「読む会」だより1月用

「読む会」だより(19年1月用) 文責IZ

(前回の報告)
12月の「読む会」は16日に開催されました。(なお1月以降しばらくの間、「読む会」は第2日曜日の午後1時半からとさせていただきます。)

ここしばらく問題となっている抽象的人間労働にたいする見田の見解については、商品についてのいわばまとめが述べてある第4節のうち、次の部分をもう一度参照していただければと思います。
・「だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てはこないのである。それはまた価値規定の内容からも出てこない。なぜならば、第一に、いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量についていえば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった。といっても、発展段階の相異によって一様ではないが。最後に、人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになるのである。
それでは、労働生産物が商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生ずるのか? 明らかにこの形態そのものからである。いろいろな人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量という形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働の前述の社会的規定がそのなかで実証されるところの彼らの諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。」(全集版、P96)

無論ここではロビンソンのような孤立した架空の人間ではなくて、発展した分業の中にある現実的な近代的な人間が問題です。そこでは実際に相異なる諸労働の生産物が交換され、一定の比率で価値としては同等なものとされるのですから、それまでに述べられてきたように、価値の内容は労働の具体的有用的形態とは区別される抽象的人間労働としての同等性ということになるほかありません。そして、このことは労働がどれをとっても人間有機体の諸機能であるという「生理学上の真理」からも明らかだろうと、ここではその“根拠が”(“理由”ではなくて)述べられているにすぎないのです。

「読む会」の中でも価値とは何か、抽象的労働とはどのようなものかが分かりにくいという意見が何度も出されています。
商品の価値(交換価値)とその「実体」である抽象的人間労働との区別──つまり現象形態とその本来の内容との違い──を別にすれば、ここで「労働の量は感覚的にも労働の質とは区別されうる」と述べられているところは、商品の価値やその価値実体である抽象的人間労働(価値形成労働とも呼ばれます)の理解に役立つのではないかと思われます。
もちろんある商品の生産のために支出された社会的に必要な労働の大きさは、個人的な労働の場合と違ってその大きさが直接に測られるわけではありません。しかしながらロビンソンの場合と同じように、ある社会的な使用価値の一定量を生みだすためには、社会の総労働のうちからいくらかの大きさの労働が、つまり総支出労働時間のうちから一定の労働時間が支出されるということは明らかです。この場合の商品は、ある有用な物としてではなくて、社会が支出した“労働時間の塊”として評価されているのであり、それが商品の価値なのです。そして重要なことは、こうした“労働時間の塊”としての商品の価値は、架空のものではなくて[、発展した商品生産社会である資本主義社会においては商品のもつ社会的な属性として]実際に存在しているということです。だからこそ商品は千差万別の使用価値をもつにもかかわらず、すべて「価格」をもつことで自らの価値存在を表現しているのですし、すべての商品が社会的労働時間の塊としては、すなわち抽象的な無差別な労働の結晶としては、同質であり量だけ違うのだと語っているのです。(商品の価格は、価値の表現としては、けっして生産者が勝手につけることの出来るようなものではありません。)
言うまでもなく、商品であろうとなんであろうと“物”が、その自然属性が、その生産のために人間が支出した労働時間そのものを表現することなどありえません。しかしながら、商品は一般的等価物を生みだし、この一般的等価物(貨幣)のもつ一般的交換可能性を媒介にして、“物”の姿をもって相対的に支出労働時間を表現する方法を獲得するのです。そしてこの時はじめて商品は使用価値であると同時に交換価値でもあるという二重の姿を実際に獲得するのです。

またチューターが、抽象的人間労働の側面は、将来、生産物=商品の“価値”という形をとることなく、社会的労働の眼にみえる内容として発展するのではないかと述べた点にかんしては、むしろ“価値”ではなくて「分配」の問題ではないか(労働分配率が低すぎる)という意見が出されました。

(説明)の部分では、引用した『経済学批判要綱』の終わりにある「交換価値と交換価値に対応する社会の生産様式とに含まれている基本的矛盾」とは何か、という質問が出ましたが時間切れとなり、次回の宿題ということになりました。
生産物の使用価値ではなくて交換価値が問題となるためには、まず私的な生産と発展した分業社会が前提されているということが重要です。そこでは自分のための消費が問題となるのではなくて他人のための使用価値が、したがって交換価値が問題になります。この場合の交換価値は、今回も触れたように、商品のもつ使用価値=投下された個々の労働の「質」ではなくて、分業のもとで投下された人間労働一般の支出として同等な労働の「量」であり、“労働時間の塊”として見られた商品なのです。商品社会の富は、素材そのものがもつ使用価値ではなくて、その交換価値すなわちその生産に支出された労働量と同等なものとして存在するあらゆる商品であり、商品一般だという理解が重要に思われます。だからこそ、商品一般を代表するものとしての貨幣が、貨幣商品が生まれることになるのです。
分業に基づく社会では、私的に生産された生産物に含まれる相異なる有用的な労働が、同時にそれとはまったく矛盾する社会的に同等な抽象的な労働でもなければなりません、これが基本的な矛盾です。それは、商品が自らを使用価値であるとともに価値でもあるものとして表現するために、自らを商品と貨幣商品とに分裂させるということでもあります。

また、その前に「たより」の(説明)の部分の最後は飛躍しているのではないかという意見が出され、チューターもよくなかったと反省して、元の文章を以下のように訂正することになりました。
「抽象的人間労働としての諸労働の同等性が、商品生産の基礎のもとでは、対象化された商品の価値として、さらには金銀という物として現われます。その結果は、[人間の外部に存在する自立的な“物”としての金銀が、人間の社会的な労働を支配するということでしょう。]」
☆訂正前の原文は、[社会的労働が人間によって制御されるのではなくて、逆に人間の外部に存在する物が、貨幣としての金銀が、自立的な運動を開始する(資本の形成に向けて)ということでしょう。]でした。

今回の(説明)は、前回の3節の冒頭部分が『経済学批判』ではどのように述べられているかの紹介だけになります。申しわけありません。

(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」の1回目 のつづき

1)「貨幣としての貨幣」を理解することの困難について のつづき

第3節の冒頭部分は、『経済学批判』では次のようになっています。
・「……こうして、商品が、その価格でもって、一般的等価物ないし抽象的富である金を代表しているとすれば、金は、その使用価値でもって、あらゆる商品の使用価値を代表しているのである。したがって金は、素材的な富の物質的代表物なのである。それは《すべてのものの要約》(ボアギュベール)であり、社会的富の総括である。同時にまたそれは、形態からいえば一般的労働の直接の化身であり、内容からいえばすべての現実的労働の精髄である。それは個体としての一般的富である。流通の媒介者としての姿では、金は、ありとあらゆる侮辱をこうむり、けずりとられ、そしてただの象徴的な紙きれになるまでうすくされさえした。だが貨幣としては、これにその金色(こんじき)の栄光がかえしあたえられる。それは奴僕から主人になる。それはただの下働きから諸商品の神となるのである。」(全集版、P169)

要するに、貨幣の第一の機能である価値尺度の機能においては、貨幣は観念として計算貨幣として存在すればいい。また第二の機能である流通手段の機能においては代理によてその機能を果たすことができる。しかし続いて述べられるような蓄蔵貨幣、支払い手段、世界貨幣といった機能においてはそうはいかず、現実的な「肉体をもった」金(上記の言葉では「個体としての一般的富」)としての貨幣でなくては果たせないものである。それが貨幣の第三の機能である「貨幣としての貨幣」なのだと、第3節の冒頭部分では言われているのです。

2019年1月13日

「読む会」だより12月用

「読む会」だより(18年12月用) 文責IZ

(前回の報告)
11月の「読む会」は都合により第2日曜日の11日に変更となり、ご迷惑をおかけしました。
前回は冒頭、「しばらく話題になっている宇野弘藏のことを、佐藤優(元外交官)なども高く評価しているようですね」という参加者からの発言がありました。
価値とは何かが把握できて、はじめて労働力の価値とはどのようなものかが分かるのは至極当たり前のことであって、労働力の価値によってはじめて価値が規定されるといった宇野学派の理屈は逆立ちしています。そうした理屈が持ち出されるのは、むしろ政治的な動機によるものと言うべきでしょう。というのも、労働力の価値の規定よりも価値の規定のほうが根底だと言うならば、ここからは労働が価値という物の姿をとることを止めさせよ!という社会主義的・革命的な要求が出てきます。しかし逆に、価値の規定よりも労働力の規定のほうが根底だというならば、そこからは労働力の価値を価値どおりに支払えという無力な半ブルジョア的な要求しか出てこないからです。チューターにはそうとしか思えません。

次に、10月に紹介した見田の見解について、チューターから以下のように評価を変えたいという報告がありました。
「商品生産社会にあっては、個々人の労働が社会性をもつのは、商品の価値として対象化されて一定の割合でたがいに等置され、交換しうるものであるかぎりであり、つまりそれらの抽象的労働としての同等性においてである」という見解はまったくその通りと思われます。しかし「有用的諸労働がいかに異なっていようとも、それらは人間的有機体の諸機能であるということ、およびかかる機能はいずれも、……本質的には人間の脳髄・神経・筋肉・感官などの支出であるということは、一つの生理学的真理である」というマルクスの文章を引いて、「価値の概念に到達するためには、その自然的な実体たる抽象的人間労働を自然的実体としてとらえることがその第一の条件であって、これを社会的、歴史的なものだとすれば価値なるものは得体の知れぬものとなる」と述べることは、労働のもつ抽象的人間労働という社会的な(したがってまた歴史的な)性質を、労働のもつ自然的な性質に(したがってまた有用的労働へと)還元することであり、正しくないと思われる。労働のもつ抽象的人間労働としての同質な側面は、1章3節でマルクスがアリストテレスの例で語っているように商品生産の発達とともに認識され得たものであり、それは人間労働力の発展とともに社会的労働の内容として発展すると考えるべきと思われます。

この報告に対しては、「例えばロビンソンの例をとっても、彼の労働は社会的なものではないとはいえ、彼のさまざまな有用的労働が、彼のもつ同じ労働力の支出の一部分でもあるという抽象的人間労働の側面をもっていることは永遠に変わることのない事実であろう。しかしそうではあってもそういうことを彼自身が認識して行なっているかどうかで違いがあるのではないか」という意見がまず出されました。
チューターは、とても参考になる意見でありがたい。ロビンソンの例をとっても、彼の生産的活動=労働は、その目的や対象となる自然物が異なるのに応じて有用的労働としては質的差異をもち、それぞれに姿かたちは変わらざるを得ない。しかしそれらの労働は、いずれも彼の労働力の総支出のうちの一部分としては量的差異しかもたないという抽象的人間労働の側面を同時にもっているだろう。この同じロビンソンの労働力の支出としての同質性は、社会的な労働とは違って個人的な活動としての統一性に基づくのですが、にもかかわらず、それは種々の労働の有用性とは異なるロビンソンの労働力の支出の一部分としての同質性を持ち、だから時間で計りうることになります。
このように労働のもつ有用的側面・性質と抽象的側面・性質とは「労働の二面性」として同じではありえないのですから、見田のように「生理学的真理」から直接に「抽象的人間労働そのものの自然的性質」といったものを引き出すことは、抽象的人間労働を自然的性質へ、結局は有用的労働に還元することになってしまいます。
抽象的人間労働が「生理学的真理」であるかどうかが問題なのではなくて、見田自身が語っているように、商品生産のなかでは労働の無差別な同質性という抽象的側面が発展し、労働の有用性ではなくてその無差別な側面こそが社会的労働の主要な形態となるということが重要に思われます。
『資本論』1章2節でわざわざ「商品に表わされる」労働の二重性と言われているように、価値が抽象的人間労働としての同等性であると人々が認識できるようになったのは、商品生産のつまり資本主義の発展の成果です。そして諸個人が、各自の労働を社会の総労働の一部分として自覚的に支出する(つまり生産物=商品の“価値”という形をとることなく、直接に社会的必要生産物にたいして総労働時間の配分が行われる)というのが、社会主義の内容だろう、とチューターは述べました。
これに対して別の参加者からは、労働の抽象的人間労働としての性質は資本主義に独特ではなくて将来の社会主義にも残るということか、という質問が出されました。
チューターは、人々の生活を支える生産的労働の総体を、社会の成員全員が意識的に分配し、また平等な労働時間を支出しあいながら担うという形で、抽象的人間労働は社会的労働の眼にみえる内容として発展するのではないか(個々の生産物の生産にはそれぞれ異なった有用的労働が必要なことに変わりはないが)、だからそこでは「実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表わす」(第1章4節、全集版P106)、と指摘されているのではないかと述べました。
(説明) 第3章「貨幣または商品流通」、第3節「貨幣」の1回目

