような形態変換をなして行われる。
商品─貨幣─商品  W─G─W
その素材的内容から見れば、この運動はW─W、商品と商品との交換であり、社会的労働の物質代謝であって、その結果では<貨幣すなわち価値の形態を媒介とした二つの項の統一という……レポータ>過程そのものは消えてしまっている。」(全集版、P140)

(2)売り(W─G)は同時に買い(G─W)であり、また買いは同時に売りである

商品所持者としての個人的な観点からのみ商品の交換を見ていたのでは、商品流通の全体は見えません。その典型的な例が売りは同時に買いであり、買いは同時に売りであるという点です。
マルクスは、「W─G、商品の第一変態または売り」の説明の中でこう触れています。
・「一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。すぐ目につく現象は、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンド・スターリングのとの、持ち手変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。だが、なにと商品は交換されるのか? それ自身の一般的な価値姿態とである。そして、金はなにと? その使用価値の一つの特殊な姿態とである。なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか? 2ポンドというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれる。その価値姿態にあっては@
●●それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化である。この一つの過程<W⇔G……レポータ>が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言いかえれば、売りは買いであり、W─Gは同時にG─Wである。」(全集版、P144)

・「金の生産源での金と商品との交換を別とすれば、どの商品所持者の手にあっても、金は、彼が手放した商品の離脱した<岩波文庫訳では「脱皮した」>姿であり、売りの、または第一の商品変態W─Gの、産物である。金が観念的な貨幣または価値尺度になったのは、すべての商品が自分たちの価値を金で計り、こうして、金を自分たちの使用姿態の想像された反対物にし、自分たちの価値姿態にしたからである。金が実在の貨幣になるのは、諸商品が自分たちの全面的譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した、または転化された使用姿態にし、したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからである。<貨幣という……レポータ>その価値姿態にあっては、商品は、その自然発生的な使用価値の、またそれを生みだしてくれる特殊な有用労働の、あらゆる痕跡を捨て去って、無差別な人間労働の一様な社会的物質化に蛹化(ようか)する。それだから、貨幣を見ても、それに転化した商品がどんな種類のものであるかはわからないのである。その貨幣形態にあっては、<商品は……レポータ>どれもこれもまったく同じに見える。だから、貨幣は糞尿であるかもしれない。といっても、糞尿は貨幣ではないが。@
いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た2枚の金貨は、1クォーターの小麦の転化された姿であると仮定しよう。●●リンネルの売り、W─Gは、同時に、その買い、G─Wである。しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。●●リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始まったものである。@
W─G(リンネル─貨幣)、この、W─G─W(リンネル─貨幣─聖書)の第一の段階は、同時にG─W(貨幣─リンネル)であり、すなわちもう一つの運動W─G─W(小麦─貨幣─リンネル)の最後の段階である。●●一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である。」(全集版、P145)

商品流通とは、まさにこのような諸商品の変態がからみあった総体なのです。
(参考として、久留間鮫造の『恐慌論研究』(大月)所収の「物価と通貨と需要」の中にある、「商品の変態と貨幣の通流」の図を添付しておきます。)

2017年12月17日

「読む会」だより11月用

「読む会」だより(17年11月用) 文責IZ

・10月の「読む会」はチューターの都合で中止させていただきました。申し訳ありません。

(前回の報告)
9月の「読む会」では、まず(前回の報告)の部分で、「“観念的な”価値尺度のうちには“堅い”貨幣が待ち伏せしている」という表現について、やはりよく分からないという意見が再度出されました。この点については、参加者から「以前は金貨や銀貨もあったし、貨幣が硬貨だったからにすぎないのではないか」という意見が出されました。
チューターとしては、それはそうとして、むしろ“待ち伏せしている”という表現に注意してほしい。それは諸商品が貨幣に転換されなければならない“必然性”のことを、もっと言うならば諸商品が「価格」として互いに同質・同等なものとして表現されなければならない“必然性”のことを言っているということに注意してほしいと述べました。

この点は、第2節「流通手段」の理解ともかかわっており、たんなる言葉の問題ではないと思われますので、もう少し説明しておきます。
問題となっているのは、3章第1節の最後のパラグラフ「価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。他方、金は、ただそれがすでに交換過程で貨幣商品としてかけまわっているからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。」(全集版、P137)という部分です。
商品の価値というのは、諸商品を社会的に同等な必要労働時間の支出の一部分として見るということです──そして、その意味で商品の価値は観念的なものです。諸商品は、社会的に必要な労働支出の一部として見るならば相互に同等であり、だから一定の割合で相互に交換可能でなければなりません。(そうでなければ、商品交換によって社会生活を全面的に成立させることができないのですから。)
しかしながら諸商品は、相互に異質であるからこそ交換されるのであってみれば、そうした同等なものとしての姿をその商品自身の姿で、すなわちその現物形態、使用価値としての姿そのもので表現できません。だからそうした相互に同等な姿を、「交換過程で」「かけまわっている」“一つの”貨幣商品(金ないし銀)との“等価”での表現を通じて、“共通に”表現することしかできません。このように貨幣商品で“相対的に”表現された価値の表示が「価格」です。
(“相対的に”というのは、諸商品が一つの貨幣商品で“共通に”価値を表示すると言っても、それは社会的必要労働時間そのものの表示ではないのだからです。また、本来“共通な”ものは、諸労働の社会的な労働としての同等な性格なのですが、商品交換すなわち社会的に共通な労働としてではなく、相互に独立して営まれる私的労働を基礎にしているかぎり、労働の社会的な性格は生産物である商品の性格として現われるほかないからです。)
こうして諸商品が「価格」をもつということ、つまり商品の“価値”が相互に共通な一つの貨幣商品(の大きさ)として、言いかえれば“自分自身とは異なる物”で表現されるということは、諸商品が価値として、他商品と社会的に同等なものとして現われるためには、いったんそれ自身の姿を捨てて、自分自身とは異なる「貨幣」の姿をとらねばならないということでもあります。
「それゆえ」──直接的生産物交換(物々交換)とは異なって──諸商品があらかじめ「価格形態」をもつということは、一方では、特定の商品である金・銀が「交換過程で貨幣商品としてかけまわって」諸商品と等置され、諸商品に共通な等価物となることで「観念的な価値尺度として機能」するということすなわち貨幣になるということです。そこでは貨幣商品は、その現物の使用価値とは関係のない、他商品の価値の表現物として機能するという社会的機能をもちます。他方そのことは同時に、諸商品が価値として機能し、他の商品と一定の割合で置き換わるためには、“実際に”価値の形態として社会的に認められた一定量の貨幣商品(金ないし銀)にいったん置き換わらなければならない、という必然性が「待ち伏せている」ということでもあるのです。

商品の「価格」は、なにか生産者が勝手に付けることができる“恣意的”なものに見えます。それは「価格」が、たんに一定量の貨幣・金との「等置」を表示するだけであり、その意味で「観念的な」ものだからです。しかし「価格」は、商品の価値、すなわちその商品を生産するのに必要な社会的必要労働時間の“独特な”表示方法であることを理解するならば、それは決して“恣意的”・“主観的”なものではなくて、生産力の状態や特定の労働への労働の偏りなどによって社会的に規定される客観的なものなのです。(だから「誰が価格を付けるのか?」といった疑問は無意味です。)だからこそマルクスは3章第1節のはじめのほうで、「それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには……、これらの物に紙札をぶらさげるかしなければならないのである」(全集版 P127)と語っているのです。

補足が長くなりましたので、(前回の報告)部分で出た、その他の質問・意見については省略します。
(説明)の部分は、前の部分での議論が長くなり、前半の二つのパラグラフをチューターが読むだけで終わり、検討は次回にということになりました。
なお、(説明)の3パラグラフの引用で<>内でチューターが補足した「彼ら」というのは、当時の経済学者とりわけリカードやベーリが念頭に置かれています。(原注32、36などを参照ください。

今回の(説明)は、前回の(1)の部分を若干手直しするだけでそのまま利用させていただきます。
(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の2回目