1)「貨幣としての貨幣」を理解することの困難について

第3節は次のようなパラグラフで始まります。
・「価値尺度として機能し、したがってまた自分の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品は、貨幣である。それゆえ、金(または銀)は貨幣である。@
金が貨幣として機能するのは、一方では、その金の(または銀の)肉体のままで、したがって貨幣商品として、現われなければならない場合、すなわち価値尺度のように単に観念的にでもなく流通手段の場合のように代理可能にでもなく現われなければならない場合であり、@
他方では、その機能が金自身によって行われるか代理物によって行われるかにかかわりなく、その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値としての他のすべての商品に対立させて固定する場合である。」(全集版、P169)

それがどうしたとおっしゃる方もおられるかもしれませんが、『経済学批判要綱』の中では、(1)尺度としての貨幣、(2)交換手段としての貨幣と区別して、第3節で触れられる貨幣については「貨幣としての貨幣」(『要綱』、大月版P971)と呼び、そして「貨幣をその第三規定で把握することの困難」について以下のように触れています。
・「貨幣としての完全な規定性での貨幣を把握するにさいしての特別の困難──経済学は、<使用価値と交換価値という二つの規定のうち……レポータ>その規定の一つを他の規定のためにわすれ、一方の規定がくつがえされれば他の規定に訴えるというやり方で、この困難をのがれようとつとめる──は、一つの社会関係が、すなわち個人相互間の一定の<同等な……レポータ>関係が、ここでは金属として、石として、すなわち彼らの外部にある純粋に有体な物として、つまりそのものとして自然のうちに見いだされ、また、もはやその自然的存在から区別されうる何らの形態規定もそれに残されていない物として、現われることにある。@
金および銀は、それ自体貨幣ではない。自然が貨幣を生産しないことは、為替相場や銀行業者を生産しないのと同様である。ペルーやメキシコでは、金銀が装飾品として存在し、完成した生産組織がそこに見いだされるとはいえ、金銀は貨幣としては役だっていなかった。貨幣であるということは、金銀の自然的性質ではなく、したがって物理学者、化学者等にはそういうものとしては全然知られていなかった。@
だが貨幣は、直接に金銀である。尺度としてみれば、貨幣はなお<商品の価値表現における……レポータ>形態規定が主となっているが、この貨幣が外的にもその刻印で現われている鋳貨としてみれば、いっそうそうである。だが第三規定においては、すなわち尺度であり鋳貨であるということが貨幣の<固有の……レポータ>機能として現われるにすぎない完成状態においては、あらゆる形態規定は消滅している。すなわちその金属的存在と直接に一致している。そこでは、貨幣であるという規定がたんに社会的過程の結果であるというふうには全然みえない。貨幣があるのである。このことは、貨幣の直接的使用価値<その自然的属性……レポータ>が、生きている個人にとっては少しもこれらの役割とは関係せず、また一般に純粋な交換価値の権化としての貨幣においては、交換価値とは異なる使用価値への連想は、まったく消え去っているだけに、いっそうむずかしい。だからここでは交換価値と交換価値に対応する社会の生産様式とにふくまれている基本的矛盾が、完全な純粋性においてたちあらわれる。」(同、P159)

抽象的人間労働としての諸労働の同等性が、商品生産の基礎のもとでは、対象化された商品の価値として、さらには金銀という物として現われます。その結果は、[人間の外部に存在する自立的な“物”としての金銀が、人間の社会的な労働を支配するということでしょう。]

社会的労働が人間によって制御されるのではなくて、逆に人間の外部に存在する物が、貨幣としての金銀が、自立的な運動を開始する(資本の形成に向けて)ということでしょう。

2018年12月18日

「読む会だより」11月用

「読む会」だより(18年11月用) 文責IZ

・今月はチューターの都合により、定例の第3日曜日ではなくて、第2日曜日に開催を変更させていただきました。あらかじめ予定を組んでおられる方が多く、参加者が少ないので、今回の「たより」は、前回、前々回の報告と補足だけにさせていただきます。申し訳ありません。

(前回、前々回の報告と補足)

・9月の「読む会」には、岩波新書(再版)の「マルクスの哲学」を今読んでいるという94歳のSさんが参加して下さいました。(戦前の学生時代に、隠れてマルクスの本を読んだりした貴重なお話を聞かせていただきました。)

10月の「たより」のなかで、「商品は、自らが一般的抽象的労働の対象化であるということを直接その自然の姿で表現する代わりに、一般的等価物である貨幣を価値そのものと見なし、一定量の貨幣がその商品と等価であり、交換可能だということ、つまり『価格』をもつということによって表現する」と述べた点について、Sさんから「普遍的な労働が貨幣になるということか」という質問が出ました。チューターは、普遍的なつまり抽象的な労働が貨幣になるというよりも、価値としての抽象的な労働が貨幣として表わされ、そのことによってすべての商品に含まれる相異なる労働が、抽象的労働としての(すなわち価値としての)共通な姿をもち、そのことによって使用価値であるとともに価値であるという二重な姿をもつ、ということだろうと答えました。

また、「初版・付録」からの引用に関連して、具体的労働と区別される抽象的労働というのがよく分からないという質問も出されました。チューターは、抽象的労働の理解は重要なので、次回、見田石介が『資本論の方法』で述べているところを参考として紹介してみたい。ただ、どこかで見田は「一般的なものも存在する」とか語っているが、今回「初版・付録」で引用しているところにも触れてあるように、一般的なものの存在の仕方は自然的なものの存在の仕方とは異なっているようにチューターは考えているが、と述べました。

・10月の「読む会」では、9月の話に沿って、見田石介の『資本論の方法』と関連文書のなかの2か所をとって紹介しました。
ここでは、「個人労働の社会性を“保証する”」ということは、どういうことか、という質問などが出ました。チューターは、見田以外の人が「保証する」いう言葉を使っているかどうかは知らないが、社会的な労働として“認められる”という程度の意味ではないか、と答えました。
「たより」の最後に触れましたように、直接には私的な生産を基礎にしている商品生産社会にあっては、個々人の労働が社会性をもつのは──従来の社会とは異なって──、商品の価値として対象化されて一定の割合でたがいに等置され、交換しうるものであるかぎりであり、つまりそれらの労働の抽象的労働としての同等性においてである、という見田の指摘はその通りと思います。

しかし、紹介した見田の文章は、読み返してみますとやはりいろいろ大きな問題があります。とりわけ問題となっている抽象的労働の理解には、むしろ誤解を与えたのではないかと反省しています。幾つか思い当るところを指摘しておきます。
はじめの「論理歴史説」の批判の部分に、まず決定的な問題が出てきます。
見田は引用の2番目のパラグラフ中ほどで、「しかもこの労働の二面性は、たんに客観的にそうであったばかりでなく、過去においては主観的にも人間に意識され、強い関心をもたれ、それに従って人間社会の総労働が各生産分野に配分されてきた。……だが、私的生産という条件のもとでは、したがって人間がもはや社会的総労働を意識的に配分できなくなった条件のもとでは、この自然的な抽象的労働の対象化は、……社会的実体──価値に転化する」と述べています。
しかし商品生産が発展する以前の時代に、「社会的総労働が意識的に配分されてきた」とはいっても、それは具体的労働そのもの(年貢米をつくる農業労働といった)が社会的労働の姿をとっているからこそ、具体的労働の姿そのもので行なわれたのであって、決してそれは抽象的人間労働の姿として、すなわち労働時間一般として行なわれたのではありません。第1章第4節でのマルクスの指摘を、見田は何か読み間違いをしているとしか思えません。

さらに見田は、「第一に、有用的諸労働または生産的諸活動がいかに相異なっていようとも、それらは人間的有機体の諸機能であるということ、および、かかる機能はいずれも、この内容や形式がどうであろうとも、本質的には人間の脳髄・神経・筋肉・感官などの支出であるということは、一つの生理学的真理である。」というマルクスの指摘をとってきて、それを「抽象的人間労働そのものの自然的性質」であると言います。
しかし、見田はマルクスが以下のように語っていることを忘れています。
・「ところが教授大先生にあっては、人間の自然にたいする関係は、はじめから実践的な関係ではなく、つまり行為によって基礎づけられた関係ではなくて理論的関係であ<る>」(「ワーグナー評注」全集版、P362)
・「しかし、商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読み取ることができなかったのであって、それは、ギリシャの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働の不等性を自然的基礎としていたからである。……しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。」(第1章、第3節、全集版P81)
マルクスが「生理学的真理」と述べているのは、人間労働力“一般”の支出というのがたんなる観念ではなくて、現実的・自然的基礎をもっているということにすぎないとチューターは考えます。労働の抽象的労働としての側面は、人間労働力の発展とともに社会的労働の内容として発展すると捉えるべきであって、それを「抽象的人間労働そのものの自然的性質」としてしまうのは非実践的な(あるいは非社会的な)、理論的な関係に抽象的労働を貶めることではないのでしょうか。

・今回は説明部分はありません。次回の説明は、第3章、第3節「貨幣」からの予定です。

2018年11月15日

「読む会」だより10月用

「読む会」だより(18年10月用) 文責IZ

今回は、地域のお祭りと重なったために出席できないという連絡を受けました。
そこで、今回は、前回議論になった「抽象的な労働」についての見田石介(前回は、旧姓の甘粕しか思い出せませんでしたが)の所説を2、3紹介することで、理解を深めたいと思います。労働の二面性とりわけその抽象的労働としての側面は、価値の理解、したがってまた貨幣や資本の理解にとって極めて重要な事柄ですので。(なお、前回チューターは見田の見解についての疑問を述べましたが、うろ覚えだったためかどうか、少なくとも今回あげている部分は的確な指摘であるように思います。 なお、@と改行後のブランク、<>内の補足はレポータのもの、傍点は“”に置き替えています。)

(1、『論理=歴史説とマルクスの方法』(大月、著作集3巻)、第4節「論理=歴史説による分析の否定 1」より)

「こうした誤った自然的なものへの嫌悪は、抽象的労働の場合にも同じように現われる。すなわち価値を、その内容、その実体をなす抽象的労働から理解すること、つまり抽象的労働から価値への移行は、この立場では発展でなければならぬから、抽象的労働は価値という社会的、歴史的なものに発展しうるようなやはり社会的なもの、ブルジョア的なものでなければならない、と言わざるをえないし、また事実そう主張される。なるほど抽象的な労働がそうしたものであれば、価値に発展することもできよう。しかしこれもいまみた使用価値の場合と同じことであって、同語反復であり、分析の拒否である。というのもそうした社会的な性質をもった抽象的労働は何であるかといえば、それはとりも直さず価値だからである。価値とはそうしたもののことである。だからそれは価値は価値になる、という無意味なことを言っているか、もしくはマルクスが価値を分析したのをもう一度表象としての価値にもどしてしまうことかである。

人間の労働が一定の使用価値をもたらす合目的的な活動としては具体的労働であり、筋肉、神経の支出としては抽象的労働であるという事実は、労働がいかなる歴史的生産様式のもとにあり、いかなる社会的形態をとろうと、永遠に変わることのない自然的な事実である。過去の社会において、あるいは将来の社会において、労働が一面において具体的労働であるにしても、他面においてこうした抽象的労働でなくなるような事態があったわけでも、あるわけでもない。そうしたものはおよそ労働とはいえないからである。しかもこの労働の二面性は、たんに客観的にそうであったばかりでなく、過去においては主観的にも人間に意識され、強い関心をもたれ、それに従って人間社会の総労働が各生産分野に配分されてきた。そうでなければ人間社会はおよそ発展しえなかったであろう。だが私的生産という条件のものでは、したがって人間がもはや社会的総労働を意識的に配分できなくなった条件のもとでは、この自然的な抽象的労働の対象化は、一見、奇妙にも、だが当然ながら、社会的実体──価値に転化する。なるほど価値は社会的なもの、しかも一定の歴史的な社会的なものである。が、その実体そのもの、その内容は、どこまでも自然的な生理学的なものである。マルクスは商品の物神性を分析しているところで、この価値の内容、実体そのものについてつぎのように言っている。

『第一に、有用的諸労働または生産的諸活動がいかに相異なっていようとも、それらは人間的有機体の諸機能であるということ、および、かかる機能はいずれも、この内容や形式がどうであろうとも、本質的には人間の脳髄・神経・筋肉・感官などの支出であるということは、一つの生理学的真理である。第二に、価値の大いさの規定の基礎をなすもの、すなわち右の支出の時間的継続、または労働の量についていえば、この量は、感覚的にも労働の質から区別されうるものである。どんな状態のもとでも人間は、発展諸段階の相異するにつれて同じ度合いにではなかったが、──生活手段の生産に要費する労働時間に関心をもたねばならなかった。最後に、人々が何らかの様式で相互のために労働しあうや否や、彼らの労働もまた、一つの社会的形態を受け取るのである。』(『資本論』……)

この抽象的労働そのものの自然的性質をどうして否定しえようか。価値なるものをたんに社会的形態としてとらえるだけではまだ不十分であって、自然的、永遠的な抽象的労働の対象化が社会的形態をとったものとして、その実体の側面とその社会的形態の側面の二つをとらえてはじめてそれは完全に規定される。この自然的な抽象的労働の側面を否定してしまっては、価値の実質も、その大きさを規定するものもわからず、物神性もわからず、その歴史性もわからないのは、商品における使用価値の分析の場合と同じことである。

多くの人々は抽象的労働そのものの社会性と歴史性とを証明しようとして、マルクスが『序説』においてこれを近代的なカテゴリーだとしたことを理由としてもち出しているが、マルクスがそれを近代的といったのはたんにブルジョア社会において労働が単純化し普遍化し、かつ労働の自由な移動によって、抽象的一般的労働が眼にみえるものとなり、経済学者によって労働一般がカテゴリーとして固定されるにいたった事実を言っているだけで、抽象的労働そのものがブルジョア的な社会的カテゴリーであると言ったのではない。それはちょうど酸素や炭素が近代社会においてはじめて分離され、直接に認識しうるものになったとしても、酸素や炭素そのものが社会的、近代的なカテゴリーとならないのと同じことである。抽象的労働は近代社会においてすでに眼にみえるものになったとすれば、将来の社会においては、人間の能力も職業もいよいよ固定化されなくなり、それ<抽象的労働>がいよいよ感覚されうるものとなることは明らかであるが、その場合、われわれは抽象的労働そのものを社会主義的なものと言わないだろう<それは総労働の社会的配分とは別のことだから……レポータ>。それと同じことである。@
価値の概念に到達するためには、その自然的な実体たる抽象的人間労働を自然的実体としてとらえることがその第一の条件であって、これを社会的、歴史的なものだとすれば、価値なるものは得体の知れぬものとなる。マルクスが商品の分析を自然的な労働の二重性にまでさかのぼってやったこともまるで無意味になるのである。」(著作集3巻、P93~)

(2、『資本論の方法』(大月、著作集4巻)、2章2節第1項「抽象的労働と社会的労働」より)

わたしはマルクスの商品の分析をみて、それがまず使用価値と価値とを純粋に分離するものであり、この場合の使用価値は、一分子の社会的なものをも含まない、したがって歴史的に規定されるものでもない、ただの使用価値であることをみたが、ここでは価値そのものの分析をすこし立ち入って考察してみよう。
マルクスは商品を使用価値と価値とに分析したというのは、つまり価値そのものをも分析したことであるが、ここでも大切なことは、抽象的労働そのものは労働の永遠の側面であって、それにとっては価値という形態をとることはどうでもよいものであり、それはすこしも価値を含蓄しないし、価値に移行する必然性をもつものでない、ということである。
抽象的労働から価値への上昇が単純な総合過程であるのは、ちょうど使用価値から商品への上昇がそうであるのと同じであること、このことをはっきりとみることである。
マルクスは「労働の二重性」において、紡ぐことと織ることとが、同一人の仕事であったような過去の社会においても、またそれが個人の固定的な職業となったブルジョア社会においても、労働はどんな場合でも、一面ではその形態にかかわりのない神経、脳、手足、感官の支出としての抽象的一般的労働であり、他の一面では紡ぎや機織りとしての具体的有用労働であることを明らかにして、この二つの労働について、次のように総括している。
『すべての労働は、一面では、生理学的な意味での人間的労働力の支出であって、この同等な人間的労働または抽象的人間的労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間的労働力の支出であって、この具体的有用的労働という属性において、それは使用価値を生産する。』(『資本論』……)
このように、労働一般は、抽象的労働と具体的労働との二面をもっているが、私的生産という条件のもとでは、この抽象的労働が対象化し物化して価値となる。価値とはそうしたものだ、というのがマルクスの明らかにしていることである。
このことは、マルクスが「商品の物神性」で商品の物神性が価値規定の“内容”からくるものでないことを明らかにしている個所をみると、いっそうはっきりとわかる。マルクスはそこで価値の諸規定の内容についてつぎのように言っている。
『種々の有用的労働または生産的労働がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能であるということ、そしてこのような機能は、その内容と形態がどうであろうと、すべて本質的には人間の脳、神経、筋肉、感官などの支出であるということは、一つの生理学的真理である。第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわちそれらの支出の継続時間、また労働の量についていえば、労働の量は感覚的にも労働の質から区別されうるものである。どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった。と言っても発展段階の相異によって一様ではないが。最後に、人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになるのである。』(『資本論』、……)
すなわちマルクスは価値を分析して、その実体、内容を明らかにしているが、この実体、内容、はまずすこしも歴史的なものでなく、労働そのものの永遠の属性、その抽象的人間的労働としての一側面であり、またその価値の量を規定するものも、やはりどんな社会においても、人間の関心事であったところのその労働の分量、すなわち生産力のそれぞれの発展水準のちがいによってちがいがあるにしても、穀物や糸や布やをつくるのに社会的に平均的に必要とされる労働の継続時間にほかならぬことを示しているのである。これもやはりすこしも商品社会に特有のものではない。
ところが、こうした労働の抽象的労働としての側面が同質、同等なものであり、したがって個々人の労働がこの側面から見れば互いに取り替えうるものであるということは、これまでの社会ではすこしもその個々人の労働の社会性──一方が他方のために他方が一方のために労働しているという──をなすものではなかった。
無意識的、習慣的にしろ、個々人の労働がはじめから社会的分業の必然的な一環として規定されていた社会では、個々人の労働の具体性がすでにその社会性を表わし、それを保証するものであった。
だが直接には私的で、したがって無政府的な商品生産社会では、個々人は何らかの使用価値をつくっているというだけでは、その労働の社会性をすこしも保証するものでない。
ここでは同時に、個々人の労働は抽象的労働として他の個人の労働と同質、同等のものであり、一定の割合ではたがいに等置され、交換しうるものだ、という点ではじめて、その個人労働の社会性が保証される。したがって抽象的労働というそれ自身としては生理学的な事実、たんなる自然的事実が、ここでは一つの社会関係をあらわすもの、一つの社会的実体となる。
したがって、価値は永遠の抽象的労働がとる一つの歴史的な形態であるが、また、やはり永遠の社会的労働の一つの歴史的形態でもある。これがマルクスが、価値規定の内容として、『最後に、人間が何らかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働も社会的な形態をもつことになる』とのべていることの理由である。
マルクスが、このように労働一般の属性、その永遠の生理学的な真理から価値へ上昇するとともに、他方ではまた社会的労働という社会的な事実ではあるがやはり永遠の真理であるという意味では一つの自然法則から、価値に上昇しているのである。
価値放送を説明したマルクスのクーゲルマンあての手紙のうちにこのことがよく示されている。
『どの国民も、一年とは言わず二、三週間でも労働をやめれば死んでしまうであろうということは、どんな子供でも知っています。また、種々の欲望量に対応する生産物量が社会的総労働の種々の量的に規定された量を必要とするということも、知っています。この、一定の割合での社会的労働の分割の必要は、けっして社会的生産の特定の形態によってなくされうるものではなく、ただその現象様式を変えうるだけだということは、自明です。
自然法則は一般に廃棄されるものではない。歴史的に種々に異なる諸状態のもとで変化しうるのは、、かの諸法則が貫かれる形態だけです。そして、社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態において、このような一定の割合での労働の分割が貫徹される形態、それがまさにこのような生産物の交換価値なのです。』(「資本論にかんする手紙」……)
この、社会的労働一般、社会の総労働が社会の総欲望に照応して一定の割合で分割されねばならないということのうちにも、それが価値という形態をとらねばならぬということはすこしも含蓄されていない。それは価値へ移行する必然性をすこしももっていない。この移行がやはり単純な総合過程であることも明らかである。
このことはまったく当然のことであって、もしここでマルクスの分析したものが、ただの抽象的労働、ただの社会的労働でなく、価値的な、価値に制約された、あるいはブルジョア的なブルジョア、資本に制約された抽象的労働や社会的労働であるとすれば、それは分析でもなんでもないだろう。すくなくともわれわれはそうした価値的あるいはブルジョア的な抽象的労働、社会的労働とはどんなものかとさらにたずねる必要がある。そしてこれに合理的に答えるには、結局、ただの抽象的労働、ただの社会的労働、抽象的労働一般、社会的労働にまで到達しないわけにはいかない。
歴史的なものとしての価値はいっさいの価値的なものの範囲から出て、非価値的な非歴史的な第三者としてのその内容、実体に行きつくことで、はじめて理解されるのである。」(著作集4巻、P94~)

長くなりましたので、引用はこの二つにとどめます。
見田が強調しているように、人間の労働が、人間の筋肉、神経の支出としては抽象的労働であるということは、いかなる社会的形態にあっても変わることのない“自然的な”事実だという点には、耳を傾ける必要があると思われます。
直接には私的な生産を基礎にしている商品生産社会にあっては、個々人の労働が社会性をもつのは──従来の社会とは異なって──、商品の価値として対象化されて一定の割合でたがいに等置され、交換しうるものであるかぎりであり、つまりそれらの労働の抽象的労働としての同等性においてです。ここでは、諸個人の労働が社会的な労働になるためには、それらの具体的な労働自身とは正反対の、同等な抽象的労働という姿をもたねばなりません。
商品生産社会にあっては、労働は、抽象的労働であるからこそ社会的労働として認められるのですが、社会的労働であることと抽象的労働であることとは別の事柄です。商品は、たしかに自らを社会的労働の対象化として表現しなければなりませんが、そのための条件が自らを抽象的労働の対象化として表現するということなのです。商品はこのことを、自らを商品と貨幣とに二重化し、価値を価格で表現するという方法でおこなっているのです。

2018年10月22日

「読む会だより」9月用

「読む会」だより(18年9月用) 文責IZ

(前回の報告と補足)
ここしばらく豪雨災害とその後の異常な暑さで「読む会」もなかなか進みませんでした。チューターの理解不足もあって価格の理解をめぐって立往生の状態ですが、今回で一応の解決をつけて、とりあえず前に進みたいと思います。
19日に行われた8月の「読む会」では、前回の関連で出された労働力の価値の問題をめぐって、「価値だの使用価値だの交換価値だの価格だの、あれこれあって混乱してしまう」という意見も出されました。価格の理解は思うほどには簡単ではないということだと思います。

前回、資料に挙げた久留間は、別の本(『マルクス経済学レキシコン』)のなかで、「14、商品の価値は、価格としての定在においてはじめて、実現されなければならないものとして現れる」という項目を立てて、3つの例文を引いています。とりわけ一番目に引用してあるマルクスの『経済学批判要綱』の部分は、価格の理解にとって重要と思われますので、長いものですが紹介しておきます。(<>内、@後の改行、●はレポータのもの)

・「商品は交換価値として規定されているものである。交換価値としては、商品は、一定の割合で(それに含まれている労働時間に応じて)他のすべての価値(商品)にたいする等価物である。しかし商品は、直接的にはそれのこうした規定性とは一致していない。交換価値としては、商品は、それの自然的定在における自分自身とは異なっている。商品をそうした交換価値として措定する<取り出す>ためには、ある媒介が必要である。だからこそ、交換価値は貨幣のかたちで、なにか別のものとして商品に対立するのである。@
貨幣として措定された商品が、はじめて、純粋な交換価値としての商品である。言い換えれば、純粋な交換価値としての商品は貨幣である。●しかし同時に、いまでは貨幣は、商品の外部に、またそれとならんで存在している。つまり商品の交換価値は、すべての商品の交換価値は、商品から独立した、ある特有の材料のかたちで・ある独自な商品のかたちで・自立化した存在を獲得したのである。……@
貨幣で表現された、すなわち貨幣に等置された交換価値は、価格である。貨幣が諸交換価値に対立する自立的なものとして措定されたのちに、今度は諸交換価値が、主体としてのそれら<諸交換価値=諸商品>に対立している貨幣、という規定性で措定されるのである。…
貨幣という規定性で措定されている交換価値が価格である。価格では交換価値は一定分量の貨幣として表現されている。価格では貨幣は、第一に、すべての交換価値の統一性として現れ、第二に、それらのそれぞれが特定の数だけ含んでいる単位として現れる。その結果、貨幣との比較によってそれらの量的規定性、それら相互の量的比率が表現されているのである。つまりここでは貨幣は、諸交換価値の尺度として措定されており、<商品の>諸価格は貨幣で計られた諸交換価値として措定されている。貨幣が価格の尺度であり、したがって交換価値が貨幣で互いに比較されるということは、おのずから明らかとなる規定である。@
しかしここでの展開のためにそれよりも重要なことは、価格では交換価値が<実在物である>貨幣と比較されるのだ、ということである。●貨幣が、商品から自立した分離された交換価値として措定されたのちに、こんどは個々の商品が、特殊的な交換価値が、貨幣にふたたび等置される。すなわち一定分量の貨幣に等置され、貨幣として表現され、貨幣に翻訳されるのである。@
諸商品は、<その価格において>貨幣に等置されていることによって、概念から見れば交換価値としてすでにそうであったように、ふたたび相互に関連させられており、その結果それらは、一定の比率で合致しあい比較しあうのである。特殊的な交換価値である商品は、自立化された交換価値である貨幣という規定性のもとに、表現され、包摂され、措定される。このことがどのようにして行われるか(すなわち、量的に規定されている交換価値と一定量の貨幣とのあいだの量的関係がどのようにして見いだされるか)は、上述のとおりである。@
しかし、●貨幣が商品の外部に自立的な存在をもつことによって、商品の価格は、貨幣にたいする諸交換価値ないし諸商品の外的な連関として現れる。●商品がそれの社会的実体から見れば交換価値であったのとは異なり、商品は価格ではない。この規定性は商品と直接に合致するものではなくて、それと<自立化された交換価値である>貨幣との比較によって媒介されているのである。@
●商品は交換価値であるが、それは一つの価格をもつのである。@
前者<交換価値>は商品との直接的統一のなかにあったのであり、商品の直接的規定性であった。●この規定性と商品とが、同じく直接に、分裂し、その結果一方には商品が、他方には(貨幣のかたちで)それの交換価値がある、というようになった。@
だが、●いまや商品は価格において、一方では自分の外部にあるものとしての貨幣に連関し、第二に、観念的にはそれ自身が貨幣として措定されている、というのは、貨幣は商品とは別の実在性をもっているからである。価格は商品の<社会的な>一属性であり、この規定においては、商品は貨幣として表象されるのである。それはもはや、商品の直接的な規定性ではなくて、それの反省された規定性である。●現実の貨幣とならんで、いまや商品は、観念的に措定された貨幣として存在しているのである。」