(1)「まさに見るべきもの」とは何か
──商品の「変態(形態変換)」と貨幣の役割

第2節の冒頭でマルクスはこう述べています。
・「すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態<貨幣の生成……レポータ>をつくりだす。」(全集版、P138)
ここで言われている矛盾した諸関係というのは、商品は一方では、「使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならない」(同、P115)が、他方では「自分を価値として実現しうる前に、自分を使用価値として実証しなければならない」(同)という矛盾でした。商品はこの矛盾をなくしてしまうことはできませんが、自らを“価格”として表示することによって、譲渡によって使用価値として実現される前に、相互に価値として表現しあい、関係しあうことを可能にしたのです。
矛盾の一般論については、「読む会」では触れないことにします。

つづいてこう述べられます。
・「交換過程が諸商品を、それらが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移すかぎりでは、この過程は社会的物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わるのである。ひとたび、使用価値として役立つ場所に達すれば、商品は、商品交換の部面から消費の部面に落ちる。ここでわれわれが関心をもつのは、前のほうの部面だけである。そこでわれわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。」
前半は問題ないでしょう。後半で問題なのは、なぜ素材としての使用価値の面を無視して「形態の面」だけを問題としなければならないのか、ということと思われます。社会的な物質代謝が行なわれるということは、すなわち分業が行われるということでもあります。しかしここで問題とすべきなのはその特殊な在り方、すなわち社会的分業なり社会的物質代謝なりが、人間自身の統御によるのではなくて、その生産物である商品の価値関係にもとづいて行なわれる場合の、その独特な方式が問題であるからです。

a商品の変態 の項目のなかで一番重要なのは、その次のパラグラフと思われます。
・「この形態転換の理解がまったく不十分なのは、<ベーリをはじめとする経済学者たちにとって……レポータ>価値概念そのものが明らかになっていないことを別にすれば、ある一つの商品の形態変換は、つねに二つの商品の、普通の商品と貨幣商品との交換によって行われるという事情のせいである。商品と金との交換というこの素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになる。金はただの商品としては貨幣ではないということ、そして、他の諸商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態<すなわち価値姿態……レポータ>としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすことになるのである。」(全集版、P138)

ここで「まさに見るべきもの」と言われているのは、商品の“価値としての”「形態変換」ということです。ここで言われているとおり、私たちの目の前でも行われているように、商品の交換は直接に行われるのではなくて、貨幣を媒介にして行われます。そこで交換は商品と金(貨幣)という二つの商品の間の出来事のように見えてしまいます。しかしながら、商品交換における金(貨幣)というのはただの商品としての役割で出てくるのではありません。それはある商品がもっていた“価格”、すなわちその商品が“あらかじめ”持っていた価値性格とその大きさを実現する役割をもつものとして出てきているだけなのです。
注意すべきことは、以前にも触れましたが、商品はその生産時に支出された労働によって“あらかじめ”価値を持っているということです。商品の価値(使用価値ではありません、支出労働時間のことです)は、他の商品との交換において一定の比率として“現われる”のですが、しかしこの比率は交換によって決まるのではないということが決定的に重要です。
言いかえれば、ここでの商品と金との交換は、商品どうしの交換や物々交換ではありません。この交換は、ある商品のもっている特定の現物形態からその無差別な価値の形態への、“価値”としての「形態変換」にすぎないのです。
しかも、商品と金(貨幣)との交換といっても、それは商品の金への変換(すなわち売りW─G)と、金の商品への変換(すなわち買いG─W)の二つに区別されます。それらは別々に独立した過程なのではなくて、基本的には、ある商品が金への変換を経て別の商品に変換するという、社会的物質代謝の過程(W─G─W’)のなかの、対立した二つの部分にすぎないのです。
商品の貨幣への転換がその商品自身の価値としての形態転換にすぎないということを「見落とす」と、商品が貨幣に置き換わるという前半部分(売り・W─G)すらも「貨幣で買う」ことのように見えてしまいます。そうではなくて、GはWの商品自身のもっている価値の姿なのであり、売り・W─Gというのは、ある商品が観念的には“価格”としてすでに存在していた自分自身の価値の姿に、現実に転化する(別の商品に再度置き換わるために)ということにすぎないのです。売りW─Gも、買いG─Wも、商品W自身の形態転換にほかならないのです。

2017年11月19日

「読む会」だより9月用

「読む会」だより(17年9月用) 文責IZ

(前回の報告)
8月の「読む会」では、(前回の報告)の部分についてはとくに質問や意見は出ませんでした。
(説明)の「(3)なぜに観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのか」の部分では、まず「“堅い”貨幣」というのはどういう意味か、自分は価格は需要等によって変化すると考えているのでその意味がよく分からない、という質問が出されました。
これに対しては、別の参加者の方から、「価格は抽象的なものだが、それが転換する貨幣は具体的で実在的なものだ、という意味で“堅い”と言われているのでないか」という意見が出されました。需要の変化等によって価格が変動するのは事実ですが、そのことと商品の価値はいつでも価格として相対的に表現されねばならないということとは、問題が別のことのように思われます。

また、価格は価値形態の発展した形態である、ということに関連して、チューターは「価値形態」という言葉は、はじめて読む人には難しいと思われる。「価格」を含めて、「価値形態」というのは、商品による価値の相対的な「表現方法」のことだと理解して読んでいただくと分かりやすいのではないかと述べました。
これにたいしては、「価値の形態(姿)」という言い方もある。この場合には「表現方法」と読むのはどうか、という意見が出されました。チューターは、たしかにその場合にはたとえば金が価値そのものを表現するものとされるという意味だ。しかしそうした場合にも、金にそのような役割が与えられるのは、商品相互による一定の表現方法によってそうなるということが重要なので、「表現方法」と基本的に考えてよいのではないか、と答え了解されました。
関連してチューターは、(報告)の引用部分で「価格は、1トンの鉄の価値を1オンスの金<右辺の商品>が鉄<左辺の商品>と直接に交換されうるということによって表現するのであるが、けっして、逆に鉄<左辺の商品>の方が金<右辺の商品>と直接に交換されうるということによって表現するのではない」とマルクスが強調していることに注意していただきたいと述べました。

また口頭説明のなかで、商品は価格をもったからと言っても、そのことによってすぐに別の商品との無条件の交換可能性を持つわけではない。マルクスは商品が価格をもつことを「理論的準備段階」という言い方もしているが、無条件の交換可能性を持つためには、いったんその特殊な使用価値の姿を脱ぎ捨てて貨幣・金に置き換わらなければならない。一般的等価物に置き換わってはじめて何とでも交換可能なものになる。と触れた点について、価格をもったからと言って商品は無条件の交換可能性を持ったわけではなく、貨幣になってはじめてそうなるというのは“当たり前”のことではないか、という質問が出されました。
チューターは、貨幣・金が何とでも交換可能だということは“当たり前”のように見えるが、それが商品の交換によって社会生活を全面的に成立させる必然性(価値)と結びついているということ。またそれは無差別な人間労働の対象化と見なされるがゆえにそうしたものであること。あるいは商品交換の一部分(媒介部分)としてもつ役割としてそうしたものになっているということは、なかなか目には見えないのではないか、と述べました。

さらに「マルクスは貨幣経済ではなくて、むしろ直接に物と物とが交換されるような体制のことを考えていたのではないか」という質問が出されました。
チューターは、その昔、バーター貿易といったものが社会主義の一つの目安だなどとされていた時代もあった。しかしマルクスが物々交換のようなものを目指していたなどと言えないことは、第2章で直接的生産物交換について、それは商品交換の未発展なものとされていることからも明らかだろう。社会主義というのは、物と物とが“貨幣抜き”に交換されるというようなことではない。それは、“労働(社会的労働)”が意識的な活動として現れ──つまり、どのような使用価値をどれだけ作るために、総労働時間をどのようにそれぞれに振り向けるのか、ということを人間自身が自覚的に組織するのだから──、支出労働時間が“物(の価値)”という姿をとらないということであり、だからこそ“貨幣”も必要ないということだ、と説明しました。

「4)想像的な価格形態」とはどのようなものか」の部分は、時間が無くなったためにあまり検討する時間がありませんでした。
(報告)のなかで、「商品の価値は、その生産に必要な社会的労働時間に対する“必然的な関係”を表現している」と述べてあるのは、所与の生産力のもとでは、一定の使用価値の生産のためには社会の総労働のうちの規定された幾らかが支出されなければならない、というような意味だということを補足しておきます。