ここで言われていることは、第一に、使用価値(具体的有用労働の対象化)であると同時に価値(一般的抽象的労働量=社会的必要労働量の対象化)でもある商品は、その価値を表現するために同じ商品世界の内部で二極化(商品一般と貨幣商品とへの分極化)を行なうということ。第二にその結果、そこでは純粋な価値として貨幣商品が措定されると同時に、今度は諸商品がその貨幣と関連することで自らを価格をもつものとして、つまり観念的な貨幣として措定されるということ。つまり商品は、自らが一般的抽象的労働の対象化でもあるということを直接その自然の姿で表現する代わりに、一般的等価物である貨幣(金)を価値そのものと見なし、一定量の貨幣(金)がその商品と等価であり交換可能だということ、つまり「価格をもつ」ということによって表現するということ。しかし第三に、商品が価値として機能するためには、だから実際に貨幣という別の実在物に転換されねばならないこと、と思われます。

ここで重要な事柄は、商品の分裂の結果、純粋な価値と見なされる貨幣が、商品の「外部に」、商品と「ならんで」、自立的な存在をもつことになるということでしょう。
マルクスは『資本論 初版』の「付録」の「β 等価形態の第二の特性。具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる」のなかで、「価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。……この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とはともに法である、というならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関連は不可解になるのである。」(国民文庫版、P142)と語っています。
ここでは純粋な価値と見なされる貨幣が、商品の外部に商品と並んで自立的に存在をもつが故に、商品の価値は価格として、すなわち商品に内在するものとしてではなくて、商品の外部にある貨幣にたいする関係として表現され現れます。商品が価格をもつということは、商品がその自然形態とは別に、現実の貨幣とならんで、観念的に措定された貨幣として二重に存在するということでもあります。
この商品内部での商品と貨幣との分裂、あるいは商品の価値の価格としての表現のなかでは、商品がすでにその生産のために支出された労働量として価値をもっているということが、商品の価格が「実現され」て貨幣に置き換わることとして現われます。したがって価値をもっていることがなにか商品にとって“物”としての性格であり、また貨幣との置き換えによって“事後的”に証明されるものであるかに現れるのです。しかしながら、商品がその使用価値としての姿のほかに、価格という観念的に措定された貨幣の姿をもつということは、商品が“もともと”価値であるということを、商品相互による対立的な関係で表示する方法でしかないのです。
商品の「価格が実現」され、貨幣に置き換われば、商品はその「価値を実現」し、他の商品と置き換わることが可能な形態を持ちます。しかしそれは商品がその貨幣との形態転換運動(W─G─W)を通じて、それに内在する使用価値と価値との矛盾を解決し展開するためのひとつの準備段階なのです。
以前、第3章1節で問題になった、末尾にある「それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしている」というマルクスの言葉も、こうした観点から読まれるべきと思われます。

以下の説明部分は「たより7月用」と同じです。
(説明)第3章 第2節 c「鋳貨 価値章標」の1回目

(1)商品の価値としての表示が瞬間的な契機でしかない場合、すなわち金の機能が、商品流通を媒介するための鋳貨または流通手段の機能に解消される場合には、金は無価値な章標によって置き換えられ、紙幣という機能的な存在を受け取ることができる。

c項の冒頭でマルクスはこう語ります。
・「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。」(全集版、P163)
少しとっつきにくい文章でしょうから、『経済学批判』での説明を紹介しておきます。
・「金は、流通手段として機能するさいには、独特な身なりをとり、鋳貨となる。金はその通流を技術上の障碍によってさまたげられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。貨幣の計算名であるポンド、シリング等々で表現された金の重量部分を含んでいることをその刻印と形状で示す金片、これが鋳貨である。」(岩波文庫版、P136)
要するに、鋳貨とは、貨幣が金地金としてではなく、何円、何ドルという貨幣名をもつ金貨として登場することで、価格が一定の呼称で表わされた金の重量で表現されるということです。このこと自体は流通のためのいわば技術上の必要から生まれることであって、理解はそう難しいものではないと思われます(第1節で見たように、貨幣がもつ、価値尺度機能と価格の度量標準という二つの機能を区別できれば、ですが)。
ですから、「地金の状態にある金と、鋳貨としての金とのちがいは、金の鋳貨名と金の重量名との違いにすぎない」(『経済学批判』、同上)のであり、「金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができる」(全集版、P163)のです。

ところで流通過程には、鋳貨をその象徴に転化させるという自然発生的な傾向があるとマルクスは言います。
・「流通しているうちに、金鋳貨は、あるものはより多く、あるものはより少なく磨滅する。金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが、その分離過程を開始する。同名の金鋳貨でも、重量が違うために、価値の違うものになる。流通手段としての金は価格の度量標準としての金から離れ、したがってまた、それによって価格を実現される諸商品の現実の等価物ではなくなる。18世紀までの中世および近代の鋳貨史は、このような混乱の歴史をなしている。鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、金属喪失が一個の金貨を通用不能にし廃貨とするその程度についての最も近代的な法律によっても承認されているところである。」
例えば、かつての1円の鋳貨なら金2分(ふん)=0.75グラムの重量をもたねばならないのに、実際上0.7グラムしかなくなってしまうという事情です。
こうした事情は銀貨や銅貨といった補助鋳貨においては一層顕著ですし、補助通貨自体が
・「貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料からなっている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる」(全集版、P164)のです。

このようにして
・「それら<補助鋳貨……レポータ>の鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。すなわち、およそ価値というものにはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に変わって鋳貨として<すなわち紙幣として……レポータ>機能することができる。」(同、P165)ことになります。
この場合、
・「流通部面が<商品の価格総額を実現するための流通手段=鋳貨として……レポータ>吸収しうる金量は、たしかに、ある平均水準の上下にたえず動揺している。とはいえ、与えられた一国における流通手段の量は、経験的に確認される一定の最低量より下にはけっして下がらない。……それだからこそ、この最小量は紙製の象徴によって置き換えることができるのである。」(同、167)

しかしそれにしても、なぜ金属貨幣流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能なのでしょうか。マルクスは「なぜ金はそれ自身のたんなる無価値な章標によって代理されることができるのか?」と自問し、こう答えています。
・「すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりのことである。……金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通している間だけのことである。……この最小量の金は、<商品価格を実現するために……レポータ>つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。@
だから、その運動は、ただ商品転態W─G─Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのだる。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。@
それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけていく過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の<流通手段としての……レポータ>機能的定在が貨幣の<金という……レポータ>物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。……@
ただこの流通部面のなかで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである。」(同、168)

こうして金属貨幣の流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能になるのですが、価値章標による金属貨幣の代理は、資本主義の現実をいっそう複雑で理解困難なものにしていくことになります。

2018年9月17日

「読む会だより」8月用

「読む会」だより(18年8月用) 文責IZ

(7月の報告)
7月の「読む会」は15日に行われました。
(前回の報告)の部分では、最後から2番目の段落(「価値の形態Gを媒介にした……」)の最後に「商品が運動しているように“現われる”」とあるが、“見える”ということでよいのではないか、とくに違いがあるのか、という質問が出ました。
『資本論』での該当する個所(全集版では、P151~152)の最後が「それゆえ、……逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ“現われる”のである」となっていることもあってそう書いています。単なる外観ではなくて現実的な内容を伴う場合に、“見える”と区別して“現われる”と述べられるようだが、ここでは特に区別しなくてもよいのではないかとチューターは答えました。

関連してチューターは、この段落では、貨幣が商品の価格を次々と実現することで、その持ち手を変えながら通流するから、商品の形態転換が貨幣によって行われているように見えると説明しているが、説明が“方向違い”かもしれないので次回考えて来たいと述べました。
チューターはそこで、なにか商品の価格を実現する運動の“結果”が貨幣の運動であるかに書いていますが、そうではなくて、それもまた一つの外観にすぎないということだと思います。商品の観念的な価値(価格)の実現が、他方での貨幣の観念的な使用価値の実現と結びついていること、あるいは商品の形態運動(転換)ということについての、チューターの一面的な理解があったように思います。
詳しくは別記の参考資料(久留間鮫造、『貨幣論』後篇、「マルクスの価値尺度論」)を参考にして頂きたいのですが、久留間は宇野弘蔵の「商品は自ら運動しうるわけではない」という主張を批判して、「商品が、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を展開すべきものとして措定されているのだ、ということの認識が肝要だ」という見出しをつけています。チューターが説明するには荷が重いのですが、要約すると次のようなことだと思います。
商品に内在している使用価値と価値との対立──すなわち私的で特殊な労働が、社会的効力をもつためには、その直接の対立物である抽象的一般的労働として表わされなければならないという矛盾──は、商品自身が商品と貨幣とに二重化することによって、商品と貨幣との外的対立として表示されることになる。それは言いかえれば、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を、商品自身が展開するような存在を与えられる(措定される)ということである。
なぜなら商品が商品と貨幣とに二重化されると、それぞれが商品としては共に使用価値であるとともに価値であるにもかかわらず、その役割が両極化される。つまり商品は実在的には使用価値であり、その価値存在はただ観念的に価格において現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在的な価値姿態としてそれに対立する金に、関係させる。つまり、使用価値と価値との矛盾が内包されたままでは商品は相互に関連することはできないが、商品が二重化され、商品と貨幣との両極として区別され対立するものとして生みだされることになると、商品は相互に共通な価格をもつものとして関連し運動しうるものになる。逆に、金という素材は、ただ価値の物質化として、貨幣として意味を持つだけである。それゆえに貨幣は実在的には価値である。その使用価値は、もはや、ただ観念的に相対的価値諸表現の列のなかに現われるにすぎなくなる。
このように商品の二重化によって、実在的には使用価値でありながらも観念的には価値として貨幣に関連するものとされる商品極にあっては、それはその価格を実現することによって貨幣に転換されるべきもの(W─Gの運動をするもの)としてのポテンシャルをもつ。他方で実在的には価値でありながらも観念的に諸商品と関連するものとされる貨幣極にあっては、それはその観念的な使用価値を実現して諸商品に転換されるべきもの(G─Wの運動をするもの)としてのポテンシャルをもつ。そして両極がこのような反対のポテンシャルをもつからこそ、両極化された使用価値と価値との矛盾は、W─G─Wという形態運動(転換)を展開することになる。
おおよそこのようなことだと思います。チューターは、商品の側の観念的な価格の実現という面だけを見て、それが貨幣の側の観念的な使用価値の実現と対をなしているという面を見落としている点で、前回の説明は一面的だったと思います。「商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる」(P152)のは、商品が「その流通の前半で貨幣と場所を取り替え」、「それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる」ことで流通の場からは目に見えなくなるからであり、また商品に代わって「その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占め」、「流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける」からであり、「それとともに、<流通における>運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる」からにほかなりません。
貨幣は購買手段として「商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと」移るという同じ運動をくりかえします。しかしこのような貨幣の“購買手段”としての機能は、W─G─W’という商品の形態転換の運動が、前半のW─Gにおいても後半のG─Wにおいても「貨幣とそのつど別な商品との場所変換を含んでいる」からであって、貨幣の購買機能が商品の形態転換をひき起こすというわけではないのです。