 

(説明)第2節 流通手段 a 商品の変態 の1回目

第2章「交換過程」で触れられたように、商品はその使用価値の姿そのままでは価値として他の諸商品と無条件に交換されることができません。そこで第3章1節で触れられたように、商品は自らを商品一般と貨幣商品とに二重化することで、自らの価値(社会的必要労働時間)を価格(金量)として相対的にではあれ一律的に表示しあいます。言うまでもなく、それは社会生活を成立させるために、私的に生産された商品が全面的に交換されねばならないという必然性から来ています。では貨幣を媒介にした商品交換の内容はどのようなものであり、そこで貨幣はどのような役割を果たしているのでしょうか。これが第3章「貨幣または商品流通」の検討課題です。(※マルクス自身の言葉によるこの章の位置づけは、付録のとおりです。)
第2節は「a 商品の変態」、「b 貨幣の流通」、「c 鋳貨 価値章標」の3つの節にに分かれていますが、いずれも現代的な意義を持つ重要な部分です。いずれも、読むのには難しいところはあまりないと思われます。

(1)「まさに見るべきもの」とは何か
──商品の「変態(形態変換)」と貨幣の役割

第2節の冒頭でマルクスはこう述べています。
・「すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態<貨幣の生成……レポータ>をつくりだす。」(全集版、P138)
ここで言われている矛盾した諸関係というのは、商品は一方では、「使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならない」(同、P115)が、他方では「自分を価値として実現しうる前に、自分を使用価値として実証しなければならない」(同)という矛盾でした。商品はこの矛盾をなくしてしまうことはできませんが、自らを“価格”として表示することによって、譲渡によって使用価値として実現される前に、相互に価値として表現しあい、関係しあうことを可能にしたのです。
矛盾の一般論については、「読む会」では触れないことにします。

つづいてこう述べられます。
・「交換過程が諸商品を、それらが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移すかぎりでは、この過程は社会的物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わるのである。ひとたび、使用価値として役立つ場所に達すれば、商品は、商品交換の部面から消費の部面に落ちる。ここでわれわれが関心をもつのは、前のほうの部面だけである。そこでわれわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。」
前半は問題ないでしょう。後半で問題なのは、なぜ素材としての使用価値の面を無視して「形態の面」だけを問題としなければならないのか、ということと思われます。社会的な物質代謝が行なわれるということは、すなわち分業が行われるということでもあります。しかしここで問題とすべきなのはその特殊な在り方、すなわち社会的分業なり社会的物質代謝なりが、人間自身の統御によるのではなくて、その生産物である商品の価値関係にもとづいて行なわれる場合の、その独特な方式が問題であるからです。

a項目のなかで一番重要なのは、その次のパラグラフと思われます。
・「この形態転換の理解がまったく不十分なのは、<彼らにとって……レポータ>価値概念そのものが明らかになっていないことを別にすれば、ある一つの商品の形態変換は、つねに二つの商品の、普通の商品と貨幣商品との交換によって行われるという事情のせいである。商品と金との交換というこの素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになる。金はただの商品としては貨幣ではないということ、そして、他の諸商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態<すなわち価値姿態……レポータ>としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすことになるのである。」(全集版、P138)
ここで「まさに見るべきもの」と言われているのは、商品の“価値としての”「形態変換」ということです。ここで言われているとおり、私たちの目の前でも行われているように、商品の交換は直接に行われるのではなくて、貨幣を媒介にして行われます。そこで交換は商品と金(貨幣)という二つの商品の間の出来事のように見えてしまいます。しかしながら、商品交換における金(貨幣)というのはただの商品としての役割で出てくるのではありません。それはある商品がもっていた“価格”、すなわちその商品があらかじめ持っていた価値性格とその大きさ──このことの理解が肝要です──を実現する役割をもつものとして出てきているだけなのです。
言いかえれば、ここでの商品と金との交換は、商品どうしの交換ではありません。この交換は、ある商品のもっている特定の現物形態からその無差別な価値の形態への、“価値”としての「形態変換」にすぎないのです。
しかも、商品と金(貨幣)との交換といっても、それは商品の金への変換(すなわち売りW─G)と、金の商品への変換(すなわち買いG─W)の二つに区別されます。それらは別々に独立した過程なのではなくて、基本的には、ある商品が金への変換を経て別の商品に変換するという、社会的物質代謝の過程(W─G─W’)のなかの、対立した二つの部分にすぎないのです。
このことを「見落とす」と、商品が貨幣に置き換わるという前半部分(売りW─G)すらも「貨幣で買う」ことのように見えてしまいます。そうではなくて、GはWの商品自身のもっている価値の姿なのであり、売りW─Gというのは、ある商品が観念的には“価格”としてすでに存在していた自分自身の価値の姿に、現実に転化する(別の商品に再度置き換わるために)ということにすぎないのです。売りW─Gも、買いG─Wも、商品W自身の形態転換にほかならないのです。

 

「読む会」だより9月用への付録

『経済学批判』 第2章「貨幣または単純流通」、第2節「流通手段」よりの引用(岩波文庫版)

・「商品が価格付与の過程において流通できる形態をえ、金が貨幣の性格をえたのちは、流通が、商品の交換過程の内包していた矛盾を表示し、同時にまたそれを解決するであろう。商品の実際の交換、いいかえれば社会的な素材転換は、つぎのような形態転換、つまり使用価値および交換価値としての商品の二重の性格がみずからを展開するが、しかも商品そのものの形態転換が同時に貨幣の一定の諸形態に結晶するような形態転換という形でおこなわれる。この形態転換をのべることが流通をのべることになる。@
すでにみたように、商品が発展した交換価値にほかならないのは、諸商品の世界ならびにそれとともに事実上発達した分業が前提される場合だけであるが、同様に、流通は、全面的な交換行為とその更新のたえまない流れとを前提するものである。第二の前提は、商品が価格のきめられた商品として交換過程にはいりこむということ、または、交換過程の内部ではたがいに二重の実在として、現実には使用価値として、観念のうえでは──価格では──交換価値として現われるということである。
ロンドンのもっとも繁華な街には商店が軒をならべて立ち、その飾り窓のなかには、インドのショール、アメリカのピストル、中国の磁器、パリのコルセット、ロシアの毛皮製品、および熱帯地方の香料など、世界中のあらゆる富が、みる目も美しくかがやいている、しかし現世を享楽するためのこれらすべての品物は、そのひたいに運命的な白い紙片をはりつけられていて、そこにはアラビア数字が、ポンド、シリング、ペンスという略号とともに書き込まれている。これこそ流通に現われる商品の姿である。」
(岩波文庫版、P107)

2017年9月10日

「読む会だより」8月用

「読む会」だより(17年8月用) 文責IZ

(前回の報告)
7月の「読む会」では、(前回の報告)の部分についてはとくに質問や意見は出ませんでした。

「(1)価格は観念的なものだから実在的ではない、と言われているのではない」の部分では、「説明では科学的な唯物論と書いてあるが、マルクス自身は弁証法的唯物論と言っているのではないか」という質問がありました。チューターは“弁証法的”というとその言葉の意味から説明しなければならないので、ここでは“科学的な”というように書いている。“弁証法的”というのは、説明の中で触れているように、世界を静止した個々無関係でバラバラなものとして捉えるのではなくて、相互に関係し運動する全体として捉えるというような意味だと答えました。
なお、説明でも触れたつもりですが、「観念(思惟)」と「物質(外界)」とを対比させることには意味がありますが、それにつられて「観念的」と「実在的」とを対比させるのはよくないと思われます。観念であっても、外界を正しく反映している限りでは「実在的」なものと言うべきだからです。
マルクスは以前紹介したように、「頭のなかに思考された全体として現れる全体は、思考する頭の産物である。そしてこの頭は自分だけにできる仕方で世界をわがものにするが、その仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的・精神的に<革命的に……レポータ>わがものにする仕方とは違う一つの方法である。……」(『経済学批判・序説』、岩波文庫、P314)と言っています。思考の外部にある、相互に関係し運動する全体が客観的真実であるとすれば、それを一挙にすべて把握することは不可能というしかありません。(芸術などでは真実を部分的一面的に把握することはできるとしても。)そして真実の全体的な把握は頭(観念)にしかできないことなのですから、科学的な認識は客観的な事柄を諸要因に分解・固定することから始め、さらにそれらを関連づけ再構成していくことでなし遂げるほかにないと思われます。