前回の(説明)の部分では、柄谷氏のコラムについての評価について再度いろいろと意見が出されました。「交換を強いるのは物神の力」という氏の主張に反論した林氏の文章をコピーで出しておきます。
もう一つ議論となった、氏の労働者商品の評価については、同じく林氏による反論を『商品の意味するもの』の中から2か所あげておきます。

「労働力も商品である以上、その価値規定は一般の商品と同じである──つまり、その再生産に必要な社会的労働こそが、労働力商品の価値となる。
しかし労働力の“再生産”に必要なものは、直接には社会的労働ではなくて、労働者が消費する生活資料にほかならない。資本主義社会ではこれらの消費手段は商品である。従って、労働力の価値は、一定額の生活手段の価値に還元され、かくして(こうしていわば回り道をして)労働力の価値規定もなされるのである。
見られるように、労働力の価値規定は、一般商品の価値規定──価値法則、と呼んでもいい──を前提にし、それを“媒介”にして間接的になされるのであって、一般商品のように“直接に”なされるのではない。これは、労働力が人間の生産的活動の諸結果なのではなく、むしろ反対にその“主体”、前提なのだから、当然といえば当然である。(もちろんある意味では、労働力も人間の生産的活動の結果、その成果ともいえるのだが)。
周知のように、宇野学派は労働力商品のこの特殊性を理解していない。むしろ彼らはあべこべに、労働力商品の価値規定が一般商品の価値規定の前提であるかの愚論──まず労働力商品の価値規定がなされ、それが一般商品の価値規定として“波及”していく等々──を“真正科学”の名で語っている。詳しくは展開できないが、ここでは、こうした見解がスミス的な、マルサス的たわごとである、とだけ言っておく(宇野はこの点では、自分の見解はスミスと同じだと公言してはばからない)。
労働力商品の価値規定が、労働者の消費する生活手段の価値規定として媒介的であるということは、当然、この価値規定に、一つの量的な特殊性を──質的な特殊性のほかに──つけ加える。……」(著作集1、P125)

「宇野派は労働力商品についてもおしゃべりをくりかえし、「本来商品でない労働力までもが商品化するのが資本主義の根本矛盾だと言ってきた。
労働力商品が「本来商品ではない」というなら、宇野派は事実上、「本来の商品」を、つまり“労働価値説”によって本質的に規定される一般商品を前提しているわけだ。彼らは、一般商品と労働力商品とを区別した──これは大変にすばらしいことである。
しかし他方、宇野派はずっと、一定の価格をもつものが即商品である、と言ってきた。彼らは、ヴェーム・バヴェルクらとともにマルクスの労働価値説を攻撃して、商品の価値規定を「最初から」やるから、他の商品の規定ができなくなる。単に価格(すべての商品に共通なある量!)を持つものを商品として、つまり「流通形態」として規定しておけば、マルクスもバヴェルクらに批判されないですんだろうに、とおっしゃっている。
もし一般商品と労働力商品(さらには土地などの“商品”)を区別しようとするなら、労働価値説に立脚する以外ないことは明らかである。
宇野派は、一方で、価格をもつものはすべて商品だ、とおっしゃる。他方では、一般商品と労働力商品を区別せよとおっしゃる。これは偉大なる矛盾ではないでしょうか!
……宇野にとってこの言い方がペテンであり自己矛盾そのものであるのは今見たとおりだが、そのことはさておくにしても、ヨリ本質的に反省してみれば、一般商品もまた「本来商品ではない」のだ(それとも宇野学派は、生産物は「本来商品だ」とでも妄想しているのか?)
人間の労働生産物は私的所有と分業の社会では“商品”となり、“商品”としてあらわれる。この社会では人々は直接に社会的存在でなく私的生産者であり、孤立した存在である。こうした人々の社会的な結びつきは、ただ自らの私的な生産物を“商品”として交換することによってのみ可能となる。人々は直接に社会的労働を“交換”しえないので、生産物を交換することで、媒介的にそれをなす。これがかの有名な“交換価値”(市場経済!)であり、その秘密なのだ。
資本主義が克服されれば、労働生産物が「本来商品でない」ことは白日の下にさらけ出されるだろう。……」(同、P126)

今回は、いくつか資料もあり、夏バテということで(説明)の部分にははいりません。了承願います。
(資料を別添します)

資料2 久留間鮫造『貨幣論』(大月)、後篇「マルクスの価値尺度論」より

13){〈商品は自ら運動しうるわけではない〉という点からするマルクス批判について}

{宇野氏は、商品は自ら運動しうるわけではない、貨幣によって運動させられるのだ、と言う}
B それでは次の問題に移ります。宇野教授は、58頁でこう言っています。
〈マルクスは、「交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化を、すなわち諸商品がそれらの内在的な使用価値と価値との対立をそこで表示する外的対立を生ぜしめる」(岩波文庫1、200頁)と言い、「諸商品のかかる対立的な諸【P265】形態は、諸商品の交換過程の現実的運動形態である」(同上)とも言っているが、これはなお商品の側からの規定にすぎない。「諸商品の現実的運動諸形態」といっても、商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである。商品の、商品と貨幣とへの二重化は、商品の側からは観念的なる貨幣形態を与えうるだけであって、この対立もそれだけでは現実的に解決される運動を展開するわけではない。〉
この、「商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである」、という主張についてはどうお考えでしょうか?

{「諸商品の対立的な諸形態」についてのマルクスの叙述は「商品の側からの規定にすぎない」のか?}
久留間 その前にまず、「マルクスは……『諸商品のかかる対立的な諸形態は、諸商品の交換過程の現実的運動形態である』とも言っているが、これはなお商品の側からの規定にすぎない」とある、これが問題です。どういうつもりで、それを「商品の側からの規定にすぎない」と言うのか、ぼくにはちょっと分かりかねるのです。マルクスが「諸商品の“かかる”対立的諸形態」と言っているのは、そのすぐ前に彼が述べていることを受けていることは言うまでもない。では、どういうことを彼はそのすぐ前に述べているかというと、こういうことを言っているのです。

{マルクスは明白に「貨幣の側からの規定」をも与えている}
交換過程は貨幣を生み出すことによって、「商品と貨幣とへの商品の二重化」を生ぜしめる。そうすると、商品に内在する使用価値と価値との対立が、商品と貨幣との外的な対立として現れることになる。ところでこの場合、商品および貨幣は、もはや商品でなくなるのではなく、やはり商品であり、使用価値と価値との統一なのだが、この区【P266】別の統一は、商品および貨幣の両極に逆に現われ、それによって同時に、商品と貨幣との相互関係を表わすことになる。大体こういう意味のことを述べた後に、マルクスは、この最後の点<商品と貨幣との相互関係>を具体的に説明して、次のように言っているのです。
〈商品は実在的には使用価値であり、その価値存在はただ観念的に価格において現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在的な価値姿態としての対立する金に関係させる。逆に、金材料は、<それが独自に持つ使用価値としてではなく>ただ価値の物質化として、貨幣として、意味をもつだけである。それゆえ、貨幣は実在的には交換価値である。その<貨幣としての>使用価値は、もはや、ただ観念的に相対的価値諸表現の列のなかに現われるにすぎない。(『資本論』Ⅰ、119頁、「方法Ⅱ」、〔305〕〉
ここでマルクスは、一見明白なように、「商品の側からの規定」だけではなくそれに対応するものとしての貨幣の側からの規定をも与えているのです。「その逆に、金材料は、云々」という後半の叙述がそれです。そしてそれを受けて、「諸商品のかかる対立的な諸形態は、諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、と言っているのです。(……省略……)
ところが宇野君はこれを読んで、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」と言う。一体どういう読み方をするとそういう解釈ができるのか、ぼくにはどうも不思議でたまらないのです。

【P267】{「諸商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」ということの意味}
念のために、もう一度くり返して説明すると、「諸商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、とマルクスが言っているのは、今も言ったように、商品に内在する使用価値と価値との対立が商品と貨幣との対立として外化することになると、商品の方は、実在的には使用価値であって、それの価値は価格の形態で、一定量の金として表示されることになるが、この表示はなお観念的にすぎない。すなわち、商品は価値としては一定量の金であるといっても、商品が本来の使用価値の形態にあるかぎりは、それはまだ現実の金にはなっていない。だから、価格の形態において、商品は、価値として現実に作用するためには、本来の使用価値の形態を譲渡することによって現実の金にならねばならぬものとして──すなわちW─Gの運動を展開すべきものとして──措定されていることになる。@
その反対に金の方は、価値の体化物すなわち貨幣としてのみ意味をもっている。だからそれは、実在的に交換価値、すなわちいかなる他商品とも交換可能なものである<久留間は交換価値についてこう言う>。と同時に、そういうもの<すなわち交換価値ないし貨幣>としての金の使用価値は物価表を逆に読む形──いわゆる「貨幣商品の特殊的相対的価値形態」──で表示されることになる。だがこの表示はなお観念的にすぎない。だからこの形態において、貨幣としての金の使用価値はこれから実現されねばならぬものとして──すなわちG─Wの運動を展開すべきものとして──措定されていることになる。@
このようにして商品は、商品と貨幣とに二重化し、それに内在する使用価値と価値との対立が商品と貨幣との外的対立として表示されるようになると、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を、展開すべきものとして措定されることになり<注意!!>、商品の交換過程は、これらの対立的な形態を通して運動することになる。マルクスが「諸【P268】商品のかかる対立的諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」、と言っているのは、このことを言っているのです。

{宇野氏は、商品から独立した貨幣の規定が別にあるとでも考えているのだろうか?}
ところが、宇野君はこれをつかまえて、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」と言うのだが、なぜこれが「商品の側からの規定にすぎない」のか、ぼくにはどうもそのわけが分からない。もちろん、貨幣にしても商品の価値の自立化したものであり、商品の転化した形態にほかならない。だから、今言ったような貨幣の側からの規定にしても、やはり商品の規定にほかならないということ、ひいてはまた、G─Wにしても商品自身の運動──商品の第二の姿態変換──にほかならないということは、確かな事実です。だがもし、だからそれは「なお商品の側からの規定にすぎない」と言うのだとすれば、それはとりもなおさず、上に述べた以外の・もともと商品から独立した・貨幣の規定が別にあるものと考え、それをマルクスは説いていないといって批難していることになる。しかし宇野君にしても、まさかそういう途方もないことを考えているものとは思えない。とすると、「これはなお商品の側からの規定にすぎない」いう宇野君の批難は、「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」というマルクスの言葉の意味を全然理解していないことから来ているものと考えるほかはないことになる。

{「商品は自ら運動しうるわけではない」というのは無理解の上に安住した放言だ}
なお宇野君は上に続いて、「『諸商品の〔交換過程の〕現実的運動〔諸〕形態』“といっても”、商品は自ら運動しうるわけではない。貨幣によって運動させられるのである」、とも言っている。そしてこれが、さきほどB君が問【P269】題にしようとした点なのですが、これもまたぼくには、同じ無理解の上に安住した放言としか思えない。

{商品が、商品の形態にあってはW─Gの運動を、貨幣の形態にあってはG─Wの運動を展開すべきものとして措定されているのだ、ということの理解が肝要だ}
なるほど、貨幣の側からのG─W(購買)なしには商品のW─Gの運動(販売)は行われないということは、確かに事実に相違ないが、しかし同時にまた、商品の側からのW─Gなしには貨幣のG─Wの運動は行なわれえない、ということも事実です。両者は相互に条件づけあう関係にあるので、一方だけが他方の条件をなすわけではないのです。だがいずれにしても、これはもともと、運動が行なわれるためのいわば外的な条件の問題にすぎない。われわれは、運動を問題にする場合、そういう外的条件を問題にする前に、運動そのものがなにによって必然とするかを問題にする必要がある。一般に、あるものが運動するのは、それが矛盾をもっていて、そのままの状態に留まりえないからです。さきにぼくが引用した──宇野君の引用では省略されていてぼくが補足した──個所で、マルクスはまさにこの観点から、商品が商品の形態にあってはW─Gの運動を・反対に貨幣の形態にあってはG─Wの運動を・展開すべきものとして措定されているところの、その形態について述べているのです。そしてそれを受けて、「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」と言っているのです。
なお、念のために注意しておくが、ここ<諸商品のかかる対立的諸形態は……の部分>でマルクスが言っていることは、商品変態論の冒頭で彼が言っていることに対応しているのです。そこで彼はこういうふうに言っている。「すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾し互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を取り除きはしないが、これらの矛盾が運動しうる形態をつくりだす。これは、一般に現実的な矛盾が解決さ【P270】れる方法である」(『資本論』Ⅰ、118頁、「方法Ⅱ」〔305〕)。──「諸商品のかかる対立的な諸形態は諸商品の交換過程の現実的運動諸形態である」と言うとき、マルクスは、この冒頭<第2節第4パラ>にいわゆる「これらの矛盾が運動しうる形態」の実際のあり方について述べているのです。