「(2)商品の価値は、その商品と金との観念的等置で表現しうる。これが価値の外的尺度としての“価格”であり、価格が観念的なものであるということの意味である」の部分では、「よその国に行っても、値段は違うにせよ、物に価格がついているのが不思議に思えた」という意見が出されました。

「価値は社会的なものだ」と言われますが(たとえば、「それらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値──商品価値なのである」……第1節)、その第一の理由は、私的生産物の交換によって全面的な社会的生活を成立させるためには、使用価値(自然属性)の相異なる生産物が等置される必要があるからであり、そしてその等置の割合を規制するのは必要労働時間でしかありえないからです。だからこそ、「鉄やリンネルや小麦などの価値は、目には見えないとはいえ、これらの物そのもののうちに存在する」と言われるのです。言いかえれば、諸使用価値の“観念的な”等置と、価値としての存在は、商品生産社会では不可避な“社会的必然”なのです。
しかしながら、私的生産物が価値としての性格(質)を持つだけでは、全面的な交換が成り立つことができません。それができるためには、諸生産物の間での交換の量的な比率が明らかでなければならず、そのために一つの共通な商品(貨幣・金)の大きさとして表現されることが必要です。つまりそれらの生産物が、すべて共通な“価格”を持つ物、つまり一定量の金と交換可能な物として現れることによってはじめて、すべての生産物が相互に交換可能な「商品」として現われることができるのです。貨幣・金が諸商品の価値の尺度、基準となるのは、その使用価値としての自然属性からではなくて、「人間労働<すなわち価値……レポータ>の社会的化身として」、すなわちその社会的属性からであるということが貨幣の理解にとって重要に思われます。

(説明) 3章1節、貨幣の価値尺度としての機能の6回目

3)商品の「価格」が、「観念的な」ものであるとはどういうことか

(3)なぜに「観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている」のか

前回の「たより」では(3)として「価格とは、商品が、貨幣・金を媒介にして他のすべての商品と、同等なものとして関係していることの表示である」という項目を立てていましたが、(2)で実際上説明しているので、(3)の項目は変更させてもらいます。

第3章「貨幣または商品流通」第1節の終わりを、マルクスはこう締めくくっています。
・「価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。他方、金は、ただそれがすでに交換過程で貨幣商品としてかけまわっているからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。」(全集版、P137)

貨幣と違って、諸商品は直接には直接的な交換可能性を持ってはいません。だからこそ、諸商品は“価格”すなわち一定量の金として自分を表現することによって、その交換可能性を表現できるだけです。
しかしながら、すでに触れていますように、私的生産物の交換によって社会的生活を全面的に成立させるためには、それらが全面的に交換される必要が“社会的必然性”として生じます。だから、「諸使用価値の“観念的な”等置と、価値としての存在は、商品生産社会では不可避な“社会的必然”なのです」(「前回の報告」部分)。言い換えれば、商品が「価格」をもつということは、商品が「価値」であるということの結果であり、私的生産物が他の私的生産物と全面的に交換されねばならないという、この社会の必然から生まれているのです。
“価格”は、直接には一定量の貨幣との「観念的な」交換可能性です。しかしながらそれは、直接的な交換可能性を持たない諸商品が、別の商品に置き換わるためには、一時的に何とでも交換可能な貨幣の姿をとらねばならないという、商品交換の一部分(準備段階)をなしているだけなのです。だからこそ「観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている」のであり、“価格”をもったからといっても、商品はいったん貨幣の姿に取り替えられなければならないという必然性から逃れることはできないのです。
マルクスは引用のすぐ前の部分で次のように述べています。
・「相対的価値形態一般がそうであるように、価格は、ある商品たとえば1トンの鉄の価値を、一定量の等価物たとえば1オンスの金が鉄と直接に交換されうるということによって表現するのであるが、けっして、逆に鉄のほうが金と直接に交換されうるということによって表現するのではない。だから、実際に交換価値の働きをするためには、商品はその自然の肉体を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。……商品に価格を与えるためには、想像された金を商品に等置すればよい。商品がその所持者のために一般的等価物の役を果たそうとするならば、それは金と取り替えられなければならない。」(同、P136)

4)「想像的な価格形態」とはどのようなものか

貨幣のもつ、「価値尺度としての機能と価格の度量標準としての機能」の違いについては、言葉は難しそうですが内容は読めば分かると思われますので、ここでは省略します。

ここではより現代的な意義を持つ、「価格形態の矛盾」あるいは「想像的な価格形態」についての所説について触れておきましょう。
・「しかし、価格形態は、価値量と価格との、すなわち価値量とそれ自身の貨幣表現との、量的な不一致の可能性を許すだけではなく、一つの質的な矛盾、すなわち、貨幣はただ商品の価値形態でしかないにもかかわらず、価格がおよそ価値表現ではなくなるという矛盾を宿すことができる。それ自体としては商品ではないもの、たとえば良心や名誉などは、その所持者が貨幣とひきかえに売ることができるものであり、こうしてその価格を通じて商品形態を受け取ることができる。それゆえ、ある物は、価値を持つことなしに、形式的に価格をもつことができるのである。ここでは価格表現は、数学上のある種の量のように、想像的なものになる。他方、想像的な価格形態、たとえば、そこには人間労働が対象化されていないので少しも価値のない未開墾地の価格のようなものも、ある現実の価値関係、またはこれから派生した関係をひそませていることがありうるのである。」(全集版、P136)

私的生産物の交換によって社会生活を成立させる商品生産社会においては、個々に支出された労働時間は把握できるとしても、商品が生産されるのに必要な総労働時間(原材料や機械等々を含めた)や、その商品に含まれる社会的必要労働時間(同一種類の商品の全体との比率)を把握することはできません──生産が社会的に組織されていないのですから。言いかえれば、商品の価値すなわちその生産に必要な社会的必要労働時間は、商品生産社会では不明なのです(それはたしかに存在するのですが)。
だからこそ、ここでは一般的等価物として他の商品と全面的に交換される一商品を、貨幣であると、すなわち「<あらゆる>人間労働の社会的化身」であるとみなし、その自然的大きさを標準(尺度)として、それと交換される商品の価値の大きさを相対的に表現するほかありません。言いかえれば、商品の価値は、「その生産に必要な社会的労働時間に対する必然的な関係」(全集版、P135)を表現しているのに対して、“価格”は「その外部にある貨幣商品との交換比率として現われる」(同)価値の相対的な表現方法なのです。
こうして「人間労働の社会的化身」としての貨幣がもつ価値尺度(および価格の度量標準)の機能によって、商品の価値は“価格”の形態に転化され、私たちの目の前に現われているのです。他方、このために諸使用価値に配分される必要労働時間は“物”として現われる(つまり労働が価値の形態をとる)し、またその配分も人間の意識的制御からは無縁のものとして現われるのです。
ところで、このような貨幣商品との交換比率による商品の価値の大きさの相対的な表示は、当然に量的不一致の可能性をもちます。というのは、商品の価値の大きさ(社会的必要労働時間)は、生産力の変動によって変動するし、またその大きさの尺度となる貨幣商品もまたそうだからです。しかしながら、このような「偏差」が生じるということは、価値がどのようにして価格の姿をとるかということや、貨幣がどのようにして商品交換を媒介するかということにとっては本質的な問題ではありません。このためにこれらの事態を純粋に考察する場合においては、価値と価格のあいだに「偏差」があることを捨象することが、科学的な手続きとして必要となります。

最後に重要なのは、ここで触れられているように、価格形態は価値がなくても可能だということ、つまり価値の価格表現が、一つの「質的矛盾」を宿すという点でしょう。商品生産の発展とともに、その生産のために労働が支出されておらず、なんら価値を持たないものであっても、貨幣にたいして売られるものは商品と見なされるという事態も発展します。すなわち価格は、ここでは価値すなわちその生産に必要な社会的労働時間に対する必然的な関係とはまったく無縁なものに転化するのです。こうした形式的な価格形態については、当面の考慮外におくということになります。

<次回から第3章第2節「流通手段」に入ります。>

2017年8月23日