{究極的には、交換過程論の意義を理解しないことから、見当はずれの批難が生じている}
ぼくは、今日最初に話したさいに、マルクスの商品変態論に対する宇野君の異論は、究極的には、マルクスの交換過程論の意義を理解していないことから来ているということ、そのために、交換過程論につながる商品変態論の重要な意義を理解しえないことになって、検討はずれの批難を加えることになったのだということを述べたのですが、今の、「『諸商品の〔交換過程の〕現実的〔諸〕形態』といっても、商品は自ら運動しうるわけではない」というのも、まさにその一例にほかならないと思うのです。
<以上 『参考資料』の項目に全文を掲載しています>

2018年8月20日

「読む会」だより7月用

「読む会」だより(18年7月用) 文責IZ

(6月の報告)
6月の「読む会」は17日に行われました。
(前回の報告)の部分での「価格が“観念的なもの”である」という点には、あまり意見が出ませんでした。チューターにもこだわりがあるせいか、説明が長くなってむしろ分かりづらかったのではないかと反省しています。
チューターの言いたかったことは、価格とは、第一に、“商品の”価値表現の方法であり、それは「異種の諸商品の等価表現」ないし異種の使用価値(物質的属性)の“等置”として行われています。だから、商品の価格は物質的なものではなくて“観念的なもの”だということです。商品が価格をもつという現象は、現実の社会現象であって、商品生産者等の観念が作り上げるといったものではありません。
そして価格とは第二に、発展した価値表現として、すべての商品が一般的等価物としての金のみを右辺に置く形で表現された価値の表現であるということです。この場合、すべての商品にとって右辺の金は、金という物質としてではなくて、社会的に同等な、抽象的人間労働の結晶としてのみ取り扱われます。このことによって、すべての商品は、共通にその価値の大きさを金の大きさとして表現できることになります。価格は、商品の価値を抽象的人間労働の結晶と見なされた金の大きさで示すものです。商品の価値を、金の一定量として表示する商品の価格は、その商品自身に固有な物質的属性とは区別された商品に共通な社会的属性の表現(抽象的人間労働の結晶)として“抽象的なもの”なのです。
商品交換が発展して一般的等価物が成立するようになると、諸商品の価値はそれと交換可能な一般的等価物の一定量として、その使用価値と分離されることになりますが、物々交換においては、生産物の価値はその使用価値と完全には分離されていないのです。

また、商品流通が貨幣運動の結果のように見えるという点についても、魔術と言えるかといった形で問題にしてしまいよくなかったと反省しています。
重要な事柄は、久留間の説明図で言えば、リンネル生産者の手の中にあったGが聖書生産者の手へと右下方向に移動したのは、リンネル生産者が聖書を買った(G─W3)結果であり、リンネルW2の形態転換として見れば、聖書W3がリンネルを売って得たGと置き換わって右上に移動した結果です。このことは社会的な素材転換W2─W3が行われたということであり、このなかでGは、すべての商品にとっての価値の形態として、特定の使用価値の姿をもつリンネルW2が別の姿をもつ聖書W3へと置き換わるのを媒介したということです。
GがリンネルW2が聖書W3に置き換わるのを媒介しうるのは、ただリンネル生産者がリンネルを小麦生産者に売っていた(W2─G)からであり、また聖書生産者がすでに聖書を生産していたからにほかなりません。しかしながら、個々の商品生産者にとっては、リンネルW2が欲求どおりに聖書W3に置き換わるのは、Gのもつ“購買力”で聖書W3を買ったからのように見えます。しかしそれは実際には、すでにリンネルが販売されて価値の形態Gをとっているからにすぎません。金Gはすべての商品によって価値の形態であると認められているからこそ、商品は販売されてGの姿に置き換わっているならば任意の別の商品に置き換わる(購買する)ことができるのです。
このように商品の使用価値の形態と価値の形態との形態転換、W─GまたはG─Wは、いつも貨幣の持ち手(位置)の転換すなわち貨幣通流として現れます。しかし、リンネルW2─G─聖書W3という一商品リンネルの形態転換の過程はそこで完結するのに対して、それを媒介した貨幣の持ち手の転換である貨幣通流のほうは、そこで完結するのではありません。新たな貨幣所有者となった聖書生産者の手の中で、聖書が姿を変えたGは聖書が火酒に転換されるためにこそ存在するのです。商品流通の絶え間ない更新は、消費された使用価値に替わる新しい使用価値が、商品としてつねに生産されなければならないということでしかありませんが、商品流通を媒介する貨幣はいつまでも流通のなかにとどまり続けなければならないのです。
そこで『経済学批判』での言葉を借りれば、「商品はつねに貨幣とは反対方向に1歩だけ進むにすぎないのに対して、貨幣のほうはいつも商品といれかわりに第2歩を進めて、商品がAといった場所でBというためであるが、そうなると、全運動は貨幣から出発するように見えるのである。だがそれにもかかわらず、販売のさいに貨幣をその位置からひきよせ、したがってまた貨幣を、ちょうど購買のさいに商品が貨幣によって流通させられるのと同じように、流通させるのは商品である。さらにまた貨幣は、つねに購買手段という同じ関連で商品にあいたいするのであるが、購買手段としては、ただ商品の価格を実現することによって、商品を運動させるにすぎないから、流通の全運動は、……貨幣が商品の価格を実現することによって、商品と位置をかえるように見える。……貨幣は、商品の価格を実現することによって商品を流通させているように見える。……」(岩波文庫版、P126)
価値の形態Gを媒介にした商品の形態転換W─G─Wは、商品流通のなかでは、あたかも貨幣が商品の価格を次々と実現し、その持ち手をかえながら通流していくことによって、商品が運動しているように現れるのです。

(説明)の部分にたいしてもあまり質問・意見は出ませんでしたが、朝日新聞のコラム(柄谷行人、カール・マルクス)についていくつか意見が出されました。持参してくださった参加者は「資本主義経済は宗教的な世界だ」という部分に共感したということでしたが、資本主義の欠陥は労働力商品を増やすことも減らすこともできないことにある等々というのはどうかという意見などが出ました。「交換を強いるのは物神の力」だとタイトルにありますが、むしろ逆で、生産物の私的な交換から物神の力が生まれる、とマルクスは言っているように思われます。

今回から、c「鋳貨 価値章標」の項目に入ります。短いものですが、現代の“通貨”である中央銀行券の理解などのためにも重要なところです。

(説明)第3章 第2節 c「鋳貨 価値章標」の1回目

(1)商品の価値としての表示が瞬間的な契機でしかない場合、すなわち金の機能が、商品流通を媒介するための鋳貨または流通手段の機能に解消される場合には、金は無価値な章標によって置き換えられ、紙幣という機能的な存在を受け取ることができる。

c項の冒頭でマルクスはこう語ります。
・「流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品に相対しなければならない。」(全集版、P163)
少しとっつきにくい文章でしょうから、『経済学批判』での説明を紹介しておきます。
・「金は、流通手段として機能するさいには、独特な身なりをとり、鋳貨となる。金はその通流を技術上の障碍によってさまたげられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。貨幣の計算名であるポンド、シリング等々で表現された金の重量部分を含んでいることをその刻印と形状で示す金片、これが鋳貨である。」(岩波文庫版、P136)
要するに、鋳貨とは、貨幣が金地金としてではなく、何円、何ドルという貨幣名をもつ金貨として登場することで、価格が一定の呼称で表わされた金の重量で表現されるということです。このこと自体は流通のためのいわば技術上の必要から生まれることであって、理解はそう難しいものではないと思われます(第1節で見たように、貨幣がもつ、価値尺度機能と価格の度量標準という二つの機能を区別できれば、ですが)。
ですから、「地金の状態にある金と、鋳貨としての金とのちがいは、金の鋳貨名と金の重量名との違いにすぎない」(『経済学批判』、同上)のであり、「金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができる」(全集版、P163)のです。

ところで流通過程には、鋳貨をその象徴に転化させるという自然発生的な傾向があるとマルクスは言います。
・「流通しているうちに、金鋳貨は、あるものはより多く、あるものはより少なく磨滅する。金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが、その分離過程を開始する。同名の金鋳貨でも、重量が違うために、価値の違うものになる。流通手段としての金は価格の度量標準としての金から離れ、したがってまた、それによって価格を実現される諸商品の現実の等価物ではなくなる。18世紀までの中世および近代の鋳貨史は、このような混乱の歴史をなしている。鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるという、流通過程の自然発生的な傾向は、金属喪失が一個の金貨を通用不能にし廃貨とするその程度についての最も近代的な法律によっても承認されているところである。」
例えば、かつての1円の鋳貨なら金2分(ふん)=0.75グラムの重量をもたねばならないのに、実際上0.7グラムしかなくなってしまうという事情です。
こうした事情は銀貨や銅貨といった補助鋳貨においては一層顕著ですし、補助通貨自体が
・「貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料からなっている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる」(全集版、P164)のです。

このようにして
・「それら<補助鋳貨……レポータ>の鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。すなわち、およそ価値というものにはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に変わって鋳貨として<すなわち紙幣として……レポータ>機能することができる。」(同、P165)ことになります。
この場合、
・「流通部面が<商品の価格総額を実現するための流通手段=鋳貨として……レポータ>吸収しうる金量は、たしかに、ある平均水準の上下にたえず動揺している。とはいえ、与えられた一国における流通手段の量は、経験的に確認される一定の最低量より下にはけっして下がらない。……それだからこそ、この最小量は紙製の象徴によって置き換えることができるのである。」(同、167)

しかしそれにしても、なぜ金属貨幣流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能なのでしょうか。マルクスは「なぜ金はそれ自身のたんなる無価値な章標によって代理されることができるのか?」と自問し、こう答えています。
・「すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりのことである。……金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通している間だけのことである。……この最小量の金は、<商品価格を実現するために……レポータ>つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。@
だから、その運動は、ただ商品転態W─G─Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのだる。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。@
それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけていく過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の<流通手段としての……レポータ>機能的定在が貨幣の<金という……レポータ>物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。……@
ただこの流通部面のなかで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである。」(同、168)

こうして金属貨幣の流通は紙幣流通によって置き換えられることが可能になるのですが、価値章標による金属貨幣の代理は、資本主義の現実をいっそう複雑で理解困難なものにしていくことになります。

2018年7月17日

「読む会」だより6月用

「読む会」だより(18年6月用) 文責IZ

(5月の報告)
5月の「読む会」は20日に行われました。
(前回の報告)の部分では、「価格が“観念的なもの”であるということは、……一定量の金がその商品と交換可能であるという姿で……すでに社会的に関連付けられているということだ」という説明になっているが、これまでの説明と少し違っていないのか、という質問がありました。チューターは、価格は商品にとって「物質的なものではない」から「観念的なもの」だという説明だけではどうかという意識があったのでこう書いたが、まだあれこれ考えていると答えました。

チューターの意識にあるのは『資本論』のなかの、以下の3つの指摘です。まず直接に関係するのは第3章1節のはじめのほうにある以下のものです。
・「商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態である。鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらの物そのもののうちに存在する。この価値は、これらの物の金との同等性によって、いわばただこれらの物の頭のなかにあるだけの金との関係によって、想像される。それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには、……これらの物に紙札をぶらさげるかしなければならないのである。」(全集版、P126)
ここでは価格は、商品の実在的な物体形態(特定の使用価値をもった)からは区別されるものであり、したがって単に観念的なまたは想像的な形態である、と述べられています。

ここで「商品の価値形態一般と同様に」とあるのは、第1章3節の以下の部分が参考になるでしょう。
・「リンネル=上着 というのが等式の基礎である。……たとえば上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、上着に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働に等置される。ところで、たしかに、上着をつくる裁縫は、リンネルをつくる織布とは種類の違った具体的労働である。しかし、織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に還元するのである。このような回り道をして、次には、織布もまた、それが価値を織るかぎりでは、それを裁縫から区別する特徴をもってはいないということ、つまり抽象的人間労働であるということが、言われているのである。ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働の独自な性格を顕わにするのである。というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の諸労働を、実際に、それらに共通なものに、人間労働一般に、還元するのだからである。」(全集版、P68)
ここでは異種の商品の等価表現によって、まずは右辺の商品(発展すれば貨幣商品)に含まれる労働が抽象的人間労働に還元され、その上で、左辺の商品もまた共通な価値としては右辺の商品と区別されないということが表現されている、と述べられています。要するに価格(左辺の商品と右辺に置かれる金量との等式)においては、右辺の金は抽象的人間労働が対象化された物体としてのみ扱われるのであり、この抽象的人間労働の対象化として、実在的な物体形態から区別される観念的な想像的な形態(姿)だと言われるのです──単に両辺が観念的に等置されるからというのではなくて。
価格は、だから、抽象的なあるいは社会的な人間労働の対象化(すなわち価値の形態)と見なされた、そしてこの意味で“観念的な”金の一定量との等置なのです。

しかし、商品は物であって意識を持たないではないか、価格といった観念的なものをもつのは人間つまり商品所有者でしかありえないではないかという疑問をもつ方がいらっしゃるかもしれません。第1章第4節でマルクスはこう述べています。
・「商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、<労働生産物の……レポータ>商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き替えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。……商品形態やこの形態が現われるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的な性質やそこから生ずる物的な関係とは絶体になんの関係もないのである。」(全集版、P98)
価格は価値と同じく、商品がもつものであって人間がもつものではありません。しかし労働生産物の価値としての同等性やその価格としての表現は、人間の社会関係がもたらす社会的な属性です。そして、この社会的な属性がどのようなものであるかは、マルクスが『資本論』でおこなっているように、人間が観念を利用して認識するほかには手がないのです。

貨幣による商品流通の媒介は当たり前のことで、魔術というほどのものではないという点については、質問者が欠席なさったので議論は進みませんでしたが、若干補足しておきます。
貨幣が生み出されると、商品交換は販売と(W─G)と購買(G─W)という二つの過程に分裂します。しかし物々交換と違って、商品交換の前半の販売(W─G)においては、商品は価格として、観念的にすでに存在していた自分自身の価値の姿に現実に転化するのであって、商品としての金と交換されるのではありません。言いかえれば、商品世界が排除された一商品を貨幣とする関係をすでに持っているからこそ、商品の価値は価格で表現しうるし、その価格が実現されるならば、その商品は貨幣に置き換わった姿において、その大きさの範囲内であれば、今度はすべての他の商品と置き換わることができるのです。
ある商品の生産に支出された労働が、価値として、社会的な労働として同等なものとして認められるということが、ここでは商品の価格が実現され、一定量の貨幣に置き換わるということとして現われるのです。貨幣は、なぜ他の商品と任意に置き換わることができるのかを考えるならば、事はさほど当たり前ではないように思われます。

前回は説明の部分に進めなかったので、説明部分は前回と同じです(すみません)。

(説明)第2節 流通手段 b 貨幣の流通 の2回目

(2)流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、商品の価格総額と貨幣の流通速度によって決まるのであって、貨幣量によって価格やその総額が決まるのではない──いわゆる貨幣数量説の誤りについて

マルクスはb項「貨幣の流通」のなかで次のように問題を提起します。
・「どの商品も、流通への第一歩で、その第一の形態変換で<すなわちその所持者にとっては非使用価値である或る商品の売りW─Gは、同時にすでに別の商品を売って得たGの所持者の使用価値としての買いであるのだから(久留間の図で言えば左下から右上に上がって脱落するWの流れのように)……レポータ>、流通から脱落し、そこには絶えず新たな商品がはいってくる。これに反して、貨幣は流通手段としてはいつでも流通部面に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。そこで、この部面はつねにどれだけの貨幣を吸収するか、という問題が生ずる。」(同、P153)

そしてこう答えています。
・「商品は、その価格において、すでに決定された想像された貨幣量に等置されている。ところで、ここで考察されている直接的流通形態<信用などを考慮外に置いた、商品と商品との直接の……レポータ>は、商品と貨幣とをつねに肉体的に向いあわせ、一方を売りの極に、他方を買いの反対極におくのだから、商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表わされている金総額を実在的に表わすだけである。したがって、これら二つの総額が等しいということは自明である。とはいえ、われわれが知っているように、商品の価値が変わらない場合には、商品の価格は金(貨幣材料)そのものの価値といっしょに変動し、金の価値が下がればそれに比例して上がり、金の価値が上がればそれに比例して下がる。こうして諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。」(同、P154)
・「流通過程の或る与えられた期間については、(商品の価格総額)/(同名の貨幣片の流通回数)=流通手段として機能する貨幣の量 となる」(同、P157)

そしてさらにこう触れていわゆる貨幣数量説を批判しています。
・「流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則は、次のようにも表現することができる。すなわち、諸商品の価値総額とその変態の平均速度が与えられていれば、流通する貨幣または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって定まる、と。これとは逆に商品価格は流通手段の量によって規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定される、という幻想は、その最初の代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通過程にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて、そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ、というばかげた仮説に根差しているのである。」(同、P160)

商品の流通があるかぎり、つまり商品の素材転換が滞りなく行われるためには、一定量の流通手段の量が客観的に必要であることは、価格が商品の価値の表現として決してたんなる主観的なものではないということが理解できれば、きわめて当然のことのように思われます。
価格とは、支出された社会的必要労働量として客観的に存在する商品の価値を、貨幣で相対的にあるいは観念的に表現したものでした。だから社会的に必要な流通手段の量は、貨幣として実現されるべき商品の価格総額によって決まることは至極当然なのです。
これにたいしていわゆる近代経済学の人たちは、価値の概念をもつことができず、貨幣が商品の価値の形態であることを理解しません。そのために、商品と貨幣との転換を、商品自体の形態転換と見ることができず、たんなる商品と別の商品との交換、物々交換と同一視します。彼らは「商品は価格をもたずに、また貨幣は価値をもたずに流通にはいる」と勝手に思い込みます。だから流通のなかでも、貨幣量が2倍になれば商品価格も2倍に騰貴し、反対に貨幣量が半分になれば価格も半分になるといった非現実的な幻想にふけることができるのです。

2018年6月20日

「読む会」だより5月用

「読む会」だより(18年5月用) 文責IZ

(4月の報告)
4月の「読む会」は15日に行われました。(前回の報告)の部分では、最後の方で紹介した第1節での「実際に交換価値<等価物……レポータ>の働きをするためには、商品はその自然の姿を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。たとえ商品にとってこの化体が、……もっとつらいことであろうとも」(全集版、P136)のなかにある、「もっとつらい」とはどういうことか、という質問が出されました。
チューターは、引用が長くなるので、その前の……部分を省略してしまったので、分かりづらくなって、申し訳ない。そこには「ヘーゲルの『概念』にとっての必然から自由への移行や、ザリガニにとっての殻破りや、教父ヒエロニムスにとっての原罪の脱却よりも、」とある。要するに、商品にとって、価格というそれがもっているただ想像されただけの金(あるいはすでに関連付けられている金)から、現実の金へと転化(すなわち“化体”ないし“脱却”)することは、たんにヘーゲルが自分の頭のなかで行なう必然から自由への概念の“離脱”とか、自然の成長過程として行われるザリガニの旧来の殻から新しい殻への“化体”などよりも、もっとつらいことだろう。というのは、もしもその商品の生産のために費やされた労働が、他人によって社会的に必要な労働と認められなければ、それは“価値”として認められないのであり、したがってその価格を実現して現実の金に“脱却”できない(あるいはできたとしても量的に異なっている)という、自分自身ではどうすることもできない社会的な事情を抱えているのだから、というような意味だろう。それを彼特有の皮肉をもって言っている。と答えて、了承されました。

そこの記述でチューターが強調していることは、価格もまた、価値の表現としては客観的な内容をもっており、恣意的なものではないということでした。また価格が“観念的なもの”であるということは、商品の価格が商品生産者の意識や想像のなかにあるという意味ではまったくないということです。それは商品世界の中で、すでに、すべての商品が貨幣・金によってその価値を相対的に表現し、“一定量の金が”その商品と交換可能であるという姿で──すなわち価格という姿で──自らの価値(社会的必要労働量)を共通に表示するという関係をもっている、あるいはそうしたものとしてすでに社会的に関連付けられているという意味において、“観念的なもの”だということでした。
価格はたしかに“物”である「商品」がもつものであって、人間がつまり商品生産(所持)者やその意識がもつものではありません。しかし価格は、商品自体がもっている物質的な性質とは無関係であって、この意味でも商品の価格は“物質的なもの”ではありません。価格は“物”(商品)がもつものとして現われているとはいえ、価値の表現方式なのであり、諸個人の労働の社会的な同質性を(“物質的に”ではなくて)“観念的に”表示しているのです。
商品は、その価格が実現されると「ただ想像されただけの金から現実の金に転化」されますが、それは抽象的に“観念的なもの”が“現実的なもの”に移行するというようなヘーゲル的な意味ではまったくありません。それは、第2節の冒頭の商品の形態転換のところ(たより17年9月用など)で述べられてきたように、価値としての、つまり無差別な社会的な労働の対象化としての商品の「形態」の転換、すなわちその生産されたままの特殊な使用価値をもった姿から、貨幣という共通な人間労働が対象化された姿に転換されたうえで、別の特殊な使用価値をもつ商品に置き換わることで商品としてのまた価値としての姿を失なうという、商品生産のもとで社会的な素材転換が行われるための方式なのです。商品は、使用価値であると同時に価値でもあるという矛盾を、価値の形態としての貨幣を生みだし、それへの形態転換を媒介することによって、解決していくのです。そしてだからこそ、商品は生まれた時からその使用価値としての姿のほかに、価値として貨幣(価値の形態)との転換の必要を、価格という姿でもつのです。
(ただし、たとえば1本のボールペン=100円という価格においては、左辺の商品が右辺の一定量の金と任意に交換可能だということを表示しているのではなくて、右辺の一定量の金のほうが、左辺の任意の商品と交換可能であるという姿で、他の商品と共通にその価値を表現しているということに注意が必要です。)

(説明)の部分では、「貨幣の魔術」、つまり金はその金という物体、その自然属性によって他の商品と任意に交換可能のように見えるが、しかしそれは金が貨幣として社会的に認められた結果であり、すべての商品が共通の金でその価値を表現したからこそである、ということは
分かった。しかし、貨幣による商品流通の媒介はいわば当たり前のことで、「“いっそう発展した”貨幣の魔術」というようには言えないのではないか、という質問が出されました。
チューターは、マルクス自身は「b 貨幣の流通」のなかで“いっそう発展した”貨幣の魔術というようなことは言っておらず、いわばチューターの独断でこう書いた。時間も迫っているので次回のたよりで補足させてほしい、ということになり、ここで補足しておきます。

前回引用したなかでも、次の部分をもう一度読んでいただきたいと思います。
・「それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態転換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介される“ように見え”@
この貨幣がそれ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移していく“ように見える”のである。……貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。」(全集版、P152)
ここで述べられていますのは、①別の商品による商品の取り替え(つまり商品流通あるいは社会的素材転換)は、流通手段としての貨幣の機能の“ように見える”が、実際には諸商品の形態転換のからみ合いによって媒介されている。②貨幣が運動することで商品を流通させる“ように見える”が、実際に運動するのは商品であり、貨幣流通は商品流通の結果でありその表現でしかない。という二つのことです。
①についてはマルクス自身がa項の終わりで「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつ」(同、P151)と述べたのではないか、という疑問が上がると思います。商品の形態転換、W─G─Wをもっとも抽象的に語れば、貨幣Gは商品Wの流通の媒介者であることに間違いはありません。しかし、前回、前々回と久留間の図を参考にして触れてきましたように、それは直接的生産物交換W(リンネル)─W’(聖書)とはまったく違った、複雑な姿をもっているのです。
たとえばW2(リンネル)のW3(聖書)への素材転換、すなわちW2(リンネル)─G─W3(聖書)をもう少し詳しく見てゆけば、それはリンネル所持者にとっては、W2(リンネル)─Gすなわち「リンネルの売り」という前半の過程と、G─W3(聖書)つまり「聖書の買い」という後半の過程が結びついたものであり、より詳しく書けば、W2(リンネル)─G…G─W3(聖書)です。しかし、このリンネルの形態転換の過程の前半部分であるW2─Gつまりリンネル所持者にとっての「リンネルの売り」は、別の商品W1(小麦)の形態転換であるW1(小麦)─G─W2(リンネル)の後半の過程、つまり小麦所持者の「リンネルの買い」と結びついてはじめて成立します。さらに、リンネルの形態転換の後半部分であるG─W3(聖書)は、また別の商品W3(聖書)の形態転換であるW3─G─W4の前半の過程、つまり「聖書の売り」であるW2(リンネル)─Gと結びついてはじめて成立するのです。
そしてこうした過程の全体である商品流通のいわば“主役”は商品Wであって貨幣Gではなく、貨幣Gはすべての商品の価値の形態として、それらの商品の素材転換を“媒介”する役割を果たしているだけなのです。商品の貨幣への転換、そしてまた貨幣の商品への転換は、商品自体の形態の転換なのであって(すなわち使用価値の形態から価値の形態へ、また逆に価値の形態から使用価値の形態への)、商品と別の商品である貨幣との素材交換、物々交換ではない、ということが重要です。
こうしたことを見ていくと、②のように「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる」と述べられていることを、“いっそう発展した”「貨幣の魔術」と語ってもあながち間違いではないとチューターは思うのですが、いかがでしょうか。

なお、前回の引用では省略しましたが、そのすぐ後で、貨幣の流通手段の機能についてマルクスはこう指摘しています。
・「他方、貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。」(同、P153)

(説明)第2節 流通手段 b 貨幣の流通 の2回目

(2)流通に必要な貨幣(流通手段)の量は、商品の価格総額と貨幣の流通速度によって決まるのであって、貨幣量によって価格やその総額が決まるのではない──いわゆる貨幣数量説の誤りについて

マルクスはb項「貨幣の流通」のなかで次のように問題を提起します。
・「どの商品も、流通への第一歩で、その第一の形態変換で<すなわちその所持者にとっては非使用価値である或る商品の売りW─Gは、同時にすでに別の商品を売って得たGの所持者の使用価値としての買いであるのだから(久留間の図で言えば左下から右上に上がって脱落するWの流れのように)……レポータ>、流通から脱落し、そこには絶えず新たな商品がはいってくる。これに反して、貨幣は流通手段としてはいつでも流通部面に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。そこで、この部面はつねにどれだけの貨幣を吸収するか、という問題が生ずる。」(同、P153)

そしてこう答えています。
・「商品は、その価格において、すでに決定された想像された貨幣量に等置されている。ところで、ここで考察されている直接的流通形態<信用などを考慮外に置いた、商品と商品との直接の……レポータ>は、商品と貨幣とをつねに肉体的に向いあわせ、一方を売りの極に、他方を買いの反対極におくのだから、商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表わされている金総額を実在的に表わすだけである。したがって、これら二つの総額が等しいということは自明である。とはいえ、われわれが知っているように、商品の価値が変わらない場合には、商品の価格は金(貨幣材料)そのものの価値といっしょに変動し、金の価値が下がればそれに比例して上がり、金の価値が上がればそれに比例して下がる。こうして諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。」(同、P154)
・「流通過程の或る与えられた期間については、(商品の価格総額)/(同名の貨幣片の流通回数)=流通手段として機能する貨幣の量 となる」(同、P157)

そしてさらにこう触れていわゆる貨幣数量説を批判しています。
・「流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則は、次のようにも表現することができる。すなわち、諸商品の価値総額とその変態の平均速度が与えられていれば、流通する貨幣または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって定まる、と。これとは逆に商品価格は流通手段の量によって規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定される、という幻想は、その最初の代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通過程にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて、そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ、というばかげた仮説に根差しているのである。」(同、P160)

商品の流通があるかぎり、つまり商品の素材転換が滞りなく行われるためには、一定量の流通手段の量が客観的に必要であることは、価格が商品の価値の表現として決してたんなる主観的なものではないということが理解できれば、きわめて当然のことのように思われます。
価格とは、支出された社会的必要労働量として客観的に存在する商品の価値を、貨幣で相対的にあるいは観念的に表現したものでした。だから社会的に必要な流通手段の量は、貨幣として実現されるべき商品の価格総額によって決まることは至極当然なのです。
これにたいしていわゆる近代経済学の人たちは、価値の概念をもつことができず、貨幣が商品の価値の形態であることを理解しません。そのために、商品と貨幣との転換を、商品自体の形態転換と見ることができず、たんなる商品と別の商品との交換、物々交換と同一視します。彼らは「商品は価格をもたずに、また貨幣は価値をもたずに流通にはいる」と勝手に思い込みます。だから流通のなかでも、貨幣量が2倍になれば商品価格も2倍に騰貴し、反対に貨幣量が半分になれば価格も半分になるといった非現実的な幻想にふけることができるのです。

2018年5月20日

「読む会だより」4月用

「読む会」だより(18年4月用) 文責IZ

(3月の報告)
3月の「読む会」は18日に行われました。(前回の報告)の部分では、まず「W─G─Wの説明はそれなりに分かったが、美術品や工芸品など希少性のあるものはどうなのか」という質問が出ました。チューターは、以前にも触れたが、労働を投入しても生産物の数量が増えないようなものに関しては、需要や競争によって“価格”が決まるというようなことはずっと後のほうで問題にされることになる。しかし、基本的に問題になるのは普通の商品であり、いわゆる生活必需品という範囲でここでは考えていただきたい、と述べました。
また関連して、「仮想通貨や金融商品で巨利を得たというようなことが言われているが、こうした場合のGはWとW’との転換を媒介するといったことではないのではないか」という質問も出されました。チューターは、そうした場合のGは貨幣というよりむしろ商品や資本として取り扱われているだろうし、普通の商品ではないそうした金融商品では正常ではないことが当たり前のように起こってくるということはある。そしてそれらのことの、なにがどう正常でないのかを知るためにも、まずもって商品流通の基本的な姿を理解することが必要だろう。価値増殖については、次の第4章の資本のところ、つまりG─G’のところで基本的な観点やメカニズムが与えられます、と述べました。
また、「価値を実現するということは、商品が貨幣に置き換わった後に別の商品に置き換わることによって、消費の過程に入るということか」という質問が出されました。チューターは、一商品をとってみれば、そういう理解で間違っているということではないだろうが、価値の問題というのは、基本的に社会的な生産と消費の問題だということを押さえておかないとまずいのではないか、と述べました。というのも価値は、労働が社会的に管理されるのではなくて、私的な労働の生産物を商品として交換し、社会的労働が“物”の姿で現れる場合の、労働の特殊な性格であり社会的な生産のメカニズムだからです。

(説明)のところでは、最後のところで「それ(価値の価格としての表現)は、生産物をたんなる使用価値としてではなくて、同時に無差別な人間労働の対象化として相互に関係させることで社会の物質代謝をしなければならない社会において、私的な生産物がもたねばならない必然的な方式なのです。」と触れた点について、「“必然的な方式”とか言われると、分かってきたつもりであったものが、かえって分からなくなってしまう」という意見が出されました。
チューターとしては、必然性というようなたんなる言葉で説明したつもりになるのではなくて、できるだけその内容を伝えるように努力しているつもりです。ここで「必然的な方式」と使っているのは、価格表現(共通な金による諸商品の価値表現)というのは商品交換を通じて行われる社会的な生産にとって、不可欠で不可避な“仕組み(方法)”だ、という意味です。

なおその前の部分で触れたように、価格は、価値と同じく、商品自身がもっているものであって、生産者つまり諸個人がその頭のなかに意識としてもっているものではないことが、重要に思われます。その生産のために支出された社会的な労働量として、商品の価値は現実的なものですが、それと同様に、商品の価格も貨幣・金の量という物的な姿で表現されていても、価値の表現としては客観的な内容を持つものであって、生産者が恣意的に決め得るようなものではないのです。
誤解されてはならないのは、価格が“観念的なもの”であるのは、それを人間が決め得るからなのではなくて、すべての商品が貨幣・金でその価値(支出労働量)を表現するという関係を“すでに”もっており、そこでは一定量の金がその商品と交換可能だという交換可能性(等価性)で商品がその価値を表現しているからにすぎません。
第1節「価値の尺度」の最後のほうでマルクスは次のように述べています。
・「相対的価値形態一般がそうであるように、価格は、ある商品例えば1トンの鉄の価値を、一定量の等価物例えば1オンスの金が鉄と直接に交換されうるということによって表現するのであるが、けっして、逆に鉄のほうが金と直接に交換されうるということによって表現するのではない。だから、実際に交換価値<等価物……レポータ>の働きをするためには、商品はその自然の姿を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。たとえ商品にとってこの化体が……もっとつらいことであろうとも。商品は、その実在の姿、たとえば、鉄という姿のほかに、価格において観念的な価値姿態または想像された金姿態をもつことはできるが、しかし、現実に鉄であると同時に現実に金であることはできない。商品に価格を与えるためには、想像された金を商品に等置すればよい。商品がその所持者のために一般的等価物の役を果たそうとするならば、それは金と取り替えられなければならない。」(全集版、P136)

(説明)第2節 流通手段 b 貨幣の流通 の1回目

(1)流通のなかで“貨幣の魔術”はいっそう発展する、すなわち「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる。」

前回、久留間氏の流通の概念図を説明した折にも触れましたが、商品Wは、諸商品と価値で結ばれている流通界から、人間の欲望と使用価値で結ばれる消費界へと最終的には脱落していきます。他方、貨幣Gのほうは、商品Wの価値の形態として商品が消費界へと脱落するのを手助けしながら、商品の購入者(買い手)の手からその生産者(売り手)の手へと次々に移動することで、流通界のなかに留まり続けます。
「a 商品の変態」の項で見てきたように、貨幣Gの流通運動は、商品自身の形態転換の結果であり、貨幣Gへの形態転換を通じた商品流通(社会的物質代謝)の表現でしかありません。しかしそこでは逆に、貨幣こそが動かぬ商品を運動させる力(いわゆる“購買力”)をもつように見えるのであり、“貨幣の魔術”はいっそう発展した姿をもちます。
しかし、ある人が貨幣を手にすることができるのは、ただその人が商品を販売した結果にほかならないということだけから言っても、貨幣自身に購買力があるなどという理論は眉つばものです。商品交換W─W’はその全面的な発展の必要性から、WとGとに商品は二重化し、商品交換は直接的にではなくてW─GとG─W’との二つの過程に分裂して行われることになります。だからもしW’を買う“購買力”といったものがあるとするならば、それは商品に共通な価値の形態としてのGがもつものではなくて、当初のWこそが価値として、社会的労働の支出として持つと言わなければなりません。

さて以前、第2章「交換過程」の末尾で、マルクスは“貨幣の魔術”についてこう述べていました。
・「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動<諸商品の価値表現の関係……レポータ>は、運動そのものの結果<価値形態としての貨幣……レポータ>では消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない。諸商品は、なにもすることなしに、自分自身の完成した価値姿態を、自分のそとに自分と並んで存在する一つの商品体として、眼前に見いだすのである。これらの物、金銀は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間労働の直接的化身である。ここに貨幣の魔術がある。」(全集版、P124)
商品世界の価値形態として、あるいは一般的等価物として、一商品・金が貨幣であると認められるという社会的な過程は、金の自然属性とは無縁です。だから商品がその価値を共通に一商品・金で表現する結果として、金が価値形態として、貨幣として認められるという過程は、金が貨幣として認められた後になっても金物体に痕跡が残るわけではありません。だから、金が貨幣として認められたならば、金という物体、金という使用価値は、その自然形態(特殊な使用価値の姿)のままで同時に他のどんな商品とも交換可能な、あらゆる人間労働の直接的化身すなわち価値そのものとして通用します。ある商品が貨幣として認められるという自然属性とは無縁な規定が、逆にあたかも金の自然属性から生まれるかのように見えるこのようなメカニズムを、マルクスは“貨幣の魔術”と呼んだのでした。

さて、「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつ」(全集版、P151)と述べてa項を終えたのち、マルクスは「b 貨幣の流通」のなかで、いっそう発展した“貨幣の魔術”とそのメカニズムについて述べています。(久留間氏の概念図を参考にすると分かりやすいと思います。)
・「……それゆえ、商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣がある商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んで行くこと、または貨幣の流通である。」(全集版、P151)

・「貨幣の流通は、<G⇔Wの場所転換という……レポータ>同じ過程の不断の単調な繰り返しを示している。商品はいつでも売手の側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。」(全集版、P151)
ここで注意願いたいのは、「貨幣は商品の価格を実現することによって」、「購買手段として機能する」と言われていることです。商品流通がW─GとG─Wという二つの過程に分離しているということはすでに前提されています。そのうえで、前半のW─Gの過程で「貨幣は商品の価格を実現」することによって、すなわち前半部分で貨幣の姿に形態転換しているからこそ、今度は後半の過程で「購買手段として機能する」としか言われていないということです。ここでは、商品流通W─G─Wの後半部分だけを全体から切り離して、商品を売ることなしにすでに貨幣をもっているとか、あるいはその貨幣は購買手段なのだから購買力をもっているとか、そうしたことはいっさい言われていないということです。

・「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程をくりかえす。@
このような<購買手段として買い手から売り手へと移動するという>貨幣運動の一面的な形態が<W─GとG─Wという相対立する二つの過程を含む>商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。<W─GとG─Wという二つの過程に分裂した過程を、商品の価値形態としてのGが媒介するという>商品流通そのものの性質が<あたかもGが商品の交換を生みだすかのような>反対の外観を生みだすのである。@
商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる。その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める。流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける。それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。@
それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移していくように見えるのである。@
貨幣は、たえず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品をたえず<消費部面へと……レポータ>流通部面から遠ざけていく。それゆえ、<別の商品との場所転換という……レポータ>貨幣運動はただ<商品の形態転換を通じた……レポータ>商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。」(全集版、P152)

まことこうした目に映ったままの“貨幣の魔術”に目を奪われているのが、現代の経済学者たちではないのでしょうか。

2018年4月16